5


 翌日も王都は素晴らしい快晴だった、まさに観光日和である。

 ルチアはまず、中央大聖堂を案内することにした。

 中央大聖堂は太陽信仰の総本山であると同時に、王宮と双璧をなす王都で最も優れた建築の一つだった。

 太陽に向かって高くそびえる荘厳な大聖堂は、その名に恥じぬ重厚さを湛えている。

 色大理石をふんだんに用いた建物正面部には太陽を模した円形の窓が中心に位置し、その周辺には聖人たちの姿や聖なる草花、動物などが彫り込まれ、見る者を圧倒する風格を有していた。

 二人は朝の祈りを終えた人々が出てくるのを待ち、中へ入った。

「君は祈りに参加していないんだね」

「ああ、大司教様曰く、神の意志そのものたる天使に祈りは不要なんだって」

 大聖堂には側廊の高い窓にはめ込まれた色硝子から光がたっぷりと差し込んでおり、あざやかな影を床に落としていた。

「あの窓の色硝子が聖典の様々な場面を表しているんだ」

 色硝子は側廊の太陽神の降臨の場面から始まり、内陣の中央にある再降臨の場面までが描かれていた。再降臨は太陽神が姿を隠す前に人々に約束したことであり、それがいつになるかは今なおわかっておらず、神学者たちの間でも解釈が分かれている。太陽の眷属であるルチアも全く知らないことだった。

「あれが天使?」

 ノイアが一枚の色硝子を指さした。太陽神のもたらした奇跡の数々を描いた場面のものだった。その中に羽の生えた子供たちが描かれている。

 太陽の神が生まれてすぐに亡くなった子供を哀れんで蘇らせ、蘇った子供たちがその奇跡に喜ぶ場面だ。彼らはその後太陽の神の眷属となる。そして、太陽の神が地上を去る直前に告げられた命により、人間の幸福と安寧のために働くこととなったのだ。

「その通り。実際の天使に翼はないが、ああいった絵の中では天使には翼が生えているものとして描かれる。翼のある神と混同されたことがきっかけと言われているが、天と地を繋ぐものだから翼があると考えられていたと主張する人もいる。私も詳しいことは知らない」

 天使の紋章も薔薇と翼を主たるモチーフにしている。しかし、天使の翼は人々の共通認識と、絵の中にだけ存在するものだった。

「君も私に会って驚いたか?」

「いいや、初めから君に翼がないのを知っていた。何度も生まれ変わることも」

「君みたいな正しい知識を持っている人の方が珍しいよ、出会ってすぐがっかりされることもある」

「それはひどい、君と出会えた幸運に感謝すべきなのに」

 ノイアは真剣な口調で言った。その視線の先にあったのは聖剣を持って邪神を打ち倒す太陽神の図を描いた色硝子だった。それに気づいたルチアは慌てて言った。

「さあ、次の場所へ行くとしよう。見てもらいたい場所が多いんだ」

 大聖堂を後にすると、図書館や美術館などを軽く見せて回った。その気になれば丸一日を費やしても全てを見て回るのは難しいが、王都には他にも見るべき場所が多いため簡単な紹介だけに済ませた。

「さて、次は外に出て王都を見て回ろう。何か見たいものは?」

「君にお任せするよ」

「では劇場へ行こう、今日は演劇をやっているはずだ」

 ルチアはうきうきした調子で言った。

 大聖堂の敷地を出て王都に繰り出し、南側にある劇場へと向かった。

 半円形の舞台を擁する野外劇場で、客席はなだらかな斜面にそって扇状に広がる。客席の上には日差しを遮るための天幕が張られていた。

 この劇場ではルチアもほとんど注目を集めなかった。演劇を見に来た客たちの視線は、舞台や袖で待機している役者たちに向けられている。

 劇場にはすでに多くの客が集まっていた。付近には屋台も出ており、良い匂いが漂っていた。

「甘いものでも食べながら見よう。……なあ、ノイア。さっきからどうした?」

 ルチアは菓子の量り売り屋台の前で尋ねた。

 ノイアは先ほどからずっと上の空で、周囲を警戒しているようだった。

「何でもないよ」

 ノイアはさっと代金を払ってルチアの手に菓子の入った箱を置いた。あまりにも自然で流れるような動きだったので、ルチアは反応が遅れた。

「あ、ありがとう。でもなぜ君が払ったんだ?」

「君以外のものに気を取られたことへのお詫びだ。さあ、席を探そう」

 二人は劇場の空いている席に座った。前方はほとんど埋まっていたので、後ろから三列目の席だった。

「今日はホリム島の伝説の演目だが、君はあまり興味なかったか?」

「そんなことないよ」

 そう言いながらも、ノイアはまだ周囲に意識を向けているようだった。周囲にいるのは演劇を見に来た人々と屋台を出している商売人ばかりで、妙な人は見当たらない。

 ルチアは先ほど買ってもらった菓子の箱を開けて、アマレッティを一つ口に放り込んだ。

 まもなく開演の時間だと半円形の舞台に上がった役者が告げたころ、ノイアがルチアに耳打ちした。

「少し外す、ここにいて」

「え……? おい、ノイア!」

 ルチアが止める間もなくノイアが行ってしまうと、ちょうど演奏が始まった。劇の始まりの合図だった。

 追いかけるべきかしばし悩んだが、結局席を立ってノイアを追いかけた。

 立ち見の客たちの間をすり抜け、ノイアの姿を探す。しかし、すでに彼の姿は見えなくなっていた。ルチアはお菓子の箱を持ったまま右往左往し、結局ノイアが戻ってくるのを待つことになった。

