第4話     浅太郎の病は……

 

               一


 縁起の悪いとこへ来合わせたものえ。

 壬生村を訪れた浅太郎は面食らった。

 坊城通は人で溢れ、前川荘司邸では、芹沢と平山の葬儀が盛大に行われている最中である。

 早々に葬式が行われるとは……。

 今をときめく新撰組絡みなので、町奉行の検視が省かれたらしい。


「近藤さまの弔辞は誠に心のこもった立派なものどしたなあ」

 出棺を待ちながら、壬生郷士の長老を務める八木源之丞がしみじみと呟いた。

「近藤さまに続いて焼香しはった立派なお侍はん二人は、本圀寺はんに泊まってはる水戸さまの御家中で、芹沢さまのご兄弟やそうな」

 杖を手にした年配の郷士が感心したように小声で応じた。


 大勢が見守る中、粛々と隊列を成して進み、立派な棺に納められた芹沢と平山の遺体が壬生寺の墓地へと運ばれていく。 


 立派な葬式だな。規律正しい歩きぶりといい、隊が大きくなるとこうも違う。

 いままで貧乏浪士の集まりと馬鹿にしていた浅太郎は感心した。 


 沖田に用があったが、今度にせねばと、坊城通を南へ下りかけたとき。

「浅太郎。久しぶりやおへんか」

 八木為三郎が脇にすり寄って来た。

「うちはなあ、浅太郎。芹沢さまが殺されはった六畳の間で寝てたんえ」

 小柄な為三郎は、浅太郎の表情を窺うように見上げた。

「ほんまかいな」

 思わず話に釣り込まれた浅太郎に、為三郎は待ってましたとばかりに早口で続けた。

「『そらもう魂消たわ』……て言いたいとこやけど。うちも弟の勇之助もぐっすり寝てたもんやさかいな。全然見てへんねん。勇之助なんか飛ばっちりで右足に怪我したのも気ぃつかんくらい、ぐっすり寝てたんえ」

 くるくる良く動く黒い瞳をいたずらっぽく光らせた。

「なんやいな」

 拍子抜けした浅太郎が、さっさと立ち去ろうとしたとき。

 前がつかえたため、葬列の最後尾が立ち止まった。


「なんでも、隊内におる長州の間者の仕業やそうな」

 為三郎は急に声を落として辺りを窺った。

「お母はんは『暗いさかい曲者の顔なんか見てへん』て言うたはったけど。えらいおどおどしたはって、なんや嘘っぽかったんや。ほんまは見てはったのと違うやろか。口封じに、うちらを狙うちゅうことはおへんやろか」

 為三郎は唇まで蒼くして押し黙った。

「あんたのお母はんが間者の顔を見てはったのやったら、いの一番に近藤さまに知らせてはる。葬式の前に間者は退治されてるはずやおへんか」

 浅太郎の言葉に為三郎はたちまち気を取り戻し、

「もう浅太郎の気鬱の病はすっかり大丈夫なんかいな」と別の話題を振ってきた。

「この前、浅太郎が怒って帰ったよってにな。明くる日、お高はんの家を訪ねたんやけど。『ぼんは、いつもの気鬱で寝込んだはりますえ』て会わしてもらえんかったんや。如月はんの一件があった後やさかいな。せんど気になってたんえ」

 為三郎は歳の割に子供っぽい仕草で小首を傾げた。

「持病やさかいしょうないわ。なんとか治したいもんやけどな」

 浅太郎は言葉を濁した。

 

 いつまで気鬱の病だと誤魔化さねばならないのか。


 先が見えない不安は、姉の浅葱と一対になっている。

 浅太郎は浅葱のつんと澄ました顔を思い出して、ざわざわ騒ぐ胸を忌々しく感じた。


 いったん動きを止めていた葬列が再び動き出した、そのとき。

「おお。浅太郎。久しぶりだな。来ておったのか」

 沖田が浅太郎の肩をぽんと叩いた。とびきりの笑顔は、葬儀の日にはかなり場違いだった。

「沖田さまにちょっとお願いがあって来たのどすが……やっぱし……」

 浅太郎はいざとなると迷いが出て、口ごもった。

 

 安藤の世話で葛山が新撰組に入隊したと、重右衛門から聞かされた。

 如月だけ死に損で、葛山は二本差に戻ってのうのうと生きるのかと思えば、矢も楯も堪らなくなった。

 方策は後ほど考えるとして、まずは復讐のための第一歩踏み出したかった。

 だが……。


「なんだ。なんだ。言うてみい」

 沖田が嬉しそうに浅太郎の背中をばんばん叩いた。

「実は……撃剣の腕を上げたいと思うてます。武に打ち込んだら、つまらん悩みも思い煩わんで済むかいなと……」


 口を突いて出た言の葉はもう戻らない。

 新撰組の周辺をうろついておれば、復讐するための機会も見つかるに違いないと、浅太郎は腹を括った。


「殊勝な心がけではないか。浅太郎は筋が良いから、きちんと稽古をすればものになるぞ」

 舌舐めずりせんばかりの沖田は腰に手をあて、愉快千万というように高笑いした。


 沖田は『しごき甲斐のある獲物が手の内に飛び込んだぞ』て思っている。

 浅太郎はたちまち後悔した。


「とはいえ浅太郎がいくら腕を上げようとも新撰組に入るわけには参らぬがな」

 長屋門の壁板を背に、沖田はいかにも残念そうに口を歪めた。


「なぜ最初から無理だとわかるのどすか」

「後顧の憂いなく存分に戦うために惣領は採らぬのだ。妻子持ちの場合も、妻子を屯所から十里以上遠方に住まわせ、離縁同然でなくては入隊は叶わぬ」

「うちには姉の浅葱がいてます。姉が三崎屋を継ぐんやったらうちにも資格があるやおへんか」

 辻褄が合わない抗弁を承知で言い募ったが、沖田はからかうような動作で首を横に振った。

「いずれにせよ剣の道を目指すとなれば拙者の同志だ。いくらでも手ほどきしてやろう」

 これ以上ないほどの溢れんばかりの笑顔で、沖田は白い歯を煌めかせた。

 遊びで教わってさえ恐ろしかった沖田の剣鬼ぶりが、恐怖の実感を伴って蘇った。


                二


 九月二十六日は朝から霧が濃かった。まるで雲海の中にいるような気分である。

 視界がいくらか開けたかと思えば、すぐさま目と鼻の先さえ判然としなくなった。


「お父はん。うちを放っといてんか」

 訪ねてきた重右衛門を、浅太郎は八木家の敷地内から坊城通へ強引に押し出した。


 浅太郎は為三郎の誘いもあって、芹沢の葬儀の日以来ずっと八木家に居候していた。沖田の隊務の合間に稽古をつけてもらうには、八木家での起居が便利だった。


 恐ろしい出来事が起こった直後であるので、男手が一人でも加われば心強いとの理由で八木家の家族も歓迎してくれている。


「そないいうたかて、大事な浅太郎が怪我せんか思て心配やがな。ヤットウが習いたいんやったらわしが通うてる下立売通の道場に通うたらええがな。あそこやったら町民相手やさかい、怪我のないよう一から優しゅう教えてくれはるで」


 重右衛門は毎日のように壬生までやってきて「危ないえ。危のおす」を連発する。

 今日はお信までがお峰を引き連れ、駕籠で乗り込んできた。

 重右衛門とお信は距離を置きながらも、こと浅太郎に関しては意見が一致していた。


 子は鎹という。せっかく甘やかしてくれるのだから、せいぜい我が儘をしてやろう。なさぬ仲なのに、どこまで許してくれるか。試してやろうじゃないか。

 浅太郎は返事もせずに長屋門のうちに戻ろうとした。


「こりゃ。浅太郎。待たんかいな」

 浅太郎の腕を、重右衛門が肉厚な手で掴んだ。

「肘のその青痣はなんどすえ。手の甲かてえらい腫れてるやおへんか」

 目聡く指摘する。

「新撰組ちゅうたら、人を斬るのが楽しい鬼ばっかしや。沖田さまかて、あないに子供みたいな顔したはっても……」

 顔を真っ赤にして重右衛門は早口に言い募った。


「そうどすがな」

 重右衛門の言葉を横取りしたお峰が、

「浅ぼんは沖田さまの子分みたいにされてはってからに。騙されてはるのどす」

 こめかみに青筋を立てて捲し立てた。

 泣きそうな顔のお信は坊城通に立ち尽くしたまま、胸の前で両手を握り締めている。


「みんなして辛気くさい顔してからに。うちはもう一人前の男どす」

 浅太郎の堪忍袋の緒がぶっつりと切れかけたとき。

 前川邸の裏門の木戸から沖田がひょっこりと姿を現した。

「お父はんもお母はんも早うお帰りやす。うちの考えは変わりまへんえ」

 捨て台詞を残し、浅太郎は沖田に向かって手を振りながら駆け寄った。


 重右衛門ら島原の者は、新撰組隊士を客としてもてなすものの、内心では毛嫌いしている。一同は沖田に如才なく挨拶だけすると、

「浅太郎。今日はしゃあないよってに、また明日、来るさかいな」

 うち揃って坊城通を南へ下り、田圃道をぞろぞろと島原へ引き揚げて行った。一行の姿はすぐ霧に紛れて見えなくなった。


「沖田さま。今日は……」

 いいかけた浅太郎を沖田は無視した。

「おお。無事に戻って来よったか。ははは」

 坊城通の北方向を透かすように、沖田は眉の辺りに右手を掲げた。


 深い霧の中から人影が近づいて来た。

 副長助勤の永倉新八と平隊士の中村金吾だった。

 永倉は二十五、六だが、恰幅が良く、三十を過ぎに見える貫禄の持ち主で、押し出しも強い。一方の中村は平凡な小兵なので、主従二人連れに見えた。


 霧の中からぬっと現れたさまに、浅太郎は訳のわからぬ不穏な動悸を感じた。

「祇園はどうであった。《一力》で騒動でも起こしたか」

 沖田は冗談めかした口調で尋ねた。


 花見小路の角にある《一力亭》は格式の高い茶屋で、大石内蔵助が豪遊したとの逸話が残されている。勤王佐幕に関係なく策士が集う場で、有りようは島原の角屋などと同じだった。


