第34話 初めての笑顔
彼女がいなくなり二人きりになると、ようやく旦那様は私からそっと体を離した。私はゆっくりと彼を見上げる。
「すまなかった。怖かっただろう」
……別に旦那様が謝るようなことじゃないのに。むしろ……。
「謝罪をするべきなのは私の方です、旦那様。申し訳ございませんでした。私のせいでお怪我をしたばかりに、周りの方々にまでご迷惑をおかけしているのですよね」
「……? 何のことだ」
怪訝な顔をする旦那様の前で、私は落ち込みながら言った。
「右腕を動かせないから、お仕事にもきっと支障が出ていらっしゃるでしょうし、今回の件も……。ブレイシー侯爵令嬢にお手紙のお返事を出せていなかったから、あの方も不愉快だったのだと思います。本を正せば私が……」
「いや、それは違う。彼女の手紙があまりにもしつこいから、つい面倒になってしまってな。後回しにしているうちに失念してしまっただけだ。君のせいじゃない」
本当かどうかは分からないけれど、旦那様はまるで私を庇うようにそう言ってくれた。一層申し訳なさが募る。
俯いていると、旦那様が私の手を取り、テーブルの方へと歩きだした。
「っ? ……旦那様?」
「せっかく君が入れてくれた紅茶が手つかずのままだ。少し休憩したらどうだ。もう冷めてしまっただろうが。私もいただこう」
たしかに、そこには二人分の紅茶がそのまま置いてあった。旦那様はソファーに腰かけると、向かいのソファーを指し示す。
「座りなさい」
「で、ですが……っ」
「ほら、そのタルトは隣国土産らしいぞ。開けて食べたらどうだ」
ご令嬢が座っていた場所には繊細な模様の入った高級そうな菓子箱がポツンと置かれている。……メイドの私に、これを開けて食べろと……? 旦那様が微笑んでいるのを見るに、おそらく私を和ませようとして言ってくれているのだろうけど。
「まさか……さすがにそんな、畏れ多いことは……」
「そうか? では私が開けよう」
旦那様はそう言うと、左腕を伸ばして菓子箱を手に取る。
「……片手では難しい。やはり君が開けてくれ」
「ふふ。承知いたしました」
結局私が箱を開けることになった。身をかがめ手を伸ばしそっと蓋を開けると、中には色とりどりの果物がふんだんに飾られたタルトが六つも入っていた。
「まぁ……っ」
「好きなのを選ぶといい」
「……本当に……よろしいのですか?」
「ああ。どうせ取りに戻ってくることもあるまい。このまま置いておいても腐るだけだ。座りなさい」
二度も促されたので、私は恐縮しつつも旦那様の向かいに静かに腰かけた。
「では、この苺のタルトを……いただきます」
「ああ」
ふと気付き、一度立ち上がって給湯所に準備してあるお皿とフォークを持ってきてテーブルに置き、座りなおす。けれど、私には勧めておきながら、旦那様はタルトに手を出そうとしない。冷めてしまった紅茶を口にする姿を見て申し訳なく、私は声をかけた。
「い、入れ直してまいりますので」
「これでいい」
にべもなくそう答えると、旦那様は再び紅茶に口をつける。なんだか少し気まずいけれど、せっかくのご厚意だし……と、私は苺のタルトをお皿に乗せて一口食べた。
「……美味しいです! すごく!」
「ふ……、そうか。それはよかった」
「……っ??」
何がそんなにおかしいのか、旦那様は高級タルトに感動する私を見て口元を手で押さえながら、クスクスと声を漏らして笑っている。そんな笑顔は、私がここに来て以来初めて見るもので、不本意ながら胸が高鳴った。神々しいほどの美青年から自分に向けられる満面の笑み。破壊力がすごい。
(……やだ。どうしよう。心臓が暴れてる……)
私の心臓の中には、小さな乙女たちでも住んでいるのだろうか。まるでその子たちが旦那様の笑顔にきゃあきゃあとはしゃいでいるみたいだ。激しくなる鼓動とともに、頬がじんわりと熱を帯びてきた。
その時。
「ただいま戻りましたぁ~。……あれ? ミシェル、何してるんだ? ……あ! 何だそれ! 自分だけ何食ってやがるお前!」
前触れもなく執務室に入ってきたカーティスさんが、私の手元のタルトをめざとく見つける。
「ご苦労。お前も食べるといい」
「え! いいんですか!? やったー。んじゃありがたく。ミシェルちょっとズレろ」
カーティスさんは手にしていたいくつかの荷物を置き、戸惑うことなく私の隣に座ると、箱の中から手づかみでタルトを取り出し食べはじめた。
「あ、カーティスさん。手は洗ったんですか? フォークお持ちしますので……」
「へ? いやいいよ別にこれくらい。……うまっ! ロイド様美味いっすよこれ!」
「……お前にミシェルの十分の一でも謙虚さと行儀作法が身についてくれればな」
呆れたようにそう呟いた旦那様の顔には、もう先ほどの輝くような笑顔はなかった。いつも通りの、少し無愛想で穏やかな旦那様だ。
帰ってきたカーティスさんの出先での出来事などを聞きながら、私たち三人は束の間のティータイムを楽しんだのだった。
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