ねこの半回転

坂本悠

1 あらわる

 あめ色のひきのばされた夕暮れの、帰宅に際した電車内で、ふと顔をあげると、向かいのシートの老夫婦のうえ――流れゆく車窓に、猫がいた。


 え、猫――?


 まどろんでいた井之頭武史は驚いて、すぱっと目が醒める。


 もちろん、声にはださない。

 虫一匹の出現で断末魔をあげる女子ではないのはもちろんだが、こういった手合いはただの幻影の可能性がいちばんで、そうでなくても、通りすがりの看板かなにかを垣間見て、それが残像になっているだけかもしれないし、もっといえば、自分は疲れて、いまもまだ眠っているだけかもしれない。


 まばたきを二度してみる。変化なし。


 猫は、ずんぐりむっくりの、これまたずいぶんふとっちょで、白地に黄色とこげ茶色の模様があった。

 ふとめのみじかい、コッペパンのようなしっぽがついている。

 一般的な、そこらへんを散歩したり、毛繕いをしたり、ひなたぼっこをしているような猫とはちがい、どことなく、部屋のすみが好きそうなきらいがある。


「うむ、ねこである。なまえはあるよ」


 発声しなかった問いに返事がきたので、武史はとまどう。

 顔色さえ変わらない内面的動揺であり、シートでそわそわしただけだったけれど。


「ちなみに、みてわかるとおり、われは三毛ねこ。きじ三毛である。ねこに、きじとかつけるのは、ねこだか鳥だか、こんらんをまねくから、やめたほうがいいが、そういうきまりはにんげんの世界のことなので、あえていわない」


 あえていわない、とか、いってるじゃないか。


「これはおぬしのあたまに念じているのであって、いってはいない」

「ああ、でもそのほうが助かります――」


 とりあえず、武史も念じてみた。


 乗客は猫の下にいる老夫婦のほか、両サイドに営業帰りのサラリーマンとか、ふきげんそうな主婦とか、はしゃいでいる女子高生二人組とかがいる。

 あまり目立ちたくない。


「気にするな、おぬしはそんざいからして、めだちようがない。そもそも、ここは、ねこの世界とにんげんの世界のはざまであって、にんげんでいうところの、トワイライトぞおんである」


 ぞおん、の発音が遠くからせまってくる波みたいだった。


 出現の仕方からしても、ただのしゃべる猫ではないらしい。

 ただのしゃべる猫?

 そもそもこんな、大黒様みたいな猫は置物くらいでしか見かけない。


「うむ、ただものではない。そうせいのねことでも呼べばよろしい」


 創生?

 ソーセージ好きな猫じゃなくて? 魚肉のな。


「わが名は、まねまね。偉大なるけいふをもつ、ゆいしょただしきねこであり、ばかにされるいわれはない。よきにはからえ」


「まねまね……」


 武史は反復して、手のひらをうつ。


「ああ、あの、メラゴーストの?」


「モシャスは唱えぬ」


「なんだ、知ってるのか」


「内包されている。ばかにしているな?」


 猫はにらんできた。

 クマにらみを彷彿とさせる、なかなかの目つきだ。


 えっと……けんかだけは避けたい。

 こいつがいっぱしの猫で爪やら牙やらがあるなら、無防備で無装備で腕力に自信のない人間は無傷では済みそうにない。


 猫はにんまりする。


「賢明である。おまえはもう、負けている。ぜいじゃくぜいじゃくぅ」


 武史は、くふぅと息をもらしてしまった。と同時に疑問が湧いてくる。

 夢ではないなら、問題があふれてやまない。


「えっと、ねこの世界とは?」


「ではきくが、にんげんの世界とは?」


「え、」


 武史は息を呑む。吸ったり吐いたり忙しい。


「地球とか……ですかね?」


 質問を質問で返されたら質問で返し返す。


「チキュー。は。なら、ねこのそれはニクキューとでも呼べばよろしい」


 猫は動じなかった。

 ちょっとやちょっとの圧では、身じろぎひとつしそうにない。


 どうやらばかにされているのは武史のほうで、それを指摘していいかどうかもわからないけれど、そう考えてしまった時点で猫には通じたらしく、猫は面倒くさそうにすごくみじかい足のさきで、わきばらあたりをかく。


「どうやら、世界のこうぞうについて無知らしい。そして、無知の知どころか無知無知。救いようがない」


 猫は鼻息をもふぅともらす。


「やむなし、訓えてやろう」


 猫はひげをゆらゆらゆらしながら語り(念じ)はじめた――。

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