決断 六




 そして、朝がやってきた。


 月曜日。


 午前五時、起床。


 洗面台の前で、顔を洗って歯を磨く。


 午前五時半。


 部屋で、じっとカーテンを見つめる。


 俺に必要なものは、論文じゃない。


 すべきことは、もうわかっているから。


 午前六時半、家を出立。


 午前七時、白戸総合病院に到着、また、院内のコンビニで朝食を購入。

 

 ほぼ同時刻に、緊急コール。


 救急隊員がカラカラと担架を押しているのに追随する。


「高齢の男性です。脳出血を引き起しています。激しい頭痛と意識障害、その他にも多くの合併症を患っているみたいです」


「……そうか」


「……?」


 近くにいた救急隊員や看護師たちが眉を顰めてこちらを見る。


 俺はじっと、運ばれてきた老人――鶴川永光の顔を見つめた。









 市川遥の場合






 私は今日、彼の手術に立ち会った。


 彼とは、私の上司であり、指導医の一人、「安藤周吾あんどう しゅうご」のことである。


 安藤さんは、不思議な人だった。

 

 初めて会った時は、なんとなく「多少はんだな」と感じる程度で、これと言った特徴は何も感じなかった。福良先生や杉原さんのような情熱も感じない。彼から学ぶことは少ないだろう。そう考えていた。


 だけど、私は見誤った。


 彼は外科的手術の技量に置いて、私が今まで見たどの医者よりも優れていた。


 彼の手術は、完璧だった。


 派手さはないが、あまりにも異質な手術だった。


 それはあまりにも速かった。


 奇跡のような開頭手術を何度も行っていた。


 彼が手を動かすたびに、


 皮膚が、

 筋肉が、

 臓器が、

 脳が、


 糸のようにスルスルと解けるようであった。


 まるで、血と肉に埋もれている腫瘤の位置が目に見えているのではないかと疑いたくなるほどに、その動きには淀みがなく、信じられない程的確に切除していく。


 私は何時しか彼の行動をつぶさに観察するようになった。


 彼は、普段は普通の医師のように思えた。だけど、時折スイッチが入ったかのように異常な行動をとることがままあった。一種のトランス状態に入っているのだろうかと、私はそんなことを考えていた。もしかして、麻薬か何かをやってるんじゃなかろうかと。


 とにかく、安藤さんはどの医者よりも興味深く、ユニークな外科医だった。


 そして、今日。


 私はその日、多分、彼の中に「神」を見た。


 或いは「悪魔」だったのかもしれない。


 それは、なんて事のない開頭手術だった。くも膜下出血を起こした患者の、再出血予防措置。クリッピング術。脳神経外科医なら毎日のように行う手術だ。


 だけど。


 いや、だからこそなのかもしれない。まるで鉗子が、神経の通った触手かのように、スルスルとシルビウス裂の上を駆け巡る様は、まさに異様だとしか言いようがなかった。


 あまりもその治療は完璧だった。いやそれ以上だ。


 手際が良すぎた。


 熟練の看護師ですら目を剥いていた。


 完璧の、その先の領域に彼は達していた。


 その治療に立ち会った人間はみな戦慄し、その手腕に目を奪われたに違いない。


 そして、


 何より私の心胆を寒からしめたのは、彼の目だった。


 安藤さんの目は、顕微鏡越しに患者の脳を


 目は顕微鏡に向けられていたが、見てはいなかった。虚空に目の焦点が向けられていた。何か、別のことを考えているかのような目だった。吸引を担当していた私は、隣で不意にそれを見てしまったのだ。


 つまり、彼は


 なんだか見てはいけないものを見てしまったような気がして、私はすぐに彼の目から視線を外したけれど。


 もしアレが私の見間違いでなければ。


 アレは間違いなく神の仕業か、


 でなければ、悪魔の仕業だと、


 そう思った。


 心の底から。


 そして、一人の外科医師を志している人間として、



 どうしようもなく、心の底から心惹かれた。









 手術が終わり、運ばれた老人は、誰一人いない集中治療室で一人、寝かされている。呼吸の音すら聞こえない。 


鶴川永光つるかわえいこうさん、か……」


 俺は彼――鶴川永光が寝かされているベッドの脇に、丸椅子を添えてそれに座って腰を落ち着けた。


 それから、生気の一切を感じない、彼の骨ばった顔を見下ろした。


 この病室に、俺と、彼以外の人間はこの場にいない。


 俺の、彼の二人きりだった。


「あなたとサシで話したいことがあるんだ」


 当然だが返事は帰ってこない。でも、俺は気にせず話を続ける。


「あなたは生命維持装置が無いと生きていけない」


 目を開けない。当たり前だ。仮に麻酔が切れたとして、目を覚ますかどうかわからないのだから。十中八九、一生目覚めることなく、このまま機械につながれたまま枯れるみたいに死ぬのがオチだ。


「でも、他にそれを必要としてる人がたくさんいる。まだ小さな子どもなんだけどな」


 おそらく、あと数時間もしない内に、あの子はウチに運ばれてくる。子どもを助けるための集中治療のための生命維持装置は、無い。


「あなたは老衰寸前だ。身内もいないし、それに治療費もどうせ払えない。このまま機械につながれて生きていても、少なくとも俺は、仕方がないと思う」


 子どもは死ぬ。このままでは。




「だからあなたの死ぬ時は、俺が決めることにする」




 生命維持装置なら、


 


「俺があなたを責任もってよ。代わりに子どもの命を救う」


 何のために俺はこの時間軸をループし続けていたのだろう。


 ただの神か悪魔の悪戯だろうか。


 はたまた、完全なランダム、偶然の産物か?


 違う。そうじゃない。


 初期の頃の出がらしみたいな散発的ループ現象を除けば、これまでのループのその全てに何かしらの規則性と言うか、作為的なものがあった。つまり、が、俺をこの時間の牢獄に閉じ込めているのだ。


 誰がそんなことをしているのかは、知らない。


 神か、悪魔か。


 腫瘍か。


 はたまた無意識の俺自身なのか。


 そんなことはどうでもいい。


 俺はこのループから必ず脱出することに決めたのだ。


 たとえ、医療倫理に反することとなっても。


 彼を切り捨てて、子どもを救えというのなら、俺はやる。


 俺の未来のために。


「……いいですね」


 しばらく黙って返事を待っていたが、ピクリとも動かない。


 彼の意識は、無いのだ。


 大きく息をはいて、人工呼吸器のスイッチに手を伸ばした。そして、ためらわず装置のスイッチを


 落とした。


 警告音が鳴るが、俺は無視した。


 しばらくして、心肺が停止。


 すぐに心電計を止める。


 同時に警告音がやむ。


 死んだことをしっかりと確かめてから、時刻を確認した。


 死亡時刻午後三時二十九分。


 恐ろしい勢いで、遺体の顔から色が抜けてゆく。


 それから、遺体が、ベッドにずぶずぶと沈んでいった。


 ような気がした。


 「人は死ぬと魂の分だけ軽くなる」などと、まことしやかに噂されていたのを巷で聞いたことがあるけれど、この遺体は寧ろ、死んだ分だけずっしりと重くなっているように俺は感じた。


 なんとなく、見慣れているはずの死体が不気味に思えた。


 いや、そんな詮無きことを考えて立ち止まっている暇などない。


 すぐにこの病室を明け渡さなければならない。輸血用の血液や透析器なんかもだ。


 これを必要としている人は、この病院にたくさんいるのだから。


 遺体と機材を運び出そうと立ち上がると、人影が入り口に立っているのが分かった。


 目を見開いた。


 市川だ。


 驚いたような顔で、こちらを見ている。


 しまった。


 見られたか。


 ところが俺の身体はピクリとも疚しさを覚えていなかった。動揺すらしなかった。


 まるで、何事もなかったかのように平気な顔で彼女を見つめた。

 

「あの……」


「透析器や輸液を運んでおいてくれ。他の患者に回す」


「あの、はい、それはもちろん。


 でも、その人……」


 俺は言った。



「老衰だよ。80代くらいだ」


「……」


「大往生だろ?」



 市川は目を見開いて俺の目を凝視して、何事か逡巡していたようだった。


 が、やがては納得したかのように、頷いた。


「そうですね。私も、そう思います」


 そして、彼女は少しだけ笑みを浮かべたのだった。





 〇




 それから俺と市川は、黙々と機器を運び出した。市川は俺に粛々と従ってくれた。彼女は俺の行動を目撃していたのだろうか。もし、目撃していたとして、何故彼女は黙ってくれているのだろう。俺の殺人行為に、ある程度情状酌量の余地があるとでも考えているのだろうか。


 わからない。


 俺は、正しいことをしたのだろうか。


 それとも、ただ悪魔に唆されて、人殺しをしただけ?


 答えを教えてくれる者は、誰もいない。


 何もかもが分からないままだった。


 何もかもが分からないまま、一切は過ぎていった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る