第8話 たそがれ色の日常



 「…さっきの子、後輩?」


 作業部屋へ戻る間、園田はわざわざ私の顔を覗き込むと、変わらない狐目で聞いてきた。


 「ん〜…後輩だけど、学部は違うよ。音楽部の声楽科の子で、最近あの大講堂のピアノをきっかけに知り合ったの」

 「ふーん」


 特に興味もなさそうな返事を返し、彼は再び前を向いた。

 その後に会話は続かず、私と園田の間に珍しく気まずいと感じる沈黙が降りる。


 ……気まずい?

 何でそんな風に思ってしまうんだろう。

 特に互いに違和感を残すようなことは何も…


 「なあ、文化祭…芹澤は誰かと回る予定あんの?」

 「へ…?」


 彼の急に飛んだ話題に、思わず変な声が出てしまう。佐倉君といい園田といい、突然こちらの体裁を崩すような、或いは驚かせるような質問ばかりしてくる。


 私も私で…今日、何だか変だ。何がとは言わない。ただ、各部分に何かしらの引っ掛かりが残ることが多すぎるだけで。これが画の不調という一言で済ませられるならまだ気の持ちようも変わるが、それだけじゃない気がする。


 一瞬、本来一緒に回る予定になるであろう友人たちの顔が浮かぶが、きちんとした約束は取りつけていないので正直に「ない」と答えることにした。


 「…ない、けど」

 「じゃあさ、俺と回らない?」


 自然と私たちの足が止まる。

 こちらを見る彼の顔は、相変わらずの狐目と僅かに口角を上げた微笑をたたえていて、それでいてどこか内に張り詰めたものを必死で抑えているように見えた。


 微かに滲む気迫のようなものを感じてたじろいでしまう。合わされていた顔を慎重に逸らし、当たり障りのない言葉を選びながら彼に率直な思いを伝えた。


 「……ちょっと、返事待っててもらってもいい?私も友達と確認してみるし、そっちだって…人気者なんだから誘われる可能性もないわけじゃないし、その中に私がいるのも気まずいし、」


 「俺が、お前と回りたいと思ってんだけど」


 ずるいよ。

 どうして今そんな風に言うの?


 今の私に、彼と同じ台詞を躊躇わずに言える自信は微塵もない。それは一緒だった時間の長さの弊害でも、私の気持ちの散らかり具合の酷さによるものでもあった。


 「…ごめん。一応、確認させて。 ちゃんと後で連絡するから」


 この時、最後に彼の顔を見てしまったのが私の唯一の失敗だった。


 「そっか…ちょっと用事思い出したから教務課に寄ってくる。……ちゃんと教えてくれよな。作業、頑張れよ」


 私の「うん」の返事は、恐らく彼には届かなかっただろう。足早に去っていった彼の背中は、ひょろりとした頼りなさに少しだけ後悔が滲んでいた気がした。




 「はぁ……」


 作業部屋に戻り、再び机に突っ伏してため息を吐く。


 「開いてないじゃん」


 開けっ放しと言われて戻ったのに。私がちゃんと閉めていて、園田が私と話すために適当な口実を作ったのか、彼が閉めてから私の不注意を教えてくれたのか。


 …九割方、後者だろう。園田光喜みつきは、そういう人間だ。

 中学の時から、ずっと。



 出会ったのは中学の時。入学して席が前後だったから、話す機会は他の男子より多かった。


 私はピアノ一筋で部活には入っていなかったが、園田は美術部に入っていた。彼は時折、自分が描いたスケッチを見せてくれたり、選考会の結果を教えてくれたり、私の父が画家だと知ってからは何故か私にも自分の画に対する評価を求めてくるようになった。


 彼曰く、

 「芹澤はお父さんから少なくとも絵描きの血みたいなのを受け継いでると思うんだ。目指そうとしてるのは、音楽の高みだけど…。でも、同じ芸術の世界に身を置く者どうし、違った視点で高め合えるのっていいと思わないか?」


 あんまりにも楽しそうに言うものだから、そういうものなんだなと自然と納得してしまった。


 芸術以外でも気軽に話すことが増えて、勉強がまちまちな私は勉強もできる園田に頼ったり、周囲の人曰く「マイペース」な私を彼が「不思議ちゃん」と呼んでさりげなく助けてくれたりするようになった。

 結局三年間同じクラス。私が憧れの存在と頑張る目的を同時に失くした時に真っ先に慰めてくれたのも彼だった。


 高校はクラスが一緒になることはなかったが、それでもまめに向こうから交流を持とうとしてくれた。大体は画の話。私もこの頃から画に打ち込むようになって、互いの画を見せあってはああだこうだと褒め合ったり批評したりしていた。



 これだけの付き合いをしていて、いわゆる「きゅん」という感情が園田に対して湧き上がってこなかったということには、自分でも驚いている。

 当然周囲から関係を囃されることもあったが、それでも意識したのは小さかった。


 「兄妹」が、私の園田に対する気持ちを一番適切に言い表せている気がする。


 周囲から黄色い悲鳴が上がりそうな場面や出来事が私たちの間にあったわけじゃない。それも相まってか、これまでの彼のちょっとした優しさや関わりの積み重ねは、私の中で勝手に「好意」ではなく純粋な友人としての「厚意」で止めたままで消化されてしまっていた。



 彼の渾身のものであっただろう台詞に、私が彼の顔を見て返してしまった時の園田の表情を思いだす。


 文化祭の話を振る前くらいから緊張していたその面持ちは、私の言葉でさらに引き攣った。


 私の返事は彼にとって期待していたものではなかったこと。そして彼は私の返事で、私が彼をどういう関係として見ているのかを推し量ろうとしていたこと。

 最初から気まずかったのは、恐らく私が佐倉君に対して彼を「知り合い」で済ませたことへの不満が彼の中で言葉にもなれずに漂っていたからだということ。


 …今になって、あの表情を見てやっと、全部、分かってしまった。

 そして心の中の霧が晴れて残っていたのは、彼の思いの答えだけではなかった。


 「ずるいなあ」


 口の中で独り言を転がす。

 体を起こして一度目を瞑り、3回深呼吸をする。


 切りかえなければ。どれだけ頭がいろんなもので渋滞を起こしていたとしても私はこの画を完成させなくちゃいけない。


 再びイーゼルにキャンバスを立てかけ、木炭を手に取る。

 黒く滑らかな木炭の肌に指を滑らせ、書道の一番最初みたいに慎重に起点を置く。


 すっと息を吸って、止める。

 迷いないふりをして私は下絵の第一線を引いた。




 「燈、今いいー?」

 「ん?どうしたの、莉彩りさ


 数日後、次の授業の準備をしていた私は、友人の玉川たまがわ莉彩に呼び止められた。彼女とは一年のときから仲が良く、大体彼女と行動を共にしている。


 「あのねー、文化祭のことなんだけどさ、もう誰と行くか決めた?」


 聞かれてすぐに、周囲に園田がいないかを確認しそうになったのはほぼ無意識だった。どうにか首を固定して、ただ普段より少し声量を落として、親友に応える。


 「まだ…決まってなくて。莉彩は?今年は他に一緒に回りたい人とかいる?」


 平然を装って尋ねると、彼女は一瞬照れたような、恥じらいの混ざった微笑みを浮かべ、そのまま小首を傾げて小さく頬を掻いた。


 聞く必要はなかったかも知れない。

 去年まで一緒に回っていた子が、今年敢えてこちらの予定を伺う。自分が他に一緒に行きたい存在がある確率は断然高いだろう。


 莉彩は私に耳を貸すよう手招きをした。


 「実は…ね。サークルの先輩に誘われたの。前話した…」

 「えっ、莉彩が恋してるって言ってた、あの先輩!?」

 「ちょっ…燈!声、声!!」


 顔を真っ赤にした親友に、私は軽く謝った。


 でも、喜ばしいことではないか。想い慕っていた相手から、文化祭という一大イベントで誘いを受けるなんて。

 想い慕う相手を誘う側の勇気を数日前に察した今の私からすると、その相手から誘われることの喜びは半端じゃないのが分かる。


 「それでね、あまりにも嬉しくて『おねがいします!』ってOKしちゃったんだけど、燈のこと何も考えてあげられてなかったな…と思って。燈は…園田君からお誘い受けてないの?」

 「う、受けてはいるけど」


 ぎくり、とした。まさか名指しで確認が入るとは思ってもいなかったから。

 ここで、中途半端な返事をしたのがいけなかったらしい。莉彩は私の肩をがしっと掴むとゆさゆさと前後に揺さぶりながら、私のことを言えないくらいの声量で私を叱咤してきた。


 「なーんでOKしてないのさ!絶対園田君、燈しか眼中にないって!!学部内でモテモテの園田君が、美女遍くこの学校で断トツで可愛いくて付き合いの長い燈を、ちゃんと誘うってことはもう絶体本命だよ!!」


 はちゃめちゃな理論だけど、莉彩の言いたいことは分からなくもない。


 『俺が、お前と回りたいと思ってんだけど』


 あの言葉に、あの表情に、どれだけ彼の想いが詰まっていたことか。私はそれに、半分気付かない振りをして保留に押し留めたのだ。


 親友の手をゆっくりと肩から下ろし、用意した教材や荷物を整え胸元に抱きかかえる。俯いたままふと口を突いた短い吐息は、自分でも笑いたくなるほど重たかった。


 「……園田の気持ちは分かっても、まだ自分の気持ちが分かんなくてさ。いくら付き合い長くても、向こうが本気なら尚更、軽々しく返事できないよ…」


 思ったよりも弱々しくなった返事に、莉彩は何故か哀しそうな顔をする。


 「どうして莉彩がそんな顔するの……ほら、行こう?次の授業に遅れちゃう」

 「……うん」


 精一杯の微笑みで、親友に平気であることを伝えたかったが、彼女はそれに笑顔を返してはくれなかった。




 移動しながらふと、階段の窓から覗く金木犀が目に入った。途端に、自分の中途半端な不甲斐なさを急に思い知った気がして瞳が潤む。


 瞬きの先にもう一度見た黄金色の小さな花は鮮やかないろをしていて、昼の陽光を帯びてやけに眩しかった。

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