 朝帰りした永倉の顔も中村の顔も紅潮していたが、二日酔いというより興奮冷めやらぬ様子に見えた。

 中村だけ「では取り急ぎ報告してまいります」と緊張した面持ちで屯所内に消えた。


「沖田。やはり……であった。逆に拙者も危ういところであったが」

 耳打ちするように永倉が沖田に話しかけ、沖田が大きく頷いたが、肝心の部分は聞こえなかった。

「近藤局長の御指示を仰ぎ、いよいよ決行致す。沖田、貴公も……」

 永倉は低い声で告げるや、前川邸の裏門をするりと潜って屋敷内に入った。


「沖田さま。永倉さまと何の話をされていたのですか」

 興味に駆られて沖田に尋ねた。

「隊内に間者が数名潜り込んでおるのは、浅太郎も存じておるな。昨晩、永倉は、頭目格の御倉伊勢武と荒木田左馬之介を誘って一力に登楼したんだ」

 浅太郎は一言も聞き逃すまいと、沖田に顔を寄せた。 

「芹沢局長の仇だからね。永倉さんは、機会があらば斬ろうとしていたのだろうけど、失敗に終わったわけだ。はは。御倉と荒木田は先ほど、何事もなく戻って来たし」

 大事を打ち明けるほどの一人前扱いが嬉しかった。


「間者とわかっていて、近藤さまや土方さまはなぜ放っておかれるのですか」

「近藤さんや土方さんにも、大人の都合があるってことだ」

 肝心の部分をぼかす沖田に、浅太郎は『やっぱしうちは子供扱いかいな』と、むかっ腹が立った。

「このあと屯所内で面白いことが起こるぞ」

 沖田の息が浅太郎に掛かった。仄かに味噌汁の匂いがした。

「飛ばっちりを食らいたくなきゃ、家に帰るか、さもなきゃ八木邸の中に籠もっていることだね」

 沖田は思わせぶりな態度で、浅太郎の目の奥を透かすようにのぞき込んだ。


 浅太郎は肩を窄めて「なんやら怖おおすさかい、うちは亀が甲羅に閉じこもるみたいに、八木家の中に引っ込んどきますえ」

 恐怖に震える子猫のような顔をしてみせた。


「そうかそうか。おとなしくしておるほうが身のためだなあ」

 満足げに高笑いしながら前川邸に入っていく沖田の後ろ姿には、隠しきれぬ期待と緊張感が漲っていた。  


                三


 沖田が屯所内に戻ってから、もうかれこれ半時が経つ。

 浅太郎は八木邸前庭の石灯籠に腰を下ろして、じりじりしていた。

 早朝稽古は終わっているので、八木家の母屋と離れ屋敷との間にある道場――文武館はひっそりと静まり返っていた。


「そないなとこで何してるんや。とっくに稽古に出かけたのかと思てたわ」

 八木為三郎が母屋の長屋門から、ひょっこり姿を現した。


 拙い。

 浅太郎はこめかみに厭な汗を感じながら、さりげない口調で答えた。


「もうすぐ沖田さまが出てきはるよってに待ってるだけや」

 浅太郎の言葉を信じた為三郎は、

「ほな稽古が終わったら一緒に鯉釣りに行こな。お母はんに頼んで、浅太郎のぶんの握り飯も用意しとくえ」

 小走りで母屋に戻って行った。


 坊城通に足を踏み出した浅太郎は、前川邸に沿ってうろうろしながら、通りに面した出格子に近づいて気配を窺った。

 締め切られた室内に、人の気配があるものの、静かだった。

 大勢の隊士たちの動きは感じられず、広大な敷地内の様子はまったく窺い知れなかった。


 前川邸は新撰組の実質的な本営で、いまやいかめしい要塞と化している。

 沖田から『納戸の床から坊城通に通じる抜け穴まで掘られている』と聞かされた。 

 強引に屯所として接収されて以来、主である前川荘司の家族は逃げ出したままで、新撰組に完全に乗っ取られていた。


 綾小路通の辻を曲がった。ぴたりと閉じられた長屋門を横目に、表長屋の出格子の前を通り過ぎながら、綾小路通側から様子を窺った。


 当初、長屋門のある表長屋が改修されて道場として使われたが、隊士の数が増えるに従って隊士の起居する部屋に改造され、前庭に文武館が新築された。 


 八木源之丞はいまだに踏ん張っているので、庭に道場を建てられる程度で済んでいるが、八木家より遙かに広大な前川邸は、新撰組によっていいように変えられ、血生臭い用にも供されていた。

