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第24話

暮れなずむ晩春の空が黒い岸壁の間に見える。


やわらかな夕日が頼りなげに消えかかり、ラヴェンダー色の宵闇がふうわりと溶けこんでくる。


ヴァラとヒューは庵から川を渡った野原の上にいる。




「私は、自分を産んだ母の顔を知らないの。そっくりだと父上が言うから、たぶん似ているのだろうけれどね。生まれた時に祝福を与えて使い魔のふわふわ雪を付けてくれて、結界で守ってくれている祖父にも物心ついてからは会ったことがないの。でも二人が私のために置いて行ってくれた魔術教書グリモワールと、乳母うばで師匠のばばのおかげで、いろいろな知識を得ることができているのよ」


ぽっかりと銀の月が低い空に現れる。その小さなまるい月を見上げながらヴァラは独り言のように語り、ヒューを振り返って微笑んだ。


「竜についても、多少は学んでいるの」


ヒューは好奇心をブルーグリーンの瞳に浮かべて微笑み返し、ヴァラの話に耳を傾けている。


「どんなこと?」


「たとえばね、竜って、どんな存在だ思う?」


「よくわからないけれど……権力とか自然の驚異とか、何かとほうもなく強大で人間には逆らうことのできない、畏怖すべきもの、みたいなものの象徴かな」


「すばらしいわ。すごくいい線いってる。そうね。目に見えるものでいえば、たとえば水の流れが一番わかりやすい。流動的なものは蛇に似ていて、川や泉、そのほかの水脈が太古は蛇にたとえられ、それが次第に翼をもつ、空を飛ぶ、火を吐くという竜にたとえられるようになったの」


「なるほど。ケルトのリンドヴルムやピクト人のワーム、ギリシアのヒュドラみたいなものかな」


「よく知ってるね、ヒュー。そう、ヒュドラは八つある頭は爬虫類、蛇の尾に体は犬。水がもたらす混沌と秩序の象徴。リンドヴルムもワームも水辺を好むといわれているから、元は同じようなものね。命を与えて奪う。再生と死。大地への多大なる恵みと絶望的な災害。水の象徴である竜が火を吐くのは、そういう二極性のせいかしら。空を飛ぶのは、ほうき星がたとえられたせいかもね」


ヴァラの話に頷きながら、ヒューは谷をぐるりと見渡す。


「それで、この谷との関連性は?」


「水晶は水の結晶だといわれるの。もちろん、本質は違うけれどね。この谷には水脈が通っているの。知ってる? 水脈は大地の竜で、その竜はメスだといわれているの。だからこの谷に引き寄せられてくるとすれば、それはオスね。だからがもっとここに来たくなるように、細工をするのよ」


「細工?」


「見ていて」


白い小さな花たちが咲き乱れる野原でヴァラは小さく呪を唱える。ヒューは周りを見回して息をのむ。




夜露?


いや—―ちがう。



親指の先くらいの大きさの水滴が次々と川から宙に漂い浮きあがり、ヴァラが宙に差し出した手のひらを下から上に返すと、野原中にふうわりと散り広がった。


それらは崩れることなく、短い草の先端より少し浮き上がって浮いている。


あたりはだんだんと深い青の闇が降りてくるが、それらは銀色に発光している。


ゆっくりと登り始めた満月の光をひとつひとつがその内に閉じ込めて輝いているように見える。


「きれいだ……」


右手を天に掲げているヴァラに、呆けた表情でヒューは感嘆する。ヴァラは彼を振り返って嫣然と微笑む。


「そうでしょう? 月のしずくをちりばめたみたいに見えるでしょう? 上空から見たら、水晶がたくさん輝いているみたいに見えるはずよ」


「いや、その……」


ヒューは小さく首を横に振りうろたえながら笑み返す。


ヴァラは首を傾げる。ヒューは彼の言葉を待つヴァラを見て、観念して肩をすくめて言う。


「きれいなのは、きみ」


月影に銀色に発光する一面のしずくの野原を背景に立つ彼女は、夢のように儚げで美しい。



ヴァラは心底驚いたように息をのむ。


青闇の中では彼女の濃い青の瞳は藍色にしか見えないけれど、月の光を野原のしずくから反射して、月夜に揺らめくの湖面のように艶やかに輝いて見える。


驚きが消えた後、彼女は優しく美しく微笑んでヒューに華奢な手を差し伸べる。


「ありがとう……」


ヒューは彼女が伸ばした手を取るために、大股に二歩近づいた。


差し出され右手を取り、それを自分の左胸に置く。左手で彼女の腰を引き寄せると、彼女の左手は彼の左腕にそっと置かれる。


「この三日間、きみに会えなくて会いたくて、用事を早く終わらせることに必死だった。ついひと月前に会ったばかりなのに、もうずっと長い間一緒にいるみたいだ。一日でも会えないと、気になって仕方がない」


