第10話 親の役割、家族の役目
「なんだ? 人を冷血漢みたいに……」
父は愉快そうに、そう言って笑った。
もちろん冷血とまでは思わないが、少なくとも僕のようにウェットな性格ではないと思っていただけに意外であった。一家の大黒柱であり、世間の風雪に耐え……僕達がオロオロしているときでも常にどっしりと意思を曲げず周囲に靡かず、いつも変わらない頼もしい姿を見せてくれた。
同じことが僕にできるかと問われれば、とても自信は無い。大人になるのがこういうことだと云うならば、僕はずっと子どものままなのではないかと思ってしまう。
そんな僕の内心は気にもせず、今夜の父は饒舌だった。手に持ったビールのグラスが、それを助長しているのかもしれない。
敏弥さんもそうだったが、父はこんな田舎の人の割には博識で、精神性の高い人だったことを改めて思い出す。
「……記憶の重さってのは、歳を取ると余計に感じるものなのかもしれん。……本来的には、そうである筈なんだ。だが、長く生きていれば思い出よりも重いものが、どうしても身の回りに増えてくる、そういった記憶を顧みることが少なくなっていくんだ。……むしろ、思い出に押しつぶされないように、押しつぶされたくないからこそ──人は積極的にそういう重荷を増やしてしまうのかもしれんな……家族を持ったり、名誉で着飾ったり」
僕は……初めて、父の心の吐露を聞いた気がした。
今まで大人というのは、内面を誰かにさらけ出したりしないものだと思っていたから、新鮮で嬉しい発見でもあったが、同時に変な居心地の悪さも感じてしまった。頼りにしていた父が、急に普通の弱い人間になったように感じてしまう、心細さとでも云おうか────
「それに、長く生きて付き合う人間が増えてくると、どうしても……それぞれの関係性に優劣を感じてしまうものだ。比べるつもりが無くても無意識に……立場で相手を選んでしまったり、利害で軽重を計ったりな。その人と同じ考えでいたつもりでも、実際思っている濃さが違ったりすると、痛い目を見たりするしなぁ──」
それは、よく分かる。
自分が相手を大切に思っても、相手もそう思っていてくれるとは限らないのだ。自分だけが一方的に重く受け止めているのに、相手が歯牙にもかけていなかったら……それはとても悲しいことだろう。
「────美春さんや夏子ちゃんは、俺にとっては今も家族同然だ」
少しだけ、思い詰めたような色を滲ませながら父はそう言った。そして僕も、
「うん……僕も、そうだよ」
迷わずそう答えた。それだけは、こんな僕でも自信を持って言える。
「本来なら、他人が気安く干渉していい事じゃない…………それでも、やっぱり放っておけなくてな。……まだ、あの二人は暮らしが定まっていない。せめて落ち着くまでは────」
そして、父は僕の方を向いて言った。
「……おまえは、どうだ?」
「え?」
「夏子ちゃんの家族を、ちゃんと受け止めてやれるか?」
僕は、率直に驚いた。
まさかこんな、心の機微に触れてくるようなことを云う人だとは思っていなかったから。ましてや、男女関係のことなんかに。
「
敏弥君……父さんは、二つ年下であった彼女のお父さんをそう呼んでいたことを思い出す。
それを聞いて、先ほどの変な居心地の悪さは僕の浅はかな思い違いだとわかって、薄れていった。……いや、全くの間違いではないのだろうが、先程の父の言葉を借りれば『僕と夏子ちゃんのこと』よりも、『夏子ちゃんの家族の行く末』と『父と敏弥さん』の関係の方が、父にとってはより重いということのなのだろう。
肉親から色事について言われたようで、ほんの少しの気持ち悪さがあったのは本当だけど、それはくだらない自分の子供さ加減だと気づいた。父にとってはそんな茶化した戯言ではなかったんだ。紛れもなく、夏子ちゃんの家族の行く末を案じて……そして、敏也さんへの誠意のためだとわかって────それを僕に託せるのかを、考えている。
「──でもな、これは俺の勝手な考えでもある」
そのことに、 ようやく僕も向き合う決意が整ったのに、尚……父はそこに逡巡を挟んできた。
「少なくとも、あの二人の意思を先に尊重しなくちゃ、ならん」
……僕の覚悟なら、心配ないよ。
ちゃんと、自分だけじゃなく二人のことを優先して考えられるよ、今なら。
そう心のなかで父に答えて顔を向けた僕に、父は続ける。
「その上で、出来ることがあるならしてやりたいと思ってる。……俺も歳をとったという事なのかもしれんが、あの二人の先行きが心配でな」
そうしてまた、ビールのグラスを煽ってから続けた。
残り少なくなったグラスに、今度は僕が注いだ。
「────この先、俺が動けなくなったりした時、あの二人をちゃんと見守れる人が、果たして周りにいるのかどうか────」
僕は、改めて自分のことを顧みる。
振り返ってみれば、僕の周りには常に家族がそばにいた。
少し前までは、じいちゃんとばあちゃんもいてくれた。