 貴重品の納められていた東の蔵などは今や〝拷問蔵〟に変じている。

 手入れの行き届いていた庭も踏み荒らされ、裏庭には砂山が築かれて大砲の調練までされるなど、新撰組のやりたい放題だった。

 

 坊城通と綾小路通を何度も行きつ戻りつしたが、誰かが出てくる様子もない。

 水を飲むため、前庭にある井戸まで戻ろうとしたときだった。


 坊城通に面した中庭辺りで、蛙が踏み潰されたような短い悲鳴が上がった。

 堅固な土塀に囲まれた中庭が、にわかに騒がしくなる。


「御倉と荒木田の両名を討ち取ったり」

 誰かが上擦った声で叫んだ。

「斎藤氏に林、ご苦労だった」

 続いて聞こえた永倉の声には感無量な響きが感じられた。


 とうとう間者を成敗しはった。芹沢さまと平山さまの仇を見事に討ちはった。

 興奮で握り締めた手が汗びっしょりになる。


 騒ぎは瞬く間に屋敷うちに飛び火し、蜂の巣を突いたような騒動になった。


 残る間者の掃蕩が始まった。

 浅太郎は思わず腕捲りした。


 邸内を走り回る物音やいきり立って騒ぐ声とともに、

「油断するな。ほかにも間者はおるぞ」

 沖田の力の籠もった雄叫びが鮮明に聞こえた直後……。

 裏門の木戸が開き、影が一つ転がるように飛んで出た。

 誰かと戸惑う間に、もう一つの影が木戸から姿を現す。


 井上源三郎だった。

 すでに抜刀しており、坊城通を北へ逃げようとする人影に背後から斬り掛かる。

 気合い鋭く縦一文字に一太刀を浴びせた。


 さすが井上さま、と思ったものの、どうやら掠っただけだったらしい。

 野良猫の断末魔のような叫びとともに、男はあり得ぬ早さで駈け去った。


「待て。松永!」

 大刀を手にした井上が叫びながら、ばたばたと追う。

 逃げた隊士は松永主計という平隊士だったかと、思う間にも二つの影は遠ざかり、たちまち霧に紛れた。 


 自分も剣の修行をして立派な武士になる。

 新撰組に入隊して思うさま暴れてやる。


 眼前で一瞬だけ繰り広げられた実戦が、浅太郎を熱くさせた。


 まだまだ未成熟な我が身が忌まわしかった。

 それなりに筋肉質だが、女の扮装をすれば女で通る。

 ついでにいえば……。

 双子の姉の浅葱は、娘らしい振り袖姿だからこそ女に見えるが、胸の膨らみも申し訳程度で、尻の肉置きなどは惨憺たるものだった。


 田畑が広がる北側から濃い霧がまたも押し寄せ、熱くなった頬をひんやり撫でた。


 突然、綾小路通方向から悲鳴と怒号が響いた。

 綾小路通に面して前川邸の正門があり、長屋門が長く続いている。

 浅太郎は坊城通を突っ走り、綾小路通の辻に向かった。


 向かい側には広い壬生菜畑や田圃が延々と広がっている。

 ふたつの影が壬生菜畑を踏みしだきながら、もつれ合うように走る。誰が誰だか霞んで見えない。


 前を行く影はすでに手傷を負っているらしい。

 動きが鈍く、何度も執拗に斬りつけられる。

 憐れな悲鳴が広い緑の海に響き渡り、急に途絶えた。

 畑に倒れ込んだ男に、もうひとりの男の影が覆い被さったと思うと、すぐさますっくと立ち上がった。


 何かをぶらさげ、霧のなかをゆっくり戻って来る。輪郭がはっきりするにつれ副長助勤である原田左之助と知れた。


 原田が右手に鷲掴みしている物は、紛れもなく生首だった。

 罪人の晒し首なら珍しくない。だが見知った男の生首を見た験しはなかった。

 浅太郎は息を呑んだ。


 生首は楠小十郎という隊士だった。

 畑の泥にまみれ髪を乱した血だらけの首は、凄惨な美しさをたたえていた。

 まだ十七で前髪を落としたばかりの初々しい美男だったが、いまや人形の首にしか見えない。


 白い歯を見せながらのっそりと歩み寄る原田は、得体の知れぬ魔物に見えた。

 美男が美男を討ち取って生首をぶら下げている。


 新撰組は魔物ばかりだ。

 魔物の巣窟に身を投じたい欲望はさらに深まった。


                     四


 師走も二十七日になり、文久三年も暮れようとしていた。

 間もなく初春を迎える。

 浅太郎はときおり〝持病〟が出て家に戻るものの、相変わらず八木邸で厄介になっていた。

 重右衛門は八木家に気を遣って付け届けを欠かさない。

 今朝も正月用の上等な干菓子がどっさり届き、為三郎兄弟が大喜びしていた。


 よいしょぉっ、よいしょぉっ。

 前夜から一家総出で餅搗きをしていた。


 同い年だが、浅太郎は主役たる杵搗き役で、為三郎は補助的な蒸籠運びだった。

 為三郎は恨めしげな顔をしながら、裏方作業に精を出している。


 沖田の〝愛情あふれる〟薫陶の御陰で、腕っ節が異常に強くなった。

 浅太郎は、大人の男たちに混じって餅搗きの戦力として貢献している己が誇らしかった。

 昼九つ前の今は浅太郎が杵を搗き、八木源之丞が合い取り役である。


 前川邸の屯所から隊士が数人出てきた。

 藤堂平助のお坊ちゃま顔が先頭にあった。

 これから市中見廻りに出掛けるらしく、稽古着を中に着込んだ黒装束が勇ましい。


 いつもなら浅太郎をからかう藤堂だが、平隊士とともに固い表情で通り過ぎた。

 冷やかされれば言い返してやろうと待ち受けていた浅太郎は、肩すかしを食らってしまった。


「おお。餅搗きか。そういえば、去年は試衛館総出で行なったものだがな」

 明るい声とともに沖田が、正門側の綾小路通の辻から姿を現した。


「浅太郎が搗き手とは、さぞかし不味い餅ができるだろうな」

 沖田はいつもの笑みで場を和ませる。


「これで万事、すっきりというものだ。良い正月が迎えられるぞ」

 右手を翳して雲一つない青空を見上げた。

 沖田の晴れやかな表情に釣られ「なんぞ、ええことでもあったのどすか」と餅を搗く手を休めたときだった。


「おお。やっておるのお」

 安藤が沖田と同じく正門側から、ぷらぷらと姿を現した。


「安藤殿。先ほどはご苦労様でした」

 何故か沖田は、安藤に向かって丁寧な礼をした。

「安藤さまも餅搗きしはりまへんか。源之丞はんがだいぶ疲れてきはったみたいどすし」

 八木家の女中が安藤の体格を見込んで、気安く誘った。


「親戚の餅屋で半年ほど餅の合い取りを手伝うたことがある。任せておけ」

 ごわごわした木綿の羽織を脱ぐや、安藤は袴の股立ちを取って臼の前に立った。


「よし。浅太郎。調子よく参ろう」

 言葉の通り、慣れた動きで餅の合い取りを始めた。浅太郎相手なので態と調子を外してみたり、今日の安藤はいつもより剽軽だった。


「安藤殿が餅搗きとは驚きましたよ。はは」

 諸士調役兼監察である林信太郎の声に、杵をつく手を止めて振り返った。


「安藤殿はちゃんと手を洗われましたかな」

 林は冗談めかして源之丞に訊ねた。

「え。いや、洗てはらへんようどすが……」

 不思議そうに聞き返す源之丞に、

「さきほど野口の介錯をして、そのまますーっと消えたと思えば、餅搗きとはねえ」

 林は愉快そうに笑ったが、口元が引き攣っている。


「あの野口さまが切腹て……」

 八木家の人々も浅太郎も絶句した。

 瞬時に場が凍り付く。


 安藤は「同じ釜の飯を食った仲間を斬るのは後味よいものではない。せっかく気持ちを入れ替えておったものを」と恨みがましい目で林を睨んだ。


「野口健司はんが切腹しはったのは何処どす」

 源之丞が痛ましげな顔つきで訊ねた。

「表長屋の角部屋だ」

 林が綾小路通と坊城通が交差する辻を差した。 

 沖田や安藤が、いつもの裏門からではなく正門から現れた理由は、野口が切腹した部屋から出てきたからだった。


「なぜ切腹などを?」

 源之丞の問いかけに、林は困ったように、

「詳しい事情は拙者にはわからぬ」

 言葉を濁しながら逃げるように屯所に戻ってしまった。


 安藤もバツ悪そうな顔で、懐手をしながら坊城通を南に下っていく。

 おおかた〝厄落とし〟に島原の女郎屋に行くのだろうと、浅太郎は安藤の後ろ姿を睨んだ。

「そろそろ交替しよやおへんか」

 八木家の下男が気を利かして、浅太郎から杵を受け取った。


 浅太郎は沖田とともに坊城通を北に上がった。

 通りの両側には刈り取られたあとの田と壬生菜畑が広がって、春を待ち侘びている。

 冷たい風が浅太郎の鬢を撫でた。


「野口はね。芹沢派だったから、難癖をつけられて切腹させられたんだ。間者騒動のあと阿部十郎らのように早く逃げ出せば良かったのにね。拙者や藤堂は野口にそれとなく脱走を勧めたのに聞かなかったんだから、自ら招いた不運ってわけだ」

 沖田は立ち止まって大きく伸びをした。

「局長を暗殺した一団は長州の間者たちで、間者を退治して一件落着。最後に残った野口も葬った今、芹沢色は一掃ってわけだ」

 沖田の辻褄の合わぬ言葉に、浅太郎の中で真相が形を成していった。


 近藤一派は芹沢と平山を暗殺し、長州の間者の仕業と触れ回った。

 芹沢派の御倉や荒木田らは、自分たちが間者と目されているとは露知らず、直ちに脱走せねばならぬほど切迫した事態と思わなかった。


 中庭に面した縁側で暢気に結髪中だった御倉と荒木田は、永倉の手引きによって斎藤一と林信太郎の両名に刺し殺された。

 逃げ出した松永主計は井上源三郎に斬られながらも霧に紛れて逃げおおせたが、楠小十郎は原田に討ち取られた。

 越後三郎と松井龍三郎はたまたま不在のため命拾いし、事件を知って行方を眩ませた。

 これですんなり理屈は通る。


「芹沢さま殺害は間者の仕業と違ごたんどすか。芹沢派に間者の汚名を着せて退治したのどすか」

 相手が沖田なので、遠慮無く問いただした。

「近藤先生も土方さんも……。永倉さんだって、あやつらは間者だったと言っている。だから、嘘のはずないじゃないか」

 沖田はにやりと笑った。


「新撰組の中に間者がうようよおったちゅう話からしておかしおしたわな。隊士五十二名のうちに間者が六人もおったやて……」


 八月二十五日入隊の松井を除いて、御倉・越後・荒木田・松永・楠の五名は、壬生浪士組時代の六月からすでに在籍していた。

 長州が結成間もない無名の浪士組に、五名もの間者を潜入させたはずなどない。


「間者退治の直後に阿部さまはじめ何人も逃げ出さはった。阿部さまたちも間者だとしたら、隊内は間者だらけやったちゅう計算になるやおへんか」


 五十二名を数えた新撰組は間者騒動で隊士が激減した。

 懸命な募集によって新規加入者を得たものの今なお四十名である。


「影では芹沢組と言われるほど、芹沢派は多かったからね」

 沖田はまた歩き始めた。

「芹沢さんのほかは小者ばかりだったから、試衛館一派は勝利を収めたってわけだ」

 前を見ながら呟く沖田の顔からは何の感情も伺えなかった。


 姑息な手を使ってでも勝利を収めればよいのか。

 戦いは勝てば良いのか。


 ますます新撰組に興味を持つ反面、暗い淵を覗いた心持ちに陥った。


                     五


 年が明けた。

 家茂が師走の二十七日に江戸を出立し、海路で上京している。

 その警護のため正月二日に大坂に下る新撰組に、正月気分など皆無だった。


 重右衛門とお信に懇願された浅太郎は、三崎屋へ戻って家族揃っての祝いの座敷にいた。


「新撰組はんもお上に認められたちゅうことどすなあ」

 上下で正装した重右衛門が、ほちゃほちゃした口調で、手ずから安藤に酒を注いだ。

 安藤は午前中から〝新年の挨拶〟と称して三崎屋にやってきた。

 新春の宴に図々しく同席し、祝いの膳に迷い箸をしながら、意地汚くご馳走を突いている。


 重右衛門は、内輪の席だからと断るべきだったが、ますます景気の良い新撰組に従いて行けば、おこぼれに与れるとでも胸算用しているらしい。

 浅太郎は食う気もないのに、お頭つきの鯛を突いて身を解した。


 正月の華やぎは昨年と同じだが、人形のように艶やかだった如月太夫がいない。

 寂しさが胸に込み上げると同時に、葛山への恨みが大きく蘇った。


 三崎屋の景気は如月を失って以来ぐんと下降し、祝いの席も心なしか地味になった。

 安藤のような藁屑に縋ろうという、重右衛門の根性が信じられない。

 去年までの豪気な重右衛門とは思えなかった。


 三崎屋の身代がこの先どうなろうと、自分には関係がない。

 三崎屋と縁を切って好きな道へ進むだけである。

 好きな道の先に新撰組があった。


「浅太郎も十五で、そろそろ元服も考える大人どす」

 お屠蘇気分で上機嫌の重右衛門が、盃を目の前に高々と掲げた。

「浅葱も浅太郎ももう十五て、年月の経つのは早よおますなあ」

 同じ上座でも、重右衛門と距離を置いて座ったお信が、感慨深げに何度も頷いた。


「浅葱はんも一緒に初春を祝えたらよろしおましたのになあ。また気鬱で伏してはるのが残念どすなあ」

 仕立て下ろしの美麗な着物を着た若い仲居が、安藤に酌をしながら口を挟んだ。


「浅葱はどないもあらへん。うちの顔を見とないから、部屋に引きこもってるだけや。去年は、浅葱が祝いの席にしゃしゃり出て来てたさかい、うちのほうがげんくそ悪うてお高の家で不貞寝してたやないか」

 浅太郎は声を荒げた。


 お高の名前が出て、お信の目尻が急につり上がった。

 お信が腰を浮かしかける気配に気付いたお峰が、

「ああ、そないいうたら、そうどしたかいなあ。今まで御姉弟で一緒ておへんどすもんなあ」と、言わずもがなな口を挟んだ。


「あー。うちはもう帰らしてもろうわ。お・た・かの家に戻ろかぁ」

 浅太郎は席を蹴って立ち上がった。


 壬生に戻るべく濡れ縁に出た浅太郎に、重右衛門が巨体を揺らしながら追いついてきた。

「ちょっと待ってや。浅太郎。実はな……」

 重右衛門は耳元に、酒臭い息を吹きかけてきた。

 脂ぎった額に汗が光る。

 煙草のやにのせいで黄色い歯が品性の下劣さを現していた。



 重右衛門の欲に塗れた姿を見ると、若さに溢れた綺麗な時期にいっそ清く散りたいとさえ思えてくる。

 常に命を危険に曝す新撰組隊士も同じような心持ちに酔っているのではなかろうか。

 己の信じる道に殉ずる意味では純粋で清い。

 ……と、ここまで考えて、浅太郎は思い直した。


 自分が重右衛門のようになるわけがない。

 重右衛門の血をこれっぽっちも受け継いでいないのだから。


 過日の松井喜三郎の姿が思い浮かんだ。喜三郎は決して美男ではなかったが、一途に何かに打ち込んでいる職人的な風貌は、世俗を超越した高僧のごとき潔さを感じさせた。


「すまん。すまん。けど、聞いてんか。浅太郎。ええ話どすえ」

 重右衛門の酒で充血した目が卑しげな光を増した。

「浅太郎ももう十五になったさかいやな……」

 もったいぶった口調で、話を引き延ばした。


「早う言わんと、帰りますえ。お高はんの家やのおて、壬生へ帰りますえ」

 浅太郎は、廊下をどすどすと踏み鳴らしながら、見世の玄関へと足を運んだ。


「待った。待ってえな。浅太郎。ほんまにええ話どすがな」

 重右衛門が浅太郎の前に回り込んで、行く手を遮った。


「十五になっためでたい日に、特別の〝お祝儀〟をやろうと思うてるんやがな」

「子供みたいにお年玉なんか要りまへん」

 浅太郎は重右衛門を押しのけようとした。


「今晩、わしと出かけんかいな。ええことが待ってるえ。お高の家で待っててんか。お信には『怒って壬生へ行ってしもた』ちゅうことにしとくさかいな」

 重右衛門は浅太郎の背中をぽんぽんと気安く叩いた。

 

 もったいぶる重右衛門の態度に怒りが増す。

「はっきり用件を言うてくれんかったら今すぐ壬生へ帰るえ」

 浅太郎は玄関に出た。草履を履かそうとする女中の手を制して、自ら草履を履くと、玄関庭に足を踏み出した。


「わかった。わかった。言いますがな」

 女中に草履を履かせながら、重右衛門は嬉しげに白状し始めた。


「十五になった祝いに〝筆おろし〟さっせたるちゅうこっちゃがな」

 重右衛門の言葉に、浅太郎の足がぴたりと止まった。

「どうえ。浅太郎。嬉しいて声も出んてか」

 玄関庭に降り立った重右衛門は、獅子舞の獅子のように歯を剥き出して笑った。

 

 


 自分は浅葱のような〝ねんね〟とは違う。

 女を抱いて大人の男になってやる。

 大人になれたら……。


 きっと浅葱に勝つ。


「お父はん。わかったわ。連れて行ってんか」

 重右衛門に向かって、はっきりした口調で応えた。


                    六


 初春とは名ばかりで、朝から雪が降り続いていた。

 京の冬は底冷えが厳しく、本当の春が待ち遠しい。


 夕刻になって、重右衛門と浅太郎は、二挺の駕籠で、祇園の賑わいにもほど近い、縄手通にある茶屋に乗り付けた。


 見世先の紅殻格子が白雪に映えるこぢんまりとした茶屋だった。 

 迎えに出た女中の案内で、ひっそりとした見世のうちに歩を進めた。

 廊下の冷たさが足袋越しにしんしんと伝わる。


 初めてで上手い具合に〝いたせる〟ものか。


 耳学問で聞き及んでいる知識は、いざとなればあやふやで心許なかった。

 焦って早く漏らしてしまい、恥を掻くのではないか。

 逆に緊張し過ぎて大事なものが奮い立たず、いたせなかったという話も聞く。

 おなごの体に不案内ゆえ『乱暴に扱った』と影でそしられたり、不器用さを嘲笑われるかも知れない。

 気掛かりが、名高い鳴門の渦潮のごとくぐるぐると渦巻いた。


 初回から立派に〝務める〟など無理は承知だが『初めてとは思えぬ』と評されたかった。

 敵娼に『底知れぬ絶倫どしたえ』とか『腰が立てへんようになるほど凄かったえ』などと言われてみたい。


 だが……。

 初めての体験に疑問ばかりが湧いて出た。


 期待なのか不安なのか。

 まぜこぜのごった煮になった心のうちが、胃の腑を締め付ける。


 さて、どのような女やら……。


 呼吸を整えて障子を開けた先に待っていたのは睦月太夫だった。

 揚屋のお座敷ではないから、芸妓のような鮫小紋の地味な身なりだが、光背を背負ったような貫禄が浅太郎を圧倒した。 

 

 重右衛門が考えつきそうな敵娼だった。

 浅太郎は波立つ心を懸命に宥めて落ち着かせた。 


 座敷の床の間には鏡餅が飾られ、鶴と日の出の掛け軸が掛けられていた。

 燭台の灯りが秘めやかに揺らぐ。


「睦月に任せてたらえんやさかいな。お互いよう知った仲やないか。浅太郎は、なんも心配せんでええで」

 重右衛門が浅太郎の背中を押すようにして座敷のうちに押し込んだ。


 襖が開かれた隣の部屋には屏風が見え、端から夜具が覗いている。

「わしの筆おろしは、抱えの芸妓相手やった。興味半分で誘いに乗ったものの、そらもう年増はええ塩梅でな。はは。夢かいなと思たもんや。ほんで今でもその相手は、見世におるんやけどな」

 下卑た笑みを浮かべながら、重右衛門は、浅太郎の肩を抱くようにして、酒肴が用意された上座に座らせた。


「はは。誰やと思う? お信には内緒やけどな。あのお峰なんや。お峰もあの頃はまだまだ現役やって、なかなか、ええおなごやった」

 重右衛門は浅太郎の緊張を解そうと懸命らしい。


「気色悪う~。ははは。想像するだけで吐きそうどすがな」

 笑い飛ばしたはずの声がうわずっていると気付いて、背中にじんわり汗を感じた。


「誰かて仕舞いには汚い年寄りになる。浅太郎かて、そのうちわしのような……」

 言いかけた重右衛門は、何故か言い澱んだ。


 口元が一瞬だけ泣き笑いのような表情を作り出し、すぐに普段の豪快な笑みに戻った。


「浅太郎も十五や。十五も年を重ねてこれたんや。この先かて……」

 重右衛門は我が身に言い聞かすように呟いた。

 浅太郎は『うちが継子やさかい、別れがいつ来んともわからんて思てるな』と合点した。


「まあええ。ほなら儂は、帰るさかいな」

 重右衛門は磨き上げられた廊下に出ると、年老いた仲居に案内されて玄関に向かった。


 見世の者にも知られぬようにとの重右衛門の配慮なのか、今宵は太夫に付き従う引舟も禿二人の姿もなかった。


 浅太郎と睦月だけが残された座敷に静謐な時が流れる。

 純白の雪がすべてを吸い込んで物音一つ聞こえない。

 時おり木の枝から雪がどさりと落ちる音がした。


 睦月に勧められるままに酒を流し込んだ。

 睦月は飽きさせぬよう巧みにもてなすが、浅太郎の心には響かない。


 こうして差しつ差されつする相手は、如月のはずだった。


 如月と比べれば睦月の容色は劣る。

 若さは比べようもない。

 この世からいなくなった者は思いの中で、どんどん美しく浄化されていく。


 浅太郎はまたも葛山の怜悧な顔を思い出した。

 屯所でも時おり見かけるが、存在すら希薄で暗い。

 あないな男に惚れた如月が阿呆やったんやと、如月まで憎くなる。

 ぐいぐい酒を呷った。顔が火照って手元がおぼつかなくなる。


「ほな、ぼん。いえ浅太郎はん。酔い醒ましに、こちらでちいと休むなまし」

 睦月はしとやかな身のこなしで隣の部屋に誘った。


 火鉢の炭がいこって思いのほか大きな音を立てた。

「うちはずーっと前から浅太郎はんが好きなました。こないして共寝の床とは幸せなまし。今宵はようよう尽くして差し上げるなまし」

 睦月が優しい仕草で浅太郎の肩に手を掛け、夜具の上に導いた。


 浅太郎を床に納めた睦月が帯を解く。

 小気味よい音が、夢の世界へと浅太郎を誘う。

 白綾の肌着姿となった睦月が夜具のうちに、するりと身を滑り込ませてきた。


「ぬしさまは力を抜いておればよいなます」

 甘い吐息は白檀のごとき香りがした。

 太夫は子供の頃から大事に育てられ、体を磨き立てている。

 指が触れるだけで感じる、言いようのない滑らかさと肌触りに、浅太郎は改めて驚いた。


 睦月に心を移すわけではない。

 男子たるものの通過儀礼でしかない。

 思いの糸が絡まり合うが、酔いがすべてを解き放つ。


 睦月の白い手が浅太郎の胸元を寛げ、柔らかい唇が喉元を舐め上げた。

 耳を甘噛みされて、