6-2

第27話

土曜日の午前8時05分。


すっかり寝坊してしまった。


というか、あんまり眠れなかった……




――昨夜。


足腰の力が抜けて動けなくなってしまった私を、蒼は抱き上げて2階の私の部屋まで運んでくれた。


抱き上げた、といっても肩に担ぎあげたという感じだったけど。民家の階段だからね、安全性を考慮したみたい。


彼は荷物のような私をそっとベッドに横たえて、かけ布団をかけると頭を撫でて言った。


「もう寝ろ。俺はそろそろあいつらのところに戻らないと」


そうして照明を消して部屋を出て行くとき、私を振り返って不敵な笑みを浮かべながら、勝ち誇ったように付け加えた。


「これから時間はいくらでもあるからな」



……捕食動物に追い詰められた草食動物の絶望感が、なんとなく想像できたように思った。



結局、あまりの衝撃の大きさに朝方まで眠れずに右に左にごろごろと、長い長ーい夜を過ごしたのだ。



不可解で不思議で、なんとも複雑な気分。


まったく、嫌な感じはしないけど……


一方では得体のしれない不安でいっぱいだった。


名前も知らない、二度とは会わない(と思った)ひと。


だから、結構、酔いに任せていろいろなことを話してしまっていた。


そうなのだ。


人間関係以外にも、情熱とか、欲望とかも……


蒼は誰にも言えないような私の、かなりいろいろなことを知っている!


(のたうち回りたいほど、恥ずかしい……)




――私は彼のことを、まだほとんど何も知らないのに。



空が明るくなりかけるまで起きていた記憶はある。限界を超えて眠気に負けてうとうとして、たぶん、2時間くらいは寝ただろうか。


スマホを見ると8時を回っていて、諦めて起きることにした。



私の部屋は2階にある。部屋続きには専用のバスルームもある。


ネロリの精油を垂らした湯船に30分くらいつかれば、気持ちが落ち着いてくる。チュニックにレギンスの動きやすい恰好で降りて行き、朝飯を作り始める。


昨夜、キッチンは衝撃の舞台と化していた。


でも今朝は、いつもの朝のいつもの静かな日常だ。


紅しょうがを刻んで入れただし巻き玉子を焼きながら、ふう、とため息をつく。


「これから時間はたくさんある」って、どういう意味だろう?


もう海外には、当分行かないってことかな?




「おはよう! いい匂いー」


9時10分、暉が元気いっぱいにキッチンに現れる。その後ろから暉のTシャツとスウェット姿のよれよれのヒロトさんと、黒ぶちメガネを外して涼やかに平然とした蒼。


昨夜はあんなに酒臭かったけど、誰も二日酔いはしていないみたいだ。


「暉! こんなのが毎日食べられるなんて……お前はなんてラッキーなんだ!」


食卓に並んだ朝食を見て、ヒロトさんが感嘆する。そんな、たいしたものでもない。時間もなかったし、冷蔵庫にあるものの間に合わせだ。


だし巻き玉子に特製たれ漬け鮭を焼いたもの、ニンジンのおひたしの胡麻和えと豆腐と小松菜の味噌汁。


「うちには母親がいないからな。小さいころから朔メシが俺には家庭の味なんだ」


はは、と笑う暉の肩を蒼がぽんぽんと叩く。


「母親がいても料理するとは限らない。うちの母親は米も炊けなかった」


炊き立てのご飯をよそいながら、私は首をかしげる。


「炊けな、かった?」


過去形?


蒼はふと口の端を上げた。


「いや、生きてるよ。仕事の利害上離婚はしなかったけど、俺が10歳になる前くらいから家にはいなかった。ついに2,3年前に離婚したけど」


あ、なんか、ひとつ新事実。


「はーあぁぁぁ、酒漬けの体に染み渡る! うちの嫁にもこんなの作ってほしい……」


ヒロトさんが切なげに言う。暉はくすくすと笑って教えてくれる。


「こいつの嫁は5コ下のバリバリのITエンジニアで、料理は興味がないからって全くしないらしいよ。あ、こいつは高校の化学教師で、嫁は教育実習の時のもと教え子なんだ」


「そ、それはよろしいことで」


私は乾いた作り笑いを浮かべる。暉は顎で蒼を示す。


「あいつは昨日、留学先から帰国したばっかりなんだよ。親の事務所で働き始めるまで、ウチの手伝いをしてくれるってさ」


「ジムショ?」


本人はもくもくと食べることに集中している。代わりに暉が説明する。


「法律事務所。こんな生意気そうでチャラい顔してるけど、弁護士なんだよ」


あ、どうりで、話を聞きだすのがうまいはずだ……新事実、ふたつめ。


「顔は関係ないだろ」


ヒロトさんが苦笑する。そしてそれを暉がふんと鼻で笑う。


「お前もチャラい化学教師だしな」


「なんだよ。そういうお前は存在自体がチャラいじゃないか」


ぎゃーぎゃーと言い合いを始めるふたりに関係なく、蒼は食事を続ける。止めるべきか、放っておくべきか。私がそわそわとしていると、それに気づいた蒼が言う。


「放置でOK。あいつら、基本的に中身はずっと8歳くらいだから」


はは。確かに小学生レベル。多分、高校の時からこんな感じなんだろう。



「暉、屋根部屋の事務所に置くデスクとかPC買いに行きたいんだけど」


後片付けをしながら言うと、スマホをチェックした暉はうーん、と首を横に振る。


「今日は税理士と約束があるんだ。明日も提携会社とビデオ会議があるしなぁ。あ、蒼と行ってくればいいよ。蒼、朔を頼んだ」


「えっ?」


「じゃあ、ついでに俺の新居の家具も見てくるよ」


動揺する私の後ろで、ヒロトさんが洗った食器を乾燥機に入れながら蒼が平然と言う。


「おう、よろしく。じゃあお前ら出るときに俺とヒロを駅で降ろして行って」



(……)


なんか、なんか、なぁ。



気まずいと言えば気まずいけど、考え方によっては、ふたりきりのほうが話しやすいかな。



なんだかまたいきなり、変なことになってきた。

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