38.いじっぱり

 女の体を無遠慮にまさぐる豚の手に不快感が全身を巡る。


 醜い存在に囲まれ、欲望をぶつけられ、女としての尊厳を今踏みにじられようとしている。


 弱音が漏れ出た。


 その言葉に杏の表情がハッと変わる。


 (ふざけないで……こんな危険なんて百も承知で一人で臨んだんじゃない。それをピンチに陥ったら助けを求めるとかくそダサいじゃないっ)


 一瞬脳裏に浮かんだ男の顔が、自分をバカにするような笑顔をしていてむかついた杏は気を取り直した。


 不快な感覚に飲み込まれそうになった自分の体に喝を入れて怯えの表情をかき消す。


 甘く痺れていた体が徐々に正気を取り戻し、同時に足に激痛が戻ってくる。


 杏は歯を食いしばり、スキルを唱える。


 「【龍尾脚】!」


 抱えられた自由の効かない状態であってもスキルは技を齎してくれる。


 その場で回転し、杏の無事な方の脚が豚鬼オークたちを怯ませた。


 その隙を逃さぬように杏は転がるようにして豚鬼の囲いから脱出。


 激痛が走る足を庇いながらどうにか豚鬼たちから距離を取ることに成功した。


 「くっ……」


 しかし現状が死地であることには変わりない。


 杏は自分が使える切り札の回数を頭の中で数える。


 先ほど使ったモンクの技は残り二回。


 それ以外は残り一回ずつ。


 しかし足に回復を施すことを考えればもう彼女のスキルを使うことはできない。


 回復が打ち止めとなれば、一気呵成で攻撃を仕掛けるか、死に物狂いで逃げるしか現状取れる手段はない。


 杏は奥歯を噛みしめ奥でニタニタと笑みを浮かべる異常種を睨みつける。


 しかしそいつはそれすらも楽しむように笑みを深めた。


 杏の身体は豚鬼の分泌液の影響によって万全の状態ではない。


 未だに残る甘い痺れと火照りに満足な動きはできそうになかった。


 体を蹴られ、逆上した豚鬼たちが、大事なところを蹴られて悶絶している豚鬼を除いて杏を睨みつけている。


 もうそこに獣欲は感じられない。


 怒りに任せて殺す気だろう。


 その様子に奥の異常種は不満顔だが、なにも言う気はなさそうだ。


 ちらちらと心配そうに悶える豚鬼を見ている。


 【中回復ミドルヒーリング】を掛けている時間がなさそうだ。


 切り傷程度ならすぐに塞がるが、ここまで酷い怪我には多少の時間を有する。


 どうにかして回復を掛けて足だけでも満足な状態にしたいのが、豚たちはそれすらも許してくれそうにはなさそうだ。


 「ほんと、余裕のないところが女にモテない理由なんじゃないの?」


 額に掻いた脂汗。


 余裕がないのは杏の方ではあるがそれを気取られたくない杏は虚勢を張って軽口を開く。


 「がっはっはっは!!おもじれー女だなお前」


 その態度に高笑いを決める豚鬼の異常種。


 機嫌が良さそうな異常種に対して手前の部下たちにはにこらえ性はなかった。


 発言の意味を理解してか、それとも単純に態度が気に入らないのか豚鬼の一体が杏へと飛び掛かる。


 「──────ッ!」


 跳び退こうとした瞬間、脚に激痛が走りタイミングを逃してしまう。


 もう避けることの出来ない距離に迫った豚鬼の拳。


 迫る拳から顔を守るように杏は腕を交差させる。


 響く衝撃音。


 当たれば致命となる一撃はしかし、杏に訪れたものではなかった。


 何が起きたのかと杏は腕を下ろして前を見た。


 そこには豚鬼の拳を正面から受け止める幸隆の姿があった。


 「おっっっも!」


 「本堂……?」


 均衡する力を制したのはまさかの幸隆だった。


 杏はそれを信じられないといった顔で凝視した。


 「よう。運動がてらって聞いてたけど随分と激しい運動してんじゃねーかよ」


 「なんであんたがここに来てんのよ!ここは六階層よ!」


 幸隆の実力は単独でなら四階層辺りが適正。


 よくて五階層が限界な筈だ。


 それがイレギュラーで強化変異されている豚鬼とまともに正面からやりあえる実力など昨日までの幸隆ではありえない。


 「今はそれを話してる暇はないだろ。直前でお預け貰った下種の逆恨みは怖いからな」


 杏は幸隆の視線が自分の脚に向いたことに気付いた。


 「茂みの中にでも隠れてろ」


 足手まとい扱いに今日は歯を食いしばる。


 「あんたが一人であれに勝てると思うの?」


 杏が痛みに耐えながら立ち上がる。


 額に浮かぶ脂汗が杏の抱える痛みを幸隆へと訴えている。


 どこからどう見てもやせ我慢だ。


 強い意志を見せる杏に幸隆はどう言葉を飲ませるか考えるが、それよりも先に杏が口を開いた。


 「少しだけ時間を稼いでくれる?そうしたらすぐに私も戦えるようになるから」


 「その足でどうやってとか聞きたいが、俺一人ってのも多勢に無勢だからな。早くしてくれ。待たされるのは好きじゃないんだ」


 「あら、女の身支度を楽しみに待てない男はモテないわよ?……一分だけでいいわ。持ち堪えて」


 「おう、二時間とか言われなくてよかったぜ。化粧直しの時間くらい稼いでやるよ」


