集中系 短編集

たま

ヴォーカリスト

 バックヤードでの数分間、心臓が速く打ち始めるのを感じていた。

 耳には外から漏れ聞こえる観客のざわめきが響き、まるで波が打ち寄せるように私を包む。

 スポットライトの光が、カーテン越しにほのかに漏れている。

 その光の向こうで、私を待っている無数の視線を想像すると、胸がさらに高鳴っていく。


 楽屋での準備を終え、手にしたマイクの冷たい感触が指先に伝わる。

 何度も深呼吸し、落ち着かせようとするが、緊張感は消えない。

 ステージに向かう廊下を歩くと、足音がやけに大きく響く。

 リズムが速くなり、呼吸も浅くなる。


「大丈夫、大丈夫」と自分に言い聞かせるが、体はその言葉を信じていないようだ。

 カーテンの裏で待機し、秒針がいつもより遅く進むように感じた。

 頭の中で歌うべきフレーズを反芻し、声帯の準備を整えるが、気持ちは舞台に上がった瞬間にのみ完全に決まるのだと知っている。


 ステージへと続く扉が開かれ、光が一瞬で視界を埋め尽くす。

 その眩しさに一瞬目を細めながらも、足は自然とステージの中央へ向かう。

 周囲の音が遠のき、自分とマイク、そして観客だけが残るような感覚に包まれる。


 深呼吸。

 呼吸音。


 視線を上げ、観客の目を捉える。

 その瞬間、全身が緊張で震えるのを感じながら、最初の一声を放つ準備をする。

 口を開くと、胸の奥から声が湧き出るようにして出る。

 初めての一音が空気を切り裂き、会場に響き渡る。

 緊張の中にあったものが、音に変わり、ステージ全体に広がっていった。


 ☆☆☆


 スポットライトが私を包み込み、暗がりに沈む観客席を見下ろす。

 心臓の鼓動が速まるのを感じながら、マイクを握る手が汗ばんでいることに気付く。


 最初の音が響き渡ると、緊張がほどけるように体が音楽と一体化する。

 声を出す瞬間、言葉が光となり、空気を切り裂いて届く。

 音が形となり、空間を満たしていく。

 視界には、微かに揺れるシルエットと、私に向けられた期待の視線が浮かび上がる。


 その一声が、私と観客の間の架け橋となる瞬間だ。

 音が放たれたと同時に、心の中にあった緊張感が解き放たれ、ステージと一体になる感覚が訪れる。

 声が空間を満たし、音が私を支配した。

 その瞬間、全ての不安が消え去り、ただ音と共に在るだけの自分がそこにいる。


 胸の中で高鳴る感情を乗せて、次々とメロディーが流れ出る。

 歌詞の一つ一つが、私の心を切り取ったかのように、観客に届いていく感覚。

 瞬間的に感じる興奮、開放感、そして何かを失っていくような儚さ。


 曲が終わると、静寂の中に残る余韻が、私の心に深く染み渡る。

 拍手の波が押し寄せると、ようやく現実に戻されるような気がして、安堵とともに満足感が広がる。


 耳を突くようなシンセサイザーのサウンドが、胸の奥に響き渡る。

 その音が絡み合うように、ベースラインが徐々に重低音で迫ってきた。

 ステージ上の空気が、まるで弦が張り詰めるかのように緊張感を帯びていくのがわかる。


 1拍、2拍。リズムセクションが加速していく。

 最初は穏やかだったビートが、まるで波が崩れ落ちるように勢いを増し、私を呑み込む。

 その瞬間、体が自然とその流れに引き込まれていく。

 ドラムのスネアがきつく打ち鳴らされるたびに、心臓がそのリズムに合わせて跳ねていた。


 私はマイクに向かって呼吸を整え、声帯をしっかりとコントロールしていく。

 正確に。適切に。

 ヴォーカル・ピッチを正確に保ちながら、ビートが速まるにつれて、声をより力強く押し出す。

 急激にシフトするテンポに合わせて、フレーズを短く鋭く刻むように歌い、リズムの波にノってきた。


 シンコペーションが絡み合い、複雑に変化する音の層が私の耳を満たす。

 リズムが跳ね、メロディーが旋律を描きながらも、ビートはさらに強さを増していく。

 ブリッジに差し掛かると、バスドラムが一瞬の隙間をつくり、そこから一気にエネルギーが爆発する。


 その瞬間、私の声もビートに呼応するように解き放たれた。

 フレーズの最後に向けて、ビブラートを加えながら、最後の一音を鋭く響かせる。

 音楽が高まり、ピークに達した瞬間、観客と一体になったような感覚が全身を駆け巡っていく。


 ☆☆☆


「やあ、どうも。昨日まで謹慎喰らってた私です」

