第六感の世界
灯玲古未
1,盲目未来
盲目未来
部屋の入り口から声が響く。今が何時かはわからないが、今日が休みだということは理解しているつもりだ。
「
来訪者は部屋の入り口に立ったまま、どうでもいい事実を告げる。
「姉さん……。今日休みだよ」
ぼやけた視界のまま、部屋の中に入ってくる姉の姿を眺める。
長い髪をストレートにおろし、前髪はまっすぐに切りそろえられている。穏やかで、整った顔立ちからは、良家のお嬢様を連想させられる。
——実際、お嬢様であったのは事実だが、いろいろあってその家は村ごとなくなってしまった。そのごたごたで親戚一同揃って死んでしまったので、現在は街に出て来て、姉と弟の二人暮らしだ。
「休みだからって、いつまでも寝てたら不健康だよ」
「……別に、起きる理由もないし」
それに、不健康なんてセリフは、姉さんにだけは言われたくない。
「じゃあ、ご飯作ってよ。お腹すいた」
まあ、理由としては十分か。——完全に目も覚めてしまったし、この状態からもう一度眠れるほど睡眠が好きなわけじゃないし、昼ご飯を作るため、重い腰を起こすことにした。
「で、何食べる? ——といっても、選べるほどの食料は残ってなかったと思うけど」
「じゃあどうして聞いたのよ」
「俺は特に、食べたいものもないし」
「——カップラーメンなら、あったと思うけど?」
姉さんは白々しく、そんなことを言う。
「別にいいけど……初めからそうするつもりなら、俺のこと起こさなくてもよかったのに」
「ううん。……一緒に食べたかったの」
いろいろと文句はあったが、それもこの笑顔に比べたら、どうでもいいことだろう。
「魔法」
「——?」
少し、ぼうっとしてしまっていたみたいだ。
「だから、魔術。……超能力だとか、吸血鬼だとか、地球の感覚器官だとか、変なのはいくつか見てきたでしょ? だから、魔法も実在するのかなって」
「魔術か……あっても、不思議じゃないと思うけど」
それを知っていそうな人物にも、心当たりがある。
「九条さんなら知ってそうだけど……、九条さんがどこに居るのか、知らないんだよね」
九条さん。下の名前は教えてもらっていない。どう見ても外国人だし、おそらく偽名なのだろう。長い髪とだらしない服装が様になった、いかにもな感じのおっさんだ。
彼とは俺たちの実家であろう村でいろいろあった時に知り合ったのだが、住所はおろか、連絡先すら教えてもらっていない。
「まあ、気長に待とうよ。そのうち出会える」
「それが、そうもいかないかもなんだよね……」
姉さんは悩まし気に斜め上を向く。何かを思い出そうとするときの仕草だ。
「多分、昨日の帰り、私、商店街に居たんだけどね……」
「学校は行った?」
このセリフを何度言ったことか。当の姉さんは「同級生になれるね」などとおどけて言うが、まさか本気で言っているわけではあるまい。……そう信じたい。
「まあ、とにかく、その時にビビッと来たんだよね」
「それが、魔法?」
あまりにも根拠が薄いように思えるが、俺たちの『直感』は基本的には信頼できるものだ。
「多分、そう。……それでね、これ、見てほしいんだけど」
姉さんの携帯の画面がこちらに向く。——比瀬内町で怪死事件。被害者は比瀬内高校の女子生徒。
「——死因は、内臓の破裂。体内からは金属が出て来ている」
間違えて飲み込んだのか? まさか、有り得ない。
「これ、死亡推定時刻が、昨日の昼すぎなんだよね」
「その時の感知がそれなんじゃないかって?」
姉さんは小さく頷く。
「……危ないことはしないことと、危険を感じたらすぐに俺を呼ぶこと、わかった?」
姉さんの次のセリフはきっと「調べに行こう」あたりだろう。どうせ止めても聞かないのだ。せめてこの二つは守ってもらいたい。
「……わかってるよ。じゃあ、行ってくるね」
「着替えるから……ちょっと待って」
服やら髪やら、急げば五分で済むか。
「……さっきのセリフ、送り出す人のセリフだと思ったんだけど」
「一日じゃ終わらないだろ? 付いていける時はついていくよ」
「……ほんと、過保護なんだから……」
当然だ。俺の生き方は、動機は、既に俺一人のものじゃない。
「たまには、お姉ちゃんらしく振舞わせてほしいんだけどな」
姉さんはからかうように言って、悪戯な笑みを浮かべた。
◇
「マジ、どうやったらあんななるの。おしゃれ?」
誰が聞いても明らかな嘲笑のこもった言葉だった。六人ほどの女子高生のグループはその言葉を聞いてどっと笑いだす。
——邪魔だ、どけろよ。
その十数メートル後ろを、松田紗幸は歩いている。歩幅を狭めて、歩くペースを落としながら。
前を歩く女子グループは松田と同じクラスの女子たちだ。
——いつもいつも、むかつくんだ。馬鹿みたいにキーキー騒いで。群れないと死んでしまうのだろうか、あの白痴どもは。
前を歩いていた女子のうち一人が振り向く。
松田は手元のスマホを眺めていた。——スマホの、真っ黒な画面を眺めているふりをしていた。
——死ねよ。
心の中で松田がそう呟くと同時に、目の前で悲鳴が上がった。同時に、ばたりと、何かが地面に倒れる音。
「え……。き……きゅ、救急車!」
どうせくだらない冗談だと高を括っていた松田も、顔を上げた瞬間に一目で状況を理解できた。
目の前のアスファルトに現れる、風変わりな水溜まり。
それは赤色で、どうしようもないほどに赤色で、どこからどう見ても倒れた人間から出てきたものだった。
現実が歪む。松田の脳内を侵食していく非現実を追い払ったのは、真横を通り過ぎた人間の呟いた、たった一言だった。
「——ざまあないね」
その人物は何事もないかのように、赤い水溜まりを越えていく。松田たちと同じ制服。胸元のリボンからして、一つ下の一年生だ。
松田は思わず、その人物を追いかけていた。
・・・
「ほんとに……君がやったの?」
住宅街の端にある小さな公園の、さらに端のベンチに松田紗幸は座っていた。隣にはもう一人、先程であったばかりの少女が座っている。
「君じゃなくて、栞」
「……栞、さん」
「栞ちゃん」
松田が名前を呼ぶと、栞は「うん、それでいいよ」と言いながら満足げに頷いた。
「……そうそう、あれの話だったね。紗幸ちゃん、あいつがどうやって死んだか、わかる?」
松田は首を横に振る。——名前、まだ教えてないのに、どうして知ってるんだろう。
「あれはね、体の中に金属を作ったの。それで体の中がぐちゃぐちゃになった。——あの、スタンドのアレみたいな」
想像は出来る。何を言っているかも、わかっているつもりだ。だが、その言葉が現実のものだとは思えない。
「魔法なんだよ、あれ。私、魔法使いなんだ」
「え……魔法って」
「何もしないのに人が死ぬわけないじゃん。……あれ、私がやったの」
栞は声に出さず、口元だけに笑みを浮かべる。それは何処か不気味に見えて、彼女の突拍子もないセリフも、現実のように思えてくる。
「明日もここに来てよ。一緒に人殺しをしよう」
そう言い残すと、栞は立ち去っていった。呼び止めても振り向かず、有無を言わせないような態度だった。
◇
「お、ここっぽいね」
商店街から横に伸びる小さな路地、その入り口に、規制線が敷かれていた。
「駅までの近道になるみたいだね」
「そこを襲われた……」
辺りには数人の警官らしき人物がうろついている。
「あんまり、長居しないほうがよさそうだね」
そう言って姉さんは背後の喫茶店を指差す。
「昼、さっき食べたよね」
「甘いものが食べたいの。……安心して、お姉ちゃんの奢りだから」
お金の話はしてないのだけれど、……まあ、いいか。こちらとしても、こういう案件に姉さんが首を突っ込むのはあまり嬉しくない。適当に時間を潰せるなら、それもいいだろう。
「どう、何かわかった?」
首を横に振る。俺の目の前にはウインナーコーヒーが、姉さんの目の前にはチーズケーキと紅茶が置かれている。
「探偵みたいに、バチっと推理できたらいいんだけど」
「直感頼りだからな……」
小さく俯いていると、目の前にチーズケーキの乗ったフォークが突き出される。
「……なんか、物欲しそうにしてたから」
「…………まあ」
これに関しては、俺に責任はない。目の前であんなにおいしそうに食べられると、誰でもこうなる。