困ったように微笑むヒューをいとおしげに見上げ、ヴァラは彼の頬に細い指先でそっと触れる。


「同じこと、考えていた」


ヒューは彼女の指先の感触をこそばゆくいとしく思う。


「きみから、離れたくないよ」


「私のことが、恐ろしくないの?」


「私が恐ろしいのは、呪いとか魔女とか魔術師とか、竜とかではないよ。普通の人間の普通の悪意のほうがはるかに恐ろしい」


「そうね……」


ヒューは自分の頬を伝う細い指先をそっととらえて口づける。ヴァラはうっそりと微笑んだ。


「会いたかった、ヴァラ。きみのことが好きすぎて自分のことおかしいと思う」


「私も同じ。あなたのこと好きすぎて自分でも自分がおかしいと思う」



ヒューはヴァラの手と自分の手を宙で向かい合わせに捉える。指と指が絡まる。互いに軽く握る。ヒューはくすっと笑う。


「きみが魔女姫と呼ばれてほかの貴族たちに恐れられていて、本当に良かった。誰にも決闘を申し込まずに求婚できる」


「え?」


ヴァラは驚きに目を見開く。


どうして? と問いかけてくる濃い青の瞳に、ヒューは穏やかに説明する。



「三日前に家から届いた封書、あれは父からで、鷹の谷の伯爵家から、婚約破談の申し入れがあったという知らせだったんだ」


「ええ?」


ヒューの六番目の婚約者は鷹の谷の伯爵家の二番目の令嬢だった。ヒューと同い年で彼が留学中に家同士で取り決められた婚約者だった。


前の五人の婚約者が全員鬼籍に入っていたことを脅え、彼女は社交シーズンになっても領地の屋敷に引きこもって毎日のように「死にたくない」と礼拝堂で祈り明かしていた。


ヒューとしては生まれた時から結婚相手が決まっていて、次々と相手は変わるものの、結婚はどうせ家のためのものだから相手は誰でも文句はなかったし、誰でもいいと思っていた。


だから五番目あたりから相手の絵姿さえ見ないようになっていた。ヒューが留学から帰国し秋から見習いとして出仕し始め、仕事に慣れてきたら来年の春ごろに婚姻が予定されていた。


「鷹の谷の伯爵家の令嬢は……アデライデ嬢といったかな。呪われて死にたくないから私とは絶対に結婚したくないと、常々周りにぼやいていたらしい。そして一週間前、彼女はついに強硬手段に出たんだ」


「何をしたの?」


「幼馴染の使用人と駆け落ちして行方知れずになったらしい」


「……」


ヴァラは口をぽかんと開けて呆然とする。その表情がいつもより彼女を幼く見せたので、ヒューはついくすりと笑ってしまう。


「それで三日前、伯爵が我が家を訪ねてきて、破談を申し入れてきたんだ。親たちが代理で結んだ婚約証明書やその他いらいろな煩わしい手続きに奔走した。まあ、今までも異常だったけれど、今回も相手のことを何も知らずに……あ、破談は初めてだったな。今朝は父とともに登城して、朝一番で陛下に謁見を申し込み、婚約破談をご報告申し上げてきたんだ。その時にこれは好機だと思って、第七王女殿下への婚姻申し込みの許可も願い出てきた」



「ヒュー……」


ヴァラの瞳に喜びがにじみ、彼女がかすかに吐息する。ヒューは今朝のその時のことを思い出して苦笑してしまう。


「可笑しかったな。父は驚愕して青くなって慌てふためいていた。王は少し驚かれていらっしゃたけれど、バルがもしや何か報告していたのかもしれない。とても穏やかに微笑まれて、ヴァラさえよければそのように、と仰せられた」


苦笑は優しい、愛し気な微笑に変わる。


ヒューは絡めていた指を解き、再びヴァラの手を自分の手のひらにのせた。そして彼女の前にそっとひざまずく。


「きみは前に、王家の呪いを解いたら誰も知らないようなところへ行こうと思っているって言っていたよね。でも、どこへも行ってほしくないんだ。王家にいたくないなら、私と一緒にいてほしい。ずっと、ずっと一緒にね」


「……私は魔女だから、普通とはいろいろ違うかも。ある日突然、愛情が冷めていなくなるかも」


「もしそうなったら、仕方がないな。また惚れてもらえるように努力して、地の果てまで追いかけて探しに行くよ」


「逆もあるかもね。あなたが魔女の私に愛想をつかすかも」


「魔女が理由で愛想をつかすことはないな。私にとってヴァラはヴァラだから。魔女であることはヴァラの要素の一部に過ぎないから」


「いいわ。どちらかが冷めたら、一緒にほれ薬をのめば……」


「いいね。では、あらためて。私の妻になってくれる?」


「もちろん」



ヒューはゆっくりと立ち上がる。


目線の高さが入れ替わってもずっと二人は見つめ合っている。


ヒューはヴァラを持ち上げる。その場でぐるぐると回ってヴァラは小さな悲鳴を上げる。


そして彼は庵のほうへ歩き出す。


一枚岩の下で、羊がめええぇ、と鳴いた。


ふわふわと月光のしずくたちが浮遊する野原を横切る。


空にはまるい銀の月。ヒューが走り出し、彼の肩に摑まったヴァラはくすくすと笑った。

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