「ルチア!」

 名前を呼ばれてはっと顔を上げた。ノイアが駆け寄ってくるのが見えてルチアは安堵する。

「ノイア、どこに行ってたんだ?」

「何でもないよ、それより劇は?」

「私はこの演目見たことあるから、君を無視してまで見ることはない」

 ルチアはアマレッティを一つ取って口に入れた。甘い味で心の中に広がっていた不安が和らぐ。ノイアの手にも無理やり一つ置くと、ノイアは苦笑しながら食べた。

「君、一体何してたんだよ。さっきは随分と剣呑な様子だっただろう。先に言っておくが、何でもないはなしだ」

 ノイアは腕を組み、じっとルチアの顔を見つめて考え込む様子を見せる。

「やっぱり君は、俺に興味を持ってくれてるってことだよね?」

「ふざけるのはよせ。本気で心配してたんだ、答えてくれよ」

「さっきは殺し屋を差し向けられたから返り討ちにしてきたんだ。王都ってもっと治安がいいかと思ってたよ」

「それは……、まだ、ふざけてるのか?」

 ノイアの軽い物言いに、ルチアは確信が持てなかった。ノイアははぐらかすように微笑む。

「今のは俺が悪かった、どうか忘れてほしい。君と喧嘩したくないからね。まだ一緒に観光してくれる?」

 今度は一転して殊勝な態度を取る。しょぼくれた顔で言われては、強くは出られないのがルチアだった。

「ま、まあいいよ。言いたくないことを無理に言わせたいわけじゃない。君もそうしてくれたし……。でも、突然いなくなるのは心配だからやめてくれよ」

 うん、とノイアが素直に請け負った。

 ルチアは公衆浴場や市場といった主だった観光地のいくつかをノイアに見せて回った。ノイアはもう上の空になることもなくルチアの熱心な解説を聞いてくれた。

「君はこの街が大好きなんだね」

 噴水広場でノイアは言った。石像の女神たちが持つ水瓶から透き通った水が絶え間なく流れ落ちていた。

「ああ、育った街だからな」

「でも出て行こうとしている」

 ルチアは足を止め、またしても買ってもらった棒付き飴から口を離し、ふっと笑った。

「咎めようとしてるのか?」

「まさか、事実を言っただけさ」

「君、私のことは知ってるんだろう。だったらなぜ出ていきたいのかもわかるはずだ」

「ここにいても何にもならないから」

「その通り」

 神々と戦うために生まれた剣の天使には、平和な地に本当の居場所は存在しない。

 月の神のおわす王都に他の神はおらず、人と神との狭間に立って調停する存在は不要だ。戦うべき神もおらず、人と神との諍いも存在もない。

「王都の外では魔性が出ると聞いている。そして誰もそれに対処できていないとも。本当はずっと助けになりたかった。子どもに救われるものが在ってはならないという大司教様の方針で、王都の外に出るのを禁止されていた。でも、私はもう十六になった、人間であれば成人する年齢だ。だから一刻も早く出ていきたいんだ」

 新聞や噂で魔性が語られるとき、何もできない天使への揶揄も同時に語られる。役立たずのお人形だと。

 ルチアもまったくその通りだと思っていた。このままでは、生まれてきた意味がない、と。

「君は今日にだって外に出ていくことができる、俺さえいれば」

 ルチアは力なく笑った。

 それでも出ていくことができないとは言えなかった、首輪の存在だけは知られるわけにはいかなかった。フローライト本人から行動の真意を聞くまでは大ごとにはしたくないと思っていた。天使と王女の間で諍いが起こったと周囲に知られてしまっては、問題は二人の手を離れて周囲の大人のものになってしまうだろう。

 代わりに同じくらい大事なことを言った。

「私は一人で行きたいんだ。危険な地へ赴くのだから、誰も巻き込みたくないんだ……」

 それはルチアが魔術師たちに勝負をしかける理由の一つで、初めて吐露したものでもあった。人間は守るべきもので、天使よりもずっと弱くてもろい存在だ。

 しかし、そんな人間であっても、ルチアに勝負に勝って強さを証明してくれる誰かがいれば、ルチアは自分を納得させられるかもしれないと思っていた。

「ルチア、君は人間を愛しているけど、信頼はしていないんだね」

 ルチアはどきりとした。すこしも言い返せなかった。真実その通りだった。

 黒曜石の瞳がルチアをまっすぐに見つめていて、それは出会ったときに感じた影のような予感を思い起こさせた。

 吸い込まれてしまいそうな深い色に、ルチアは目が逸らせなくなる。

 ノイアは間違いなく強い、そして優秀で頭が切れる。この短期間の間に、それを嫌というほど感じさせられている。

「明日こそ勝負をしようよ、ルチア」

「……いいだろう、受けて立つ」

 ルチアは階段に飛び乗ってノイアと視線の高さを合わせ、両腕を広げた。

「私が逃げる範囲は王都の城壁の中のすべて、私を見つけ、捕まえられたら君の勝ち。建物や道を破壊したり人を傷つけたりするのはもちろん禁止、違反者は即刻失格。君が勝てば私の護衛になれる」

「君が勝ったら?」

「私は何も変わらない。私は君を三十一番目の敗北者にして、他の魔術師と同じように君が王都を去るのを見送るだけだ」

「……そうしていつか王都を一人で出ていく?」

 そうさ、とルチアはうなるように言った。

「私は、私を縛る全てから、逃げ出してやるんだ」

 風が吹いて、ルチアの長い髪が巻き上げられた。

「私が私であるために」

 夕日にきらめく髪の向こうで、ノイアが静かな笑みを湛えていた。

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