Fairy Cage ~妖精の住まうビオトーブ~

敷知遠江守

第1話 Alone Again

 大きな旅行鞄が二つ、電車の網棚の上から少しはみ出す形で置かれている。

昭和レトロを感じさせる向かい合わせの席の下からは、ディーゼルエンジンのグルグルという独特な響きが聞こえてくる。


 男はぼんやりと窓の外に顔を向け、流れる景色をただただ眺めている。

もうどれだけそうしているのかわからない。

少なくとも一時間以上はそうしているだろう。


 電車に乗った時にはまだ車内は混雑していた。

こんな大きな荷物を持ち込みやがって、そんな刺すような視線を感じながら小さくなって車内の隅にいた。

だがそんな人たちは早々と電車から降りて行った。

窓の外の景色が白から緑に変わっていくのに合わせて、一人、また一人と電車から人は消えて行った。

気付けば座席は空きだらけ。


 今の椅子に腰かけてからもうずいぶんになる。

同じ車両にお客はいるのだが、男の雰囲気に気後れしているのか、はたまたそこまで車内が混んでいないからなのか、ここまで誰も男の座る席にはやって来てはいない。


 電車はどんどん山奥へと進んでいる。

無機質な白いビルが乱立している風景は既に影も形も無く、ただただ緑、黄、紅という景色が瞳に映る。


 電車の到着を待っていた時はまだまだ暑いと感じたものだった。

秋というのはいったいいつになったらやって来るのか。

そんな風に感じながらホームで大きな荷物を両手に少し高くなった空を見上げた。

だが、こうして見ると秋が来ていないのは都会だけで、そこを離れればちゃんと秋は訪れているのだという事を改めて感じさせる。



 男は右手で耳を押さえている。

丁度窓枠に頬杖をつく様な恰好で外の景色を眺めている。

その耳にはイヤホンが差さっている。

一昔前だと片方の耳にイヤホンを差すと、宙に浮いたもう片方のイヤホンから音が漏れているんじゃないかと不安になったものだった。

だが便利な世になったもので、今は線で繋がれておらず片側はケースに収まったまま。

その心配はもうなくなった。

代わりによく紛失して買い直しになるのだが。


 電車に乗った時に携帯電話で気分の合う音楽を探した。

これじゃない、あれじゃないと指を動かし、ふと目に止まった歌手の曲をリピート再生している。

今流れているのは『アロンアゲイン』という曲である。

歌っているのはギルバート・オサリバン。


 オサリバンがアロンアゲインという言葉を発するたびに、胸にズキリと何かが刺さる。


「一人か……」


 男はぼそりとそう呟いた。


 別にその声に反応したわけでは無いのだが、列車がゆっくりと速度を落としていく。

流れる景色もその流れを遅くする。

少しだけ民家が見える。

木の電柱に電線が張られ、電灯が付いている。

恐らく幹線道路だろうに車がすれ違うには少し注意が必要な道幅である。


 日本の原風景と言えば聞こえは良い。

ようはド田舎である。


 電車は小さな小さな駅に到着。

だが到着の音はするのだがドアは開かない。

この辺りは冬季は寒さが厳しいので、ドアを開けっぱなしにすると車内があっという間に冷えてしまう。

だからドアは半自動になっているのだ。



 ぷしゅっという空気が抜けるような音がして一人の老婆が乗り込んで来た。

老婆はきょろきょろと車内を見渡すと、男性の斜め前の席に腰かけた。


 別に知り合いでも何でも無いのだが何となく小さく会釈をしてしまう。

老婆も優しく微笑み会釈を返す。

田舎ならではの光景だろう。


 床下のぐるぐるというエンジンの回転する独特な音が早さを増す。

ホームにけたたましい発車音が鳴り響く。

電車が再度走り出し、また窓の外の緑が動き出した。


「お兄さんはどちらに行かれるんですか?」


 老婆は何とも上品そうな声でそう問いかけてきた。

都会であればそんな事を詮索してどうする気だといぶかしむのだが、ここは田舎、これが社交辞令なのである。

男はどこか寂し気な笑顔を老婆に向け行き先を口にする。