 ドッと笑い声が起こる。

 心臓の音が邪魔だ。


「可燃性だったんッスね。SNSって」

 ドラムが入る。笑い声。スポットライト調整。


「ワン、ツー。ワン、ツー」

 目を泳がせて、舌を出す。

 笑い声が歓声に変わっていく。


 不意に声がなくなる。

 息を吸う。


 ☆☆☆


 ――二曲目。


 イントロが始まり、ギターリフが軽快に鳴り響く。

 足元のモニタースピーカーからベースの重低音が伝わり、全身にビートが響き渡るのを感じる。

 心臓がそのリズムに合わせて鼓動を刻む。


「ここが勝負だ」と自分に言い聞かせながら、次第に高まるビートに合わせて、深く息を吸い込む。

 体の奥から声を引き出すようにして、まずは低音からスタートする。

 声帯をしっかりとコントロールし、腹の底から響くような力強い音を放つ。

 低音が、まるで地面を這うように重厚に会場に響く。


 サビに向けて曲が盛り上がり、ビートがさらに勢いを増す。

 観客が手拍子を始め、体が自然とリズムに乗って動き出す。

 そのノリに応えるように、今度は高音へと声を飛ばす瞬間がやってくる。

 胸を張り、腹筋に力を込め、声帯を細かく調整しながら、全身の力を込めて高音を絞り出す。

 頭の中で音程をしっかりとイメージし、音の軌道を描くように声を上げていく。


 高音がピタリと決まり、声が空間を突き抜けていく感覚に、アドレナリンが一気に放出された。

 ああ。キタ。これだ。最高。コレだ。


 声が届く先に、観客の歓声が波のように返ってくる。

 曲が進むにつれて、サウンドはさらに力強さを増し、私もその勢いに合わせて声を強調する。

 低音と高音を交互に繰り出しながら、リズムに乗り、ノリの良いメロディーに身を委ねる。


 ノってきた。

 今夜は、よく声が出る。

 歓声が返ってきた。

 吠え、歌い、踊る。また吠える――私が”わたし”になっていく。



 フィナーレが近づくと、最後の力を振り絞るように、再び高音を解き放つ。

 声が会場の隅々まで響き渡り、最後の一音が消えるまで、全身が歌の余韻に包まれていくのがわかった。


 ☆☆☆


 最後の音が会場に響き渡り、ステージに余韻が残る。

 その瞬間、全身が達成感とともに脱力していく。

 マイクを握る手の力が緩み、汗ばんだ指先が微かに震えているのを感じた。

 観客からの拍手が徐々に大きくなり、歓声が波のように押し寄せる。


 息を整えながら、目を閉じてその音を全身で受け止める。

 心臓がまだ速く鼓動しているが、同時に安心感が広がっていく。

 満足感と、渇望が心の中で交錯していた。


 ステージを降り、バックヤードに向かう途中、スタッフと目が合うが、頭の中はまだステージの熱狂に包まれている。

 ドアの向こうから、観客がアンコールを求める声が少しずつ聞こえ始めた。

「アンコール! アンコール!」

 その声が徐々に力強くなり、まるで一つのリズムとなって響き渡っている。


 その瞬間、心が再び緊張で締め付けられるような感覚が戻ってきた。

 もう一度、ステージに戻る準備を整える必要がある。

 楽屋で短く深呼吸をしながら、自分を再び集中させる。

 ドアの向こうで響くアンコールの声は、まるで挑戦状のようにも聞こえた。

 ――できるのか? と。


 私は再びマイクを握りしめ、すでに少し乾いた喉を潤すために水を一口飲む。

 呼吸が整い、心が再び高まるのを感じていた。

 もう一度、あのスポットライトの下に立ち、観客と一体になれる瞬間が待っている。

 そうだ。待っている。行かなくちゃ。

 できるのか?――できる。できる。できる。


 ステージに戻るその瞬間、緊張と興奮が混じり合い、胸の奥で再び心が鼓動を始めた。


 そして、ドアが開かれる。


 深呼吸。

 呼吸音。


 明るいライトが目に飛び込み、耳にはアンコールの叫びがますます大きくなっている。

 ステージに戻り、一瞬の静寂が訪れると、私は観客に向かって微笑んだ。


 そして、再びマイクに向かい、最初の一声を放つ準備をする。

 その声が再び会場に響き渡る瞬間、観客の歓声が爆発したように感じた。

 


 呼吸音。


 

 心臓の音。



 呼吸音。



 心臓の音。



 おと。

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