4/5
本日二度目のチャイムが鳴ったとき、雲がかった意識を覚ますのには、かなりの時間がかかった。
起き上がったまどろみかけの頭に、三度、四度と同じ音が浴びせられる。
「わかった、わかったから」
いつの間にか居眠りをしていたのか。普段はこんなこと、あまりないのに。ふと、自分が頭を置いていたまくらを見やると、ハート型だった。ああ、そうだ。結局このまくら、買ったんだった。ほとんどタダ同然で。
◇
「お代は結構ですよぉ」
「え、いや、でも」
「いえいえ、もともと趣味の品のようなものですのでぇ。それに、まくらが相応しい人間の手に渡るというのは、わたくしたち【まくら選び屋】の至上の喜びでもあるのです」
「そんなにマッチしてましたかね、おれとこのまくら」
「ええ、ええ。そりゃあもう。はい」
そんなやりとりがあったあと、世界に七つしかない限定ハート型まくらを受け取った。
「それでは【まくら投げ屋】さんにも、よろしくお伝えくださいぃ」
受け取ったまくらは、なぜか丁寧にラッピングされ、赤いリボンが巻かれていた。
たしかそのあと、使い心地を試してみようと、ソファで横になったのだ。そして眠ってしまったってわけか。やっぱりまくらって、大事なのかも。
◇
苛立ちを隠そうともしないようなチャイムが、再び鳴る。
まさか、とうとう来たのか。【まくら投げ屋】が。
時刻は夜の9時すぎ。
まくらを投げるには、うってつけの時間だ。たぶん。
急いでドアを開けると、そこには一人の髪の長い女性が立っていた。
「あの、【まくら投げ屋】の方でしょうか」
訊くと、彼女の表情がみるみる曇る。そのあまりの露骨な曇りように、思わず目を逸らしてしまった。
「いえ、ちがいます」
ですよね。
「あの、ではどちらさまでしょうか」
「私、となりの鈴木というものなんですけど」
となり、ということはこのマンションのとなりの部屋の住人ということだろうか。始めての遭遇。こんなひとが住んでいたなんて。
目はあわせられなかったけれど、顔の形や目鼻立ちを見るに、鈴木さんは美人といってよい部類の女性だった。肌も白い。しかし身にまとったオーラや、黒縁の大きなメガネの奥の瞳から、安易に人を寄せつけさせないなにかを感じさせる。
「さっき、なにか騒いでましたよね。ああいうの、やめてほしいんですけど」
彼女の口調は静かだったが、その中に強い芯のようなものがあった。
「さっき、というと」
「誰かと話してましたよね。しまいには“Let's Throwing!”とかなんとか言って。私、部屋で映画観てたんで、びっくりしちゃいました。この映画にこんなセリフあったっけ、って」
「それはおれじゃないです」
「でもそのあと、まくらを投げる音が聞こえました。あれも違うって言うんですか?」
思わず、いえ、と答えてしまったが、いやまて、まくらを投げる音ってなんだよ、という疑問が頭をよぎる。それとも、女性ってそういうのわかったりするのだろうか。
「ちなみになんの映画を観ていたんですか」
「それはあなたには関係ないでしょう。ダイ・ハードですよ、ダイ・ハード」
ああ、教えてくれるんだ。そしてまさかの、ダイ・ハード。子どもの頃テレビでやっていたイメージしかない。たしか、ハゲのおじさんが活躍する映画だ。
「あなた自分の立場、わかってます?」
「いえ、実はよくわかってません」
鈴木さんは、はあ、と大きくため息をはいた。
「なにもまくらを投げるな、とは言いません。私にだって、ときどきまくらを投げたくなる夜もあります。でも人に迷惑をかけるのは、いいまくら投げとは言えません。そうでしょう。まくら投げは、誰も傷つけないという暗黙の了解があってはじめて、成り立つものじゃないんですか」
なんだかすごくいいことを言われているような気がするのだが、話題がまくら投げなだけに、ぜんぜんはいってこない。
たぶん、彼女がさっきまでダイ・ハード観ていた女性である、という事実も理解の邪魔になっているのだろう。
「そのとおりだと思います」
とりあえずそう言って、肩を落としてみせる。
「わかってもらえたなら、いいです。もうなにも言いません。とにかく今日は、絶対にまくらを投げないでくださいね。絶対に。私いまから、ダイ・ハード/ラスト・デイまで一気見しなきゃいけないんで。絶対ですからね」
鈴木さんは言葉を切って、隣の部屋に戻っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます