06.『心』、『本能』、『理性』。それらは全て、似て非なるものだと思う。

「……ごめん、ちょっと本気で意味が分からない」


 暫しの沈黙の後心の底からの言葉を声にすると父は至って真顔のまま返して来る。

「冗談だ」と笑ってくれたらどれほど良いだろうと思うほどに、いつもの真面目な父のテンションである。


「『番』のフェロモンの枯渇で落ちて行ったなら、それを補給すれば即戻って来る。断言して良い」

「いや、あのね? 一応救急車で運ばれた人に『コレ、パンツ』なんて普通にしないからね?」


 父親相手といえども流石に呆れた声が出てしまった灯莉を見て、肉親ながら嫌になる程α然とした余裕を湛えつつ父は低い声で言った。


「――あのαの両親からの救援要請が来ている」

「ええっ??!!」


 思わず顎が外れそうな位驚いた。

 え? なんなの? 日本の医学どうなっているの? く、国に認められているくらいの規模の病院に運び込まれているのにどうして相手の親御さんから「ごめん、パンツくれない?」みたいな連絡が来るんだ?!

 そんなこと普通に考えて有り得ないだろう。いや、それよりももっと気になる部分がある。


「れ……連絡取ってたの?」

「いや。私とあちらの父親が万が一の事態を想定して念の為携帯番号を教え合っていただけで実際にコンタクトを取られたのは初めてだ。――包み隠さず言うと、今までで一番状態が悪いらしい」

「……」


『今までで』という言葉が少し心に引っ掛かった。

 それに加えて先ほど父がさり気無く漏らした『番に会えないα側にも負担が無い訳では無い』という言葉も、急に頭の中を占領してぐるぐると同じ考えが巡る。


 ――いや、でも……パンツを見知らぬ(いや、一応存在は知っているが)いやそうじゃない。そこじゃない。

 危うく緊急事態ですからみたいな流れに思わず流される所だったが、他人にパンツを渡すという行為は明らかに普通じゃない。

 断ったって文句を言われる筋合いは無いだろう、と思えるくらいに普通じゃないことは明らかだ。


 流されそうになった思考ごと振り払うように頭を数回振った灯莉は静かにお茶を飲んでいる父を見て、少し強めの口調で言った。

 いくら灯莉でも譲れないことくらいはある。


「――パンツじゃないなら、良い」

「そうか。じゃあ今日一日身に着けていたインナーシャツでもまあ事足りるだろう」


 それだってとても嫌だけど。

 本当なら考える必要もないレベルで嫌だけど……パンツよりなら…………嫌だけど、パンツよりなら――。


 ぐっと拳を握り締め「分かった」と苦々しい声で返事をすると、父は鞄から何かを取り出してこちらに渡して来た。それを見て灯莉は思わず床に崩れ落ちそうになる。



「ジッ――いや、チャック付きポリ袋……」



 α界隈における「ジ」から始まるその商品への謎の信頼の根拠を知りたい。

 かなり、本気で。





「お待たせ」

「いや」


 男同士なのでささっと同じ部屋で灯莉は服を脱いで、自分が今日一日身に着けていたインナーシャツを軽く畳んで複雑な心境で憎きチャック付ポリ袋に詰めた。

 分かっている。「ジ」から始まるこの商品は何も悪くない。しかし、忌々しいものに思えてならないこの気持ちの存在くらいは許して欲しい。

 このインナーシャツは……一体どうされるのだろうか? いや、返されても困るのだけれど……駄目だ。

 これ以上考えることはやめておこう。今まで生きて来た人生の中で守り通して来た何かを失うような気持ちにすらなる。


 裸でいるのもおかしいのでワイシャツだけを再度羽織り直すと、父は受け取ったインナーシャツ(In チャック付ポリ袋)を鞄に入れて空になったカップを静かにテーブルに置いて立ち上がった。

 さっさと用件を済ませて番である母の待つ家にとっとと帰りたがる父のいつも通りの行動だ。


「灯莉」

「何?」


 ボタンを留めていた手を一度止めてさっさと帰ろうとしている父を見ると、父はにやりと珍しく口元で笑っていた。


「これは実に初歩的なドア・イン・ザ・フェイスだ。お前は昔から人が良過ぎる。――これから意図せず『α』に関わる可能性が高まるんだ、少しは相手を疑うことを覚えろ」

「――え?」


 じゃあな、と言った父がさっさと帰って行った。

 リビングと廊下を隔てるドアを閉めてサクサクと進みとっととオートロックの玄関も通過したらしい。

 暫し無言で父が立ち去った方向を見ていた灯莉は、ようやく思い至った。



 ――やられた。

 最初から狙いは『パンツ』なんかじゃなく『インナーシャツ』だったのだ。



「俺……α嫌いだな」


 すっかり温くなったお茶をやけっぱちで飲み干して、灯莉は今後の人生で二度と「ジ」から始まるチャック付ポリ袋を購入しないという理不尽な誓いを立てた。


 ――俺は、もう一つの派閥に行く。

 獅子の名前を関する会社を愛していく。だって、日本人だから!!!




 次の日いつもより少しだけ遅く起床した灯莉はなんとなくリビングのテレビを付けた。

 そこには――あの憎きチャック付ポリ袋αが病院から出て来た映像が映し出されている。救急搬送されたなんて嘘みたいな綺麗なツラをしやがって、余裕綽々のα様然とした雰囲気を纏いつつ嫌味ったらしいほど長い脚でサクサク歩いていやがる。


「如月さん! かなり重篤な状態で搬送されたという情報もありましたが?!」


 少し離れた位置から叫んだリポーターの声に男は作り物のような整った顔をにこりと崩して、少しだけ声を張った。


「申し訳ありません。私の不注意で転倒した際に頭を打ってしまってなんだか大騒ぎになってしまいました」


 ……。

 ヘエ、転倒デスカァ。大変デスネェ。


 普段のこの男は今までこう言った報道陣からの問い掛けに答えることは無かったのか、次々と矢継ぎ早に質問が飛んで最早何も聞き取れない。

 事務所の関係者であろう人間が如月を車に押し込んで何かを言った後映像は終わりスタジオトークへと戻る。

 灯莉は何とも言えない気持ちになってテレビを切って、ソファにどさりと腰を下ろした。


「……」


 ふう、と無意識に吐いた息の温度に自分で驚く。

 そしてそれを突き詰めて考えるのはとても恐ろしいことに気付き、慌てて思考を別のことに切り替える。


 今日は溜まっていた家事をさっさと片付けて、買い出しに行く。

 そして食材の下処理をして小分けに冷凍して、簡単な常備菜を作り足したりなんだりと必要な事を終わらせてから折角の連休をだらだらと過ごすと決めているのだ。


「――クソッ。コインランドリーに行って掛布団も洗ってやる。徹底的に掃除だ」


 ――元気そうで良かった。なんて、俺は一ミリも思っていない。

 絶対に思っていない。



「……――」



 脳内で予定していた今日のスケジュールを組み立て直している最中、ふと思考が止まった。


『心』と『本能』は、一体どちらが強いのだろう。

 それに『心』はこの場合、単純に『理性』と置き換えることは出来ない気がする。


「――止めよう。もう考えるな、もう終わった」


 灯莉は今のままの状態を維持して死ぬまで生きて行きたいと本気で願っている。

 今まで通り誰が見ても「βの男性」のままの自分で生きて行きたい。

 間違っても「本格的なΩ」になってヒートに振り回され、たった一人の「α」に追い縋って生きて行く人生なんて到底受け入れられない。




『α』は、いつだって『Ω』を捨てられるんだから。

 情なんてかけてやる必要は無い。

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