親玉
激情を抑えて彼女は歩く。
変貌を遂げたこの森で、義憤に拳を振るわせながら。
汚れて臭いの付いた手袋を捨てたたおやかな手は強く握られている。
冷静になれ。
彼女は自身にそう言い聞かせる。
頭を熱くしてしまっては大事な視野が狭くなってしまう。
心を落ち着かせるため、彼女は一度立ち止まり、深く息を吸い込んだ。
胸の鼓動は収まらない。
頭に籠った熱は放熱されない。
なにより、彼女の言葉が頭から離れなかった。
あの女性にとって自分が取った行動が果たして正しかったのか、彼女にはわからない。
息を整えた彼女は自分の願いを再び思い返す。
譲れない光景。
見たい未来。
そして、守りたい笑顔。
そんなありきたりな日常のために彼女は夢を諦めて探索者となった。
一時は守れたその場所は、苦々しくも悪党によって牙を向けられてしまった。
だから彼女はその場所を守るために、無茶をする。
要らない感情を今は忘れろ。
あの人なら、取捨選択を間違わない。
自分の中に存在する憧れが、その精神性が彼女の助けとなった。
深呼吸を終えた彼女の胸に当てられた手に、震えは残っていなかった。
そこにいるのは、目的遂行に意識を絞った探索者、瀬分杏だった。
あの場所からいくらか進んだ森の中で、豚鬼の集落を杏は見つけた。
醜い豚の頭をした化け物が、闊歩するその集落には、明らかに生活の拠点となる家々が立ち並んでいた。
藁や葉で造られる簡素の建物ではあるが、あの豚鬼が雨風を凌ぐ分には問題のなさそうな程にはしっかりとした造りをしているのは彼女の目から見ても明らかだった。
(どうして魔物があんな……)
魔物の生態は今現在よくわかっていない。
人間を見たら力量差が大きくない限り、ほぼ間違いなく襲ってくるという事しかわかっておらず、そのほかの生活実態というものは全くの未知だった。
他にわかっているものと言えば、魔物同士でも敵対関係になることも多く、別種族間で争いが起きることがそれなりに報告されているという事だけだった。
人間や他種族との戦い以外の
それだけこの光景の衝撃は大きく、魔物達の組織というものが杏が思っていた以上に大きいことの証左と言えた。
もう少し、他の決定的な原因が欲しい彼女は豚鬼達に見つからないように大きく迂回して裏手へと回り込んだ。
風下に回ったためか、先ほど嗅いだばかりのあの嫌な臭いが集落の方から立ちこんでくる。
その饐えたような臭いに彼女の顔が歪んだ。
(ひどい臭い、それにあれはやっぱり……)
藁の建物の中から女性の脚が覗いていた。
この階層で消息をたったという女性達の末路を彼女は予想していた。
いやそれは必然というべきか、豚鬼が人間の女性に性的興奮を覚えるという事が発覚してしまえば、彼女たちがどうなったかなど、火を見るよりも明らかなのだから。
杏は鼻と口を腕で覆って、その場から離れた。
彼女達も助けたい。
そんな義憤も立ち上るも、彼女はそれを抑え込んだ。
あの木陰で眠る彼女とは違うのだ。
今の杏に、敵陣ど真ん中に捕らわれる彼女たちを救うだけの力などないのだから。
憧れに背中を押され、守るものを選んだ彼女の心は今や強固と言えた。
間違っていないと自分に言い聞かせながら、ぐるりと場所を変えていく。
しかし外から、見える情報では限界があった。
中央の方ならば何か分かるかもしれないが、ここからでは限界があった。
(侵入する?でも五感の優れる豚鬼達の中に入って、満足に見て回れるとも思えない)
流石にこれ以上は危険だ。
彼女の手に負える範囲から逸脱している。
(これだけ情報があれば報酬も見込めるかしらね)
第六階層の一部異空化だけでなく、豚鬼達の集落形成の情報があれば、あのけち臭いギルドであっても流石に報酬を払うのではないかと期待ができる。
成功報酬に及ばずとも、彼女が満足いくだけの支払いがあるかもしれない。
彼女は集落に入り込む危険は冒さず、今ある情報を成果物とすることにした。
彼女がここから離れようとしたその時、来た道を塞ぐように一体の豚鬼が姿を現した。
その違和感のある豚鬼の姿に彼女の目が奪われた。
その違和感は体のサイズにあった。
人間よりもはるかに巨大な体躯を持つはずの通常の豚鬼に比べてやや細身。
身長も杏と頭一つ分くらいしか変わらない。
大体2メートル前後と言ったところか。
高身長の幸隆よりもなお高いが、それでも人間の枠組と大差はないほどに、常識的な高さと言える。
見た目のサイズは他の豚鬼の方が迫力に於いて勝るだろうが、その豚鬼には見た目以上の何かがある。
その言い知れぬ威圧感に杏の心臓は圧迫されたように苦しくなるのを感じ始めた。
(あれが……原因っ)
それは直感だった。
あの豚鬼が放つオーラは他の豚鬼を圧倒している。
幸いにも樹々の中に隠れる彼女の姿は奴に見られていない。
彼女は奴をこの階層の異常化の原因であると判断し、ここから脱出して情報を持ち帰ることを決めた。
あと数歩、奴が歩けば彼女を通り越す、その直前──────風向きが変わった。
(まずい……!)