「はい、あーん」
人もいるし、わざわざそんなこと言わなくてもいいだろうに……。
「……あ、照れてる。じゃあ、代わりにこれ、一口貰うね」
悪戯な笑みがこちらに向いたと思えば、俺のウインナーコーヒーが目の前から消えていた。
◇
「嫌いな人って居る? 紗幸ちゃん。その人、要る?」
松田が昨日と同じベンチに座っていると、突然、真横から声がかかった。松田の顔をしたから覗き込むようにしている栞は一切の気配を見せないどころか、物音すら立てず、紗幸の隣に座っていた。
「世の中には一定数、救えない人間はいるんだ。どうしようもない愚か者。死んだ方が世の中のためになる人間。——昨日の、見たでしょ?」
栞は松田の耳元に唇を寄せると、囁くように言った。
「……誰にもばれずに、殺せるよ」
それは――。
声は言葉にならなかった。松田にも、嫌いな人間は数えきれないほど居る。消えてしまえばいいとも、本気で思っている。
――だけど。
だけどの一言は、口から出てくることはなかった。が、もしもその言葉が口にできていたなら、その後はこう続いただろう。
『だけど、さすがに、殺すのは……』
「うーん、お腹すいたね」
松田とは対照的に、栞は呑気な態度を崩さない。
「ハンバーガー、食べに行こうよ」
立ち上がり、栞は歩いていく。松田はその後を早足で追いかけた。
——ずっと、何かを嫌っている。自分は嫌いじゃない。人間も嫌いじゃない。何を嫌っているのかは、自分でもわからない。ただ、この鬱屈とした生活の中で溜まっていく、膿のような感情をぶつける場所を探している。
目の前に人間が見える。人目も気にせず、ゲラゲラと笑っている。会話の内容は聞こえない。ただ、眼を背けた。目の前から迫ってくる彼らから、逃げるように。
——ああ、腹が立つ。
「……ねえ、あいつら」
「ん? どうしたの?」
「……もしも、私が、あいつらを殺したいって言ったら……」
「殺したいの?」
「いや……、ただ、嫌いだなって……」
逃げた、またも逃げた。衝動に任せたとしても一歩も踏み出せない。そんな人間だ。
「いいよ」
栞はあっさりと、目の前の人間を殺すことを了承した。
「——
詠うような言葉に合わせて、栞の指先の空間が歪む。
凝縮の言葉とともに現れたのは、小さな土の塊。
「——
栞の親指と人差し指はピストルの形を作っている。そして、その先端には、鋭利な銃弾。
「——
銃弾が放たれる。空気の裂ける音と、人の弾ける音。目にもとまらぬ速度で放たれた銃弾は簡単に、それでいて取り返しのつかないほどに、人間を貫いて見せた。
――まるで、世界が息をのんでいるかのよう。人間だった物を中心に、波のように静寂が広がっていく。一瞬、息が止まって、その後にざわめきが広がっていく。
撒き散る血、ばたりと倒れる体。そのどれもが鮮明に見えた。誰もが口をつぐんだその一瞬、栞だけは、満足げに口元を歪めていた。
「離れよっか」
その一言で、松田は現実へと引き戻された。
「え……」
栞は自然に松田の手を引いて、人の流れに逆らうように歩いていく。
暖かくて、柔らかな手に握られていると、不思議と心が落ち着いていった。
「ね、面白いでしょ」
それは、爽やかな笑みだった。
気色が悪いほど赤い夕焼け、灰色の街並みの中、二人の少女が歩いていく。
「また明日、今日の公園でね」
・・・
駅の近くのベンチに座り、ぼんやりと今日の出来事を思い返していると、いつの間にか日が暮れていた。
松田は栞と別れた後、何となしでベンチに座ると、そのまま数時間の間そこから離れられないでいた。
「収穫……なしっ!」
「……いや、待って待って」
目の前を見知った人間が通り過ぎていく。
松田の携帯では、時刻は午後十時。こんな時間に、六埼は彼女を連れて歩いている。
「じゃ、そういうことで」
「……また明日」
どうやら六埼は駅に向かうようで、彼女とはここで別れたようだ。
——あ、目が合った。こっち来た。
「えっと、松田さんだよね?」
「……うん」
六埼は松田の隣に腰を下ろす。
「電車、しばらく先だから……。今、帰り?」
六埼はにこやかな笑みを浮かべて、穏やかな声色で話す。学校での六埼からは、あまりイメージのつかない姿だ。それは松田にとっては、珍しい風景だった。
「……たぶん、うん」
「たぶんって……、大丈夫? 顔色悪いけど」
思わず目を逸らしてしまう。正直、松田は彼が苦手だった。
松田は昨日の夜から何も食べてないのを思い出した。
「うん、大丈夫」
「ならいいけど」
それっきり六埼は黙り込んで、じっと夜空を眺めていた。言葉は無いが、心地の良い空気。夜空に星は見えない。雲の隙間から、欠けた月が覗いていた。
「そろそろ、電車来るよ。行こ」
六埼は手元の携帯で時間を確認し、ベンチから立ち上がった。
「……松田さん、こっちじゃなかったっけ?」
電車で六埼を見かけた覚えはないが、六埼の言いようからして、松田のいつも乗っている電車を把握しているのだろう。
「いや、なんていうか……」
家に帰るという選択肢自体が、松田からは消えていた。あの死体は、飛び散った体液の数々は、自分の意志で作り出したもの。日常を思い出したことによって、その事実が罪悪感へと変わったのを、松田ははっきりと自覚した。
「帰れないって、感じかも」
「……家出?」
「たぶん、そう」
「そっか……」
六埼はしばらく考えるようなしぐさを見せた後、ポケットに手を突っ込み、鍵を松田に手渡した。
「行くとこないなら、つかって。……気が向いたらでいいけど。俺は明日まで戻らないから」
六埼の自宅の鍵であろうそれには鍵とキーホルダーが付いており、そこにはマンションの名前と部屋番号が書かれていた。
「あ、電車やばい」
そう言い残すと、六埼は駅の中へと走っていった。
松田は手元の鍵を眺める。——なんだか胡散臭い。六埼とは話したことすらなかった。それどころか苦手意識すら持っていたのに。不思議と悪い気はしなかった。
なんにせよ、このまま家に帰らないのだとすれば、どこかに寝床を確保する必要がある。ベッドに入っても寝れそうにはないので、このまま朝までここに座っているのも有りだと思った。
「——雨」
ぽつりと、額に雫が落ちる。松田は数時間ぶりにベンチから立ち上がった。
◇
「——っていう訳で、家に来るかも」
「おお、さすが女たらし」
携帯越しにへたくそな口笛が聞こえて来る。通話相手は姉さんだ。
先程まで話していた人、——松田紗幸。彼女の横を通り過ぎた時、俺と姉さんが同時に『何か』を感じ取った。俺たちが探し物をしている時にそれが起こったのだから、それが何を意味しているかは明白だ。そこで、彼女とクラスメイトである俺が話しかけて、探りを入れてみることになった。
「……そういうのじゃないけど。うわ、雨降って来た」
「で、どうだった?」
「いまいちピンとこなかったかったから、確信は出来ないけど……まあ、怪しいね。帰れないってところが怪しい。こんな遅くまで何してたかも、はぐらかされたし」
「答えたくなかっただけじゃない?」
「かもね……」
ほとんど話したこともないような人に話しかけられて、いきなり自分のことをぺらぺらと話し出す人の方が少数派だろう。そこだけを見て怪しいと決めつけるのも早計な気がする。
「で、こっち来てるんだよね?」
「たぶんそう。……じゃあ、明日の朝に帰ってくるから、後よろしく」
「え……有矢、帰って来ないの?」
画面の向こうから素っ頓狂な声が聞こえて来る。
「そりゃあ、そうでしょ」
見たところ、松田さんは馬鹿正直なタイプでもなさそうだし、彼女を誘導するには、下心の見えない純粋な善意を作って接するべきだ。「家に付いて来い」なんてセリフは、こちらの本心がどうであろうと、相手方からは下心が見えてしまう。
「今から知らない人と一晩過ごさないといけないってこと?」
「そうなるね」
「有矢は?」
「明日」
不安そうに言っているが、姉さんならうまくやれるだろう。
◇
「ちょ……」
そこで電話が切れた。有矢は時々突拍子もないことをする。まあ、魔法の件について調べようといったのは六花だ。あまり文句が言える立場ではないのはわかっている。
「よし……」
とりあえずは片づけをしなくては。そう思って六花が立ち上がると、玄関がガチャリと音を立てて開いた。
早足で玄関へと向かうと、玄関のドアはばたりと閉まっていた。
——有矢、人が居るとは言ってなかったんだ。
玄関を開く。同時に、雨音が耳に響く。廊下の先に、逃げるように立ち去っていく一人の少女が見えた。
「待って!」
振り返った彼女、松田紗幸は不安そうな表情を向ける。肩口までの髪は雨に濡れて、水滴を滴らせる。
「松田紗幸さん。……だよね?」
六花は手招きをして、松田を呼び戻す。
「有矢から聞いてるよ。……濡れたままじゃ、風邪ひいちゃうよ」
「えっと……」
「
二人の目が合う。松田の表情は変がは少ないが、わかりやすい表情をしている。今は、たぶん驚きだろう。
「とりあえず、あがってよ」
六花は魔法については、一旦忘れることにした。ある程度勘を働かせても何も感じ取れなかったのだから、そこから先は運次第だ。
六花たちがこの家に来てからおよそ半年、他人を家に泊めるのは初めてだ。
松田をシャワーに半ば強引に押し込み、その間六花はご飯を作っておくことにした。食材は買ってきたし、レシピも調べてある。自信はあった。
「——オムライス、です」
「……ありがとうございます」
髪を乾かしてすぐに出て行こうとする松田を強引に引き留め、六花たちがいつも食事をとっているテーブルに向かい合って座る。
そして、二人の目の前には、オムライス。
……チキンライスとスクランブルエッグを並べただけに見えるが、作った本人がオムライスだと言えば、それはオムライスといえる。
「ごめんね、不格好な感じになっちゃったけど、味はまあ、食べれるぐらいにはなってると思うから」
「いえ、全然、おいしいです」
――なんだか気を使わせてしまったみたい。形はともかく、味は上手くいったと思ったのだけれど、チキンライスが何だかべちゃっとした感じになっている。有矢が作った時のようにはいかないみたいだ。
「ごちそうさまでした……あの、ありがとうございました」
丁寧に頭を下げ、松田は玄関へと向おうとする。
「あれ、帰るの?」
「はい……」
「電車? もう、終電行っちゃったと思うけど」
――確か、終電は十一時ぐらいだったはずだ。
「いえ、家には……帰らないんです」
「松田さん……何かあったの? いや、言いたくないなら、言わなくてもいいけど」
松田の顔が強張ったのが見えて、六花は慌てて取り繕う。
「……なんだか、帰りたくないなって」
「でも、まだ雨降ってるよ」
「それは……」
「いつまでも居ていいよ。少なくとも、私はそう思ってる。有矢がどういうかはわからないけど」
松田は困ったように俯く。自身のなさそうな態度、表情からは戸惑いも見て取れる。
松田からして六花の第一印象はあまり良いものではなかった。
初対面の人間は無条件で嫌ってしまう。それは自己防衛でもあった。
「泊っていって。私、三年生だから、先輩命令です」
だけど、それもすぐに崩された。いくら松田が嫌おうと、そんなことお構い無しに六花は晴れやかな笑みを松田の方へと向ける。
「いい、わかった?」
「……はい」
身振りも交えて、六花は滑稽なぐらいに大げさに話す。松田は不格好な作り笑いでそれにこたえた。
◇
「よう有矢くん。どうした、姉さんに締め出された?」
玄関の前で座っていると、廊下の向こうから男の声が響く。軽薄で、胡散臭い声、その声の主は緩慢な足取りでこちらに歩いて来る。
「九条さん。どうしたんですか」
「俺の話より前に、君の話を聞かせてほしいけど」
「……音を聞いてるんです。女の子が泊まりに来てます。僕は外泊という設定です」
携帯を九条さんの方に突き出す。
「なにこれ?」
「カメラです。部屋に仕掛けてあります」
「ええ……。でも、何も映ってないぞ」
「だから、音を聞いてるんですよ」
「カメラが物で塞がれたとか? ……なら手を貸そう。遠視なら今すぐにでも……」
九条さんはどこからともなく水晶玉を取り出す。
このおっさんは、職業・魔法使いらしい。実際のところどうなのかは知らないが、知識と能力は本物だ。
「いや、それは別にいいです」
「そう? 俺は覗きたいけど」
冗談めかして言うが、目が本気だ。犯罪者の目をしている。
「……危険な可能性がある以上、監視は必要ですけど、覗くわけにはいかないでしょう。紳士的に。だから、音だけ聞いてます」
当然だ。下心なんかない。
「うわぁ、気持ち悪い」
九条さんは両手で口元を隠し、これ見よがしにドン引いて見せた。
「……冗談ですよ」
「有矢くん、冗談は魔法の言葉じゃないんだ。君がなぜか自分の家にカメラを仕掛けて、女の子の生活音を聞いて涎を垂らしているという事実は変わらないんだ」
「涎は垂らしてない」
そこだけは否定しておく。俺はいたって真面目なのだ。
「まあいい。男として、一旦目を瞑ってあげよう。……それで、危険な可能性って何?」
九条さんは見た目の割に、仕事はきちんとこなす人だ。その九条さんが何らかの目的をもって俺の家に来たのだとすれば、それは俺たちの『直感』が目当てなのだろう。
「ここ最近の怪死事件、それが起きたタイミングで何らかの魔法が使われたのは、俺たち二人とも感知しています」
一度目は感じ取れなかったが、二度目ははっきりと感じ取れた。
「それでいろいろと調べていたわけなんですけど……。それで、曖昧な形だけれど、なにか怪しい気配のする人を見つけたので、連れて帰りました」
「なるほどね……。実は俺も、その件を追っていてね。あの三流以下の魔法使いは早いうちに何とかしたいんだ」
「三流以下……ですか」
痕跡一つ残さず人を殺すその手際からして、とても三流以下には思えないのだけれど。
「そう、一流の魔法使いはエーテル……まあ、魔力みたいなものだ。一流はそれを消費する量が少ない。テクスチャをうまく使って、少ないエーテルで多くの結果を出すのが優秀な魔法使いだ。——地上にこぼれてくるエーテルの量は限られているからね、無駄遣いは出来ないんだ」
なんとなく、話が見えてきた。
「じゃあ、三流っていうのは、エーテルを大量に使ってるっていう意味ですか?」
「そうだね。限られた資源を、馬鹿みたいにね」
確かに、傍迷惑な話だ。魔法使いである九条さんからすれば、一刻も早く止めたいのも頷ける。
「で、この家にその怪しい人物が居るのかい?」
九条さんの目が据わっている。談笑タイムは終了のようだ。
「ええ、この中です」
「……彼女の頭の中を覗こうか。それが手っ取り早い」
それができるなら、今すぐにでもそうするべきだろう。こんな所で盗聴している場合ではない。
「……ダメだからね。乙女の頭の中を覗くなんて」
ガチャリと、玄関のドアが開く音。玄関からは頬を膨らませた姉さんが覗いている。
「……個人的に信じてあげたくもなっちゃったし。それを抜きにしても、あの子に殺しは出来ないよ。——共犯だ。実行犯がいる」
「魔法を使ったのは別の人物だって?」
「うん、明日、あの子を尾行する」
「根拠は?」
「ないよ。だけど、あの子から目は離さない。何かしようとしたら、私が止める」
あれだけの会話で、そこまで信頼できるのだろうか。——やっぱり、姉さんは変なところで強情だ。
「じゃあ、おやすみ」
玄関のドアが閉まる。
苦笑する九条さんと目を合わせて、思わず笑ってしまった。
「——ところで、まるで六花ちゃんは俺たちの会話を聞いていたようだけど」
確かに、少し不自然だ。
意識を集中させる。直感をフルで稼働させれば、電波ぐらいなら感知できる。
「——あった」
胸ポケットに手を突っ込むと、硬い感触があった。直径五センチほどの黒い正方形、盗聴器だ。
「君たちいったい何?」
「別に、聞かれて困るようなことは話してませんよ」
盗聴器を胸ポケットに戻しておく。
「戻すのか。……俺は君たちがわからない」
あきれた表情の九条さん。俺からすれば、九条さんの方がよっぽどよくわからない存在に思えるけれど、まあ、わからないのが当たり前だろう。他人というのはそういうものだ。
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