家に親がいない時でも、じいちゃんとばあちゃんがちゃんと僕を見守っていてくれて、必要なことは何でも教えてくれた。
そして、夏子ちゃんの家族もいてくれた。
父さんにとっては守るべき対象だったのかも知れないが、僕にとっては彼女たちが僕を守ってくれていたということでもある。
ずっとそばにいて、寄り添って、愛されて守られて────
あの日……彼女の家族が引っ越してしまってから、僕の家族までもがばらばらになったような心境だった。その後で……自分に罰を与えるように屋敷林を伐り始めたじいちゃんと、普段は喧嘩なんかしたことのない母さんが、その事で言い争っているのを見た時には、本当に哀しかった。火が消えたように家の中の雰囲気が暗くなり、一時は家にいるのさえ辛かった。
あんな思いだけは、二度と嫌だった。
そうならないためなら、僕は何でもするつもりだ。
「うん、僕も気持ちは一緒だよ。父さんや母さんがいるなら、僕にも出来ることはあると思う。だけど……」
そこまで言って、言い淀む。
彼女の家族を支える役目を、今の僕がすぐに負えるかと言うと……やはり難しいのだろう。
「……ん?」
父は、そんな僕に少しだけ顔を向けた。
「……僕ひとりだけじゃ、やっぱり無理だと思う。父さんみたいに強く、家族を支えられるとは思えない。そんな……どっしりとは生きられないよ」
そう、不安げに答えた僕に父は少し砕けた表情をして、
「ははは……別に、どっしりと生きる必要はないんだぞ?」
そう安心させるように笑った。
「でも、僕が夏子ちゃんとそうなったとして……一家の主が頼りなかったら……家族が困るんじゃ──」
すると、父は少し困ったような笑顔をして、小さくため息を付いた。
「そう思わせたなら……それは俺の教育の失敗だ。……いや、間違いではないが……少なくとも褒められたもんじゃ、ないなぁ」
「え? なんで……失敗なの?」
この父の、親としての行いが間違っているとしたら僕は一体何を
父は静かにゆっくりと語ってくれた。
「……親の役目と云うのはな、自活力を身につけさせることの方が本命なんだよ。自分が死んでもこの子は自力で生きていける、それができた時……初めて親は役目を果たしたことになるんだ」
「自活……」
たしかに、僕にはそれはまだ備わっているとは思えなかった。
「その上でな、頼りにならないというのは確かに困りものかもしれんが、仮に一家の稼ぎ頭が頼りなければ、それを当てにしなくなるか、みんなで知恵を絞るか……ともかく頼りきりにはしないだろう。それが、自活の意識というやつだ」
言っていることは、分かるけど少し難しい。
いい父親が、いい教育者とは限らない、ということだろうか。
「ただ養ってやるだけなら、それは親じゃない。……親でなくてもできる役割なんだ。たとえ能の足りない親であっても、それを見て育った子供が自活力を身につけられたなら、育て方としては間違ってないんだ。……まぁ、それを親が自分から誇るようになったら、いよいよおしまいだがな────」
そういう意味では、確かに僕の父は出来すぎだったのだろう。僕が自分で何かするよりも、無意識に頼ってしまう面が多かったように思う。
例え自分がいなくても……そう思えるように託すこと──
そして父は、少し鋭い目をして虚空を見上げていた。
「だからこそ──それを全うできなかった敏弥君は……さぞ無念だっただろう」
「……うん」
僕は頷いた。
父の言っていることが、今……よく分かった。
能力を誇示し、自分を大人だと主張する輩は周りにも多いが、そんな連中に対して僕はいつも矛盾と気持ちの悪さを感じていた。……それを明確に後押しする答えが、父の言葉でようやく腑に落ちたような気がしていた。
だが、だからこそ……
「やっぱり……僕にはむずかしいよ。そんな風になれるとは、思えない」
僕は再び、自信の無さを正直に口にした。
だが父は、今度は意外なことを言った。
「はははっ……難しく考えすぎだ。お前はまだ若いし、なにより夏子ちゃんより歳下だろう。そこまで……気負う必要は無いんだ」
「……うん」
そう、自信無さげに返事をする僕に、父は……またいつものように、静かに指針を与えてくれた。
「それにな────」
そしてまた、父はグラスを煽ってから、言った。
「全て支えることは出来なくても、一緒に苦労することならできるだろう。お互い失敗し合って、笑い合って……なんなら、ご厄介になる事で相手に張り合いが出ることだって、あるんだ。今のお前にできること……するべき事は……そういうことだ」
その父の言葉が終わると……ほどなく、家の敷地に車が入ってきた音がした。
きっと、夏子ちゃんたちが帰ってきたのだろう。
今の僕に出来ること、それを頭の中で反芻しながら……
僕は車から降りてきた、母娘を出迎えるために縁側から外に出た。
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