靡く髪を抑えながら、顔を強張らせた。
裏手側へと吹いていた風は反転し、杏の立ち位置が風上へと移る。
距離がこれだけ近い状態で、鼻の利く豚鬼の方へと吹く風に、彼女は不運を恨んだ。
最後の匂い消しは救えなかったあの女性に使ってしまった。
だから今は、豚鬼との距離と風向きに注意しながら構想をしていたが、ここにきて彼女は運命に裏切られることになった。
歩いていた豚鬼が立ち止まる。
鼻がひくひくとうずいている。
そして臭いを追った豚鬼は寸分違わず彼女のいる位置に目を向ける。
その目と口は狂気に歪んでいた。
獲物を見つけた獣のように。
無抵抗な女を差し出された浮浪者のように。
その顔は獣欲に塗れていた。
(見つかった!)
杏はすぐさまに逃げの一手を打った。
敵は鈍重な豚鬼一体。
彼女からすればこれだけ広い場所ならば、逃げに徹すれば豚鬼から逃げることなど容易だと、そう考えていた。
道に出て、豚鬼に背中を向けて走り出す。
(他に連れはいない。これなら逃げ切れるっ)
奴が追いかけてくる気配もない。
諦めたのかと思ったその瞬間、何かが腕を掠めて、その先の樹の幹を穿った。
「つぅっ───!」
痛みの走る腕を見ると血が流れていた。
音のした樹は幹が抉れ、今にも倒れそうになっている。
後ろを振り向いた。
そこには変わらず、立ち止まったままの奴がいた。
しかし、手に持ったそれを見て攻撃手段を察した。
「投石っ……」
ボールのように石を手の上で跳ねさせて遊ぶ豚鬼。
投石。
たったその一手で、杏は逃げるという最終手段を封じられてしまった。
次に背中を向ければおそらく簡単に当てられるだろう。
彼女の直感はそう告げている。
覚悟を決めて小剣を抜き放ち相対する。
敵は見たことのない豚鬼の異常種。
体は比較的小さく、それでもまだ鈍重そうだ。
しかし、他の豚鬼が見せたことのない投石技術を有しており、知能も高そうだ。
そして他のおかしくなった豚鬼同様に見せる表情は下卑たものだった。
体格、知能、投石、性対象。
そんなどこか人間くさい豚鬼に向かいスキルを唱える。
出し惜しみはしない。
「アイスランス!」
トリガーワードの直後、杏の肩口に現れた小剣サイズの氷の槍が、目の前の豚鬼に向かって飛んでいく。
質量の優れる氷の槍が持つエネルギー量は豚鬼の投げた石よりも大きい。
当たれば豚鬼とは言え、ただでは済まないはずだった。
「うそ……」
胸に突き立とうとしていたその氷の槍は、しかし豚鬼の両手にその勢いを殺されて捉えられてしまっていた。
口を大きく歪めて笑う豚鬼。
こんなものかとでも言うようにその笑みを彼女に向けてくる。
彼女の放ったスキルは空しく捕まり、そして力を込めた豚鬼の手によって簡単に砕かれてしまった。
「くっ……!」
彼女は一瞬呆けてしまうも、気持ちを切り替えて戦いに臨む。
ただ簡単に遠距離から魔術スキルを放っても奴には通用しない。
それだけの技術を彼女は有していなかった。
だから彼女は豚鬼に向かって駆け、距離を詰めることにした。
豚鬼は距離を詰めてくる杏へとこん棒を奮う。
リーチに優れる豚鬼の方が、攻撃の初手は早い。
しかし、他の豚鬼に比べてやや早い程度の速度では彼女の猫のような身のこなしを捉えることはできない。
高跳びのようにひょいっと身を翻しながら避ける杏。
一瞬彼女の顔と、豚鬼の顔が近くで交差した。
「息が臭いのよ!」
ただ避けるだけでは終わらない。
視線が交錯した彼女は、曲芸のように空中で小剣を豚鬼の首目掛けて振り払う。
探索者としての膂力を以てしても彼女の剣は豚鬼には通じない。
それはさっきの戦いで満んだばかりだ。
「ハードスラッシュ!」
だから彼女はより強力は攻撃を可能とするスキルで豚鬼へと剣を斬りつけた。
「ぬぐぅ……」
スキルによって矯正された彼女の剣筋は見事に豚鬼の首を一閃。
深く傷をつけることに成功した。
吹きあがる血しぶきと豚鬼の苦悶の
手ごたえを感じた杏は豚鬼の背後で器用に地面に着地して、追撃を試みる。
「ぢょうじにのるなっ」
その言葉に一瞬呆気に取られて杏は攻撃の手が一泊遅れてしまった。
「しまっ───」
豚鬼の反転は思った以上に早かった。
その振り返りとともに振るわれる横薙ぎの腕も速い。
彼女はその長い腕を回避しきれずにもろに食らってしまった。
片腕を間に入れて衝撃を和らげるも、身体を襲う衝撃は今までに食らったことのないほどの衝撃だった。
太い樹へとぶつかり肺の空気が漏れ出し喘ぐ。
身動きが上手く取れない。
「──────」
杏の口が小さく動いている。
その間に豚鬼は彼女の目の前へとやってくる。
「なまいぎ、だが、いいおんな」
その豚鬼は欲情に満ちた顔で、確かに人語を喋っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます