第20話 グッバイ追跡者 12

「上原が山へ行って帰ってきた時、妙な感覚がしたんだ。まるで昔を思い出すような……子供の頃にも同じような人がいた。顔が黒いままの人がいて、その時の目がね、上原と同じだったんだ」


「その人はどうなったんですか?」と僕が訊ねると、禰宜は少しためらってから答えた。


「ああ、自殺したよ。村の人間だったが、山へ入ってからは様子が変わってしまった。まるで別人になったようにね……村では誰もその話をしたがらないが、昔からそういうことが続いてるんだよ」


 禰宜の話は、鏡山村の異様な歴史に深く根ざした何かを示唆していた。


「――そうですか」

 この人を信じてみようか――と、不意に頭に浮かんだ。

 ごくりと唾を呑んで、震える手で鞄から上原の手紙を取り出す。

「あの……信じられないかもしれないですが……」

「僕も、その顔が黒いままの人と同じかもしれません」

「は?」

 禰宜はポカンと口を開けて、怪訝な顔をした。

 ダメか。

「――いや。すいません」

 僕は出しかけた手紙を再び鞄へ戻そうとした。

「いや。待て。待ってくれ。なにが言いたい?」


 禰宜の目は真剣だった。

「ずっと、なにもできないまま死ぬのかと思うとったが――あんた……」

 僕は震える手で上原からの手紙を取り出し、禰宜に差し出した。

「これ、読んでいただけませんか」


 ☆☆☆


 禰宜は僕を一瞥して、手紙を受け取り、読み始めた。

 最初は無表情であった禰宜の顔が、読み進めるごとに顔色が次第に変わっていく。

 読んでいる間、彼は何度も手紙から目を離し、僕の顔をじっと見つめた。

 その度に、僕の心は早鐘を打つ。

 禰宜の目には、次第に理解と恐怖が入り混じったものが浮かんできた。


 手紙を読み終えた瞬間、彼の顔は真っ青になり、口元が震えていた。

 まるで信じたくない現実が目の前に広がっているかのように、何度も手紙と僕を見比べる。

 そして、重々しい沈黙が流れた。


 上原からの手紙の内容を読み終えた禰宜は、その場で言葉を失ったように見えた。

 手紙を何度も見直しながら、何かを必死に思い出そうとしているかのようだった。

 僕の顔を何度も確認し、まるでこの手紙と僕が同じ存在であるかのように感じているのだろう。


「……本当なのか?」

 禰宜の声は震えていた。

 彼は手紙を置き、何度も深呼吸をしてから僕を見つめた。


「こんなことが――いや、そんな……」


 僕は禰宜の混乱を理解できた。

 前の人生では、誰にも信じてもらえなかったことを今、この人物が信じるかもしれないという希望が胸に浮かんだ。


「僕も、上原が書いている”分岐点”について知りたいんです」

 僕はゆっくりと、慎重に言葉を選びながら禰宜に話しかけた。

「この手紙が、ただの妄想だと思われるかもしれません。でも、彼の死には何かもっと深い意味があるように思えてならないんです。僕はそれを追い求めている。異なるループへの移行、そしてそのための選択肢――それを見付けないと大変なことになる予感がして……」


 禰宜は少しの間黙り込んだ。

 彼の目はどこか遠くを見つめていたが、やがてゆっくりと頷いた。


「わかった。あんたがこの手紙を信じているのなら、私も何か協力できるかもしれない」

 禰宜の声は低く、だが決意に満ちていた。

「明日だ。境目の話を詳しく話そう」


 僕は軽く頷き、手紙を鞄にしまった。

 この時、確信した。

 この人が信じてくれたと言うのなら、僕は一歩前進したのだ。

 次に何をすべきか、その道筋が少しずつだが、やっと見えてきた気がした。


 ☆☆☆


 夕方、温泉宿から一時間ほど温泉を利用してもいいという許可をもらい、僕たちはほっと一息つける瞬間を迎えた。

 温泉から出てくると、サダコが既にくつろいでいるのが目に入った。

 リラックスしすぎて、まるで自宅にいるかのようだ。


「どこか行ってきたのか?」と僕が訊ねると、彼女は肩をすくめて「どこにも行ってないよ」と答える。


「何しに来たんだ、お前は」と、思わずため息が漏れた。


 そのやり取りの最中、フィールドワーク班がどやどやと宿に戻ってきた。

 疲れた様子を見せながらも、みんな満足そうだ。

 温泉へと向かう彼らの姿を見送る中、村への聞き込みを終えた女性陣は、すでに宿の手伝いをしていた。

 みんなが協力的に動いている様子を見ると、サダコにも少しは見習って欲しいと思わずにはいられなかった。


 僕は、宿の女将に礼を言うために立ち上がり、「今日はありがとうございました」と言うと、女将は優しい笑顔で「明日もどうぞご利用ください」と返してくれた。


 その瞬間、僕らは心の中で思わずガッツポーズを決めた。

 明日も同じように、快適な場所で過ごせることが確約されたのだから、気持ちはすっかり軽くなっていた。


 ☆☆☆


 夕食は、宿から少し歩いたところにある近くの喫茶店を貸し切って行われた。

 食事だけでなく、ミーティングの場にもなり、みんなが席に着くと、賑やかな会話が始まる。


 喫茶店に入り、全員で軽食を頼んだ。

 僕は、大学生特有の飲み会のような雰囲気にならないように計算していたが、そんな心配は無用だった。

 オカ研のメンバーは、飲み会に夢中になるような集まりではない。

 むしろ、皆が自分の成果を発表したくてうずうずしている様子だった。

 緊張感を持ちながらも、目を輝かせて次のミーティングに臨むメンバーたちの姿を見て、僕は自然と微笑んだ。


 その時、ふとメンバーを見渡して、僕は、はたと気が付いた。

「ゼミのカップルはどうしたの?」と尋ねると、全員がきょとんとした顔をしている。

「前畑くんと阿部さんだよ」と僕が言うと、誰も反応しない。

 いや、むしろ、全員が不思議そうに首をかしげている。


「それ――誰ですか?」と、中嶋さんが僕に訊ねる。

 メンバー全員が知らないようで、僕の言葉が空気の中に溶けていく。

 確かに一緒に鏡山村まで来たはずの二人が、今ここにはいない。


 僕は思わず後ずさった。

 恐怖が背筋を駆け抜け、冷や汗がじわりと額に滲む。

 前畑くんと阿部さん。

 確かに一緒に行動していたはずだ。

 二人で裏山に行くことを確認したし、阿部さんは「鍛えているから大丈夫です」とはっきり言った。

 なのに、今ここにいない。そして、誰も彼らを知らない。


 混乱が押し寄せ、思考が絡まり、まとまらない。

 何かが壊れている。

 現実が崩れかけている感覚。

 自分だけが何かを見落としているのか、それとも僕だけが真実を知っているのか?


「誰ですか?」という中嶋さんの声が耳の奥で響く。

 まるで自分が別の世界に迷い込んだような気がして、足元がふわりと浮くような感覚に陥る。

 息が浅くなり、胸が締めつけられた。


 どうして誰も彼らを覚えていないんだ?


 存在していなかった?

 いや、そんなはずはない。

 僕は確かに彼らと話した。

 前畑くんと阿部さんのレポートを受け取って、彼らと直接やりとりした記憶がある。

 二人とも優秀だった。


 彼らが裏山へ行くことを確認し、会話したのは確かだ。

 それなのに、なぜ皆は彼らのことを知らないと言うんだ?


 胸の奥からじわじわと息苦しさが広がっていく。

 頭の中では必死に記憶を掻き集めているが、何かが引っかかる。

 まるで、現実が歪み、違うルートに入り込んでしまったような感覚だ。

 呼吸が浅くなり、空気が足りない。

 僕の世界だけが異なっているのか?

 他の皆は、何も知らずに過ごしているのか?


 喉の奥が絞めつけられ、何もかもが遠ざかっていくような感覚に襲われる。

 視界の端が暗く滲み、心臓が重たく鳴り響いていた。

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