「そうですか。あの辺りは山菜が美味しいので有名ですからねえ。ご旅行ですか?」


 恐らくは網棚の大きな荷物が目に入ったのだろう。

先ほどよりも安らいだ笑顔で男は否定した。

亡くなった祖父の家が今どうなっているのか見に行くのだと男は説明した。


「そうですか。お爺さんの家に。古い民家だときっと暫くはお掃除が大変なのでしょうねえ」


 老婆は相槌のようにそう言って微笑んだ。

実際、相槌以外の何ものでもないだろう。

老婆も決して会話の内容に興味があるわけではないし、ましてや目の前の男に興味があるわけでも無い。

ただ電車に乗っている間の暇つぶし。

都会では見ず知らずの人との会話は非常にハードルが高い。

だが、田舎ではこれが普通、日常なのである。


「そうですね。もう放置して何年にもなるはずですので、崩れていないか心配です」


 両親から家の鍵は受け取っている。

家にしても土地にしてもお前の好きにしろと言われている。

ちょっとした山もあるから管理できないようなら売るようにと。

それがもう数年前の話なのだ。


「お婆さんはどちらに行かれるんですか?」


 男の問いかけに老婆はふふと微笑み、医者の帰りだと述べた。

午前中に電車に乗って二つ隣の駅、つまり先ほどの駅まで行き、そこから十分以上歩いた医者へと通っているのだそうだ。

この辺りには医者が少なく、一番最寄りの医者がそこなのだとか。


「え? この電車って二、三時間に一本しかありませんよね? 乗り過ごしたら大変じゃないですか。それにそこからさらに十分以上歩きだなんて」


 田舎だから。

この辺りのこれが普通だから。

老婆はごく普通にそう言ってのけた。

都会と比べても仕方ないし、それを覚悟の上で田舎に住み続けているのだからと。


 今の世の中、お客様の利便よりも損得勘定が最優先。

世知辛い世の中だと老婆は寂しそうに言う。


「それでも以前はお爺さんに車で送って貰ったんですけどね、お爺さんも亡くなっちゃったし、私は車の運転ができませんからね」


 おかげで買い物にも難儀している有様だと老婆は笑いながら言った。

正直、なぜそんな事を笑い話にできるのか理解ができない。

まるで滅びを享受するかのようではないか。


 老婆は男が田舎生活をよく理解していないと感じたようで、田舎の生活について滔々と語った。

医者だけじゃなく、この辺りは近所にスーパーが無いから何かと大変だという話もしてくれた。

たまに熊が出るやら、猪やら鹿やらまるで自然動物園のようなどと笑いながら言うのにはさすがに辟易した。


「でも自然が豊かだから、何となく心が落ち着くのを感じます」


 男の言葉に老婆は少し小馬鹿にしたような笑いをする。

自然豊かというのは言い換えれば田舎という事だと。

さらに言えば田舎というのは多くの人にとって価値が見いだせないという事なのだと。


「もし、キャンプに来る感覚で田舎に住もうと思うのなら止した方が良いですよ。田舎はそんな場所じゃありませんからね。キャンプ場みたいに過ごして、他人の迷惑になる事をしたらすぐに居場所を失いますよ」


 村に住むのではなく村に溶け込むように過ごす。

それが田舎に暮らすという事だと老婆は助言した。


 わかりましたという男の声を合図にしたように電車は徐々に速度を落としていった。

老婆は上品な声で頑張ってくださいと言って電車を降りて行った。



”俺はお前を指導してやったんだからな。パワハラで訴えるのはお門違いだからな”



 また電車が走り出す。

ゆっくりと陽が傾いていく。

窓の外では先ほどよりも影が伸びている。


 到着する頃にはもう夕暮れになっているかもしれない。

そんな事を考えながら再度右耳にイヤホンを刺し込む。

腕に時計はしていない。

時間を知る必要性を感じていないのだろう。


 右耳のイヤホンから、またピアノの伴奏と共にギルバート・オサリバンの歌声が聞こえてくる。

アロンアゲインと。


「住むんじゃなく、溶け込むか……」

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