 杏が茂みに身を隠し、スキルを唱え始めた。


 一分。


 とても短いような時間に感じるが、幸隆を襲うプレッシャーが時間の感覚をマヒさせる。


 「かっこつけすぎたか?」


 何体もいる豚鬼と、その奥でこちらを楽しそうに観察する細身の豚鬼。


 恐らくあれがこのイレギュラーの元凶だと幸隆にも理解が出来た。


 あの豚鬼の放つオーラは他の豚鬼の物とも比べ物にならない。


 唾を飲み込み豚鬼の群れを睨む幸隆。


 そして豚鬼たちがその目が気に入らないとばかりに幸隆へと襲い来る。


 面で押し寄せる肉の塊に幸隆の顔が引きつった。


 「やっべ、ラガーマンより圧が凄いわ」


 女を庇う様に立つ邪魔な男に豚鬼たちは容赦はしない。


 幸いなのは武器を拾うこともせずに感情任せに動いていることだ。


 数に任せたうえでリーチまで差を付けられてしまえば幸隆の取れる手段はそう多くなかっただろう。


 幸隆は一番近くまで来た豚鬼の伸びた腕を掴み足を払い、崩れた豚鬼を力任せに振り投げた。


 「そおおおおおおいっ」


 腕がびきびきと痛みを訴えるがその痛みもすぐに引っ込んでいく。


 別の一体を巻き込み豚鬼が倒れた。


 少しだけ圧が小さくなるがそれでも現状が改善されたわけではない。


 幸隆に豚鬼の拳が迫る。


 それを手のひらで払う様に逸らすが、技量のない幸隆ではこの威力の攻撃を満足に逸らしきることが出来ずに腕に痺れが残ってしまう。


 怪我ではない腕の痺れは【オートヒーリング】では回復が間に合わない。


 もう片方の腕で豚鬼を殴りつけ、吹っ飛ばす。


 呻き声を上げて倒れる豚鬼だが、タフな豚鬼はたったそれだけでは塵へはと還らない。


 もう既に転ばせた豚鬼二体も起き上がっている。


 敵の戦力が一向に落ちない。


 奥の豚鬼を見ればそこには石をポンポンとお手玉してこちらをにやにやと見ている異常種がいる。


 幸隆の中でストレスが加算された。


 豚の分際で。


 幸隆はなんとなくあいつの名前に鬼が入っているのが気に入らなかった。


 鬼に対してもっと恐れ多さを抱いているからだ。


 それが俗物染みた吐き気を催すその習性に、鬼のイメージが台無しになってしまった。


 幸隆は腹にむかむかとしたものを抱えながら豚鬼の攻撃を掻い潜り、どうにか時間を稼いでいく。


 豚鬼の攻撃を躱すことに集中した方がいいのにも関わらず、堪え性のない幸隆はダメージ上等で豚鬼へと殴り返していく。


 体に、顔に痣が出来ていくが、それも幸隆の持つ【オートヒーリング】が治していく。


 豚鬼たちもその高い再生能力で体の傷を治していくが、回数に限りがあるのか、それとも他のものに依存するのか、回復のペースが落ちて行っているのが幸隆の目にも分かる。


 しかし、いくら幸隆の回復能力が群を抜いているとしてもスタミナまではどうにもならない。


 日頃から体力づくりを心がけている幸隆であっても体力の限界がすぐそこに迫っていた。


 動けなくなれば回復が間に合わないレベルでの袋叩きに会うのは明白だ。


 幸隆は残りの時間を数えるが、この時間があっているのかも自信がない。


 「うっぐぅ…………」


 そして遂に豚鬼のボディブローが幸隆へとクリティカルヒット。


 腹の内容物がびちゃびちゃと曝け出される。


 くの字に折れ曲がってその場に硬直する幸隆を豚鬼達が見逃す筈もなく次々に攻撃を繰り出した。


 いくつかはなんとか避けることに成功したが、それでも身体にダメージが残る。


 回復が間に合わない。


 幸隆の負けん気の強い反撃がいくつか豚鬼に命中するも、状況の打開にはつながらない。


 感情任せに幸隆を袋叩きにする豚鬼の囲い。


 しかしそれを一体の豚鬼が囲いを割って入ってくる。


 そいつの握るものを見て幸隆の背筋が凍る。


 囲いから炙れた一体が冷静に武器を拾い直して囲いを開かせたのだ。


 「なんだ、理性のあるやつもいるんじゃねーか……」


 苦笑いを浮かべる幸隆は苦し紛れに軽口を叩くしかできなかった。


 「杏!!流石に約束の時間だろう!待たせんな!!」


 回復が追いつかず、満足にその場から動けない幸隆は杏へと怒鳴る。


 しかし非常にも幸隆へ振り下ろされるこん棒。


 せめて一発殴ってやろうと拳を握ったその時、激しい音と共にオークのこん棒が幸隆の真横へと逸らされた。


 強弓の一矢。


 オークの握るこん棒に矢が深々と刺さっていた。


 「あっぶねぇ。マジで間一髪じゃん……」


 冷や汗を掻いた幸隆が矢の飛んできた方向を見た。


 矢を放った後の残心の姿。


 構えをそのままに残す彼女の姿は美しくあった。


 「そう言うのいいからさ、早く加勢してくれる?」


 「遅れたのは謝るけど、デートに来た女にもっというべき言葉があるでしょ?」


 「服装には気を付けた方がいいかと。それじゃ痴女だぞ」


 幸隆の頬を矢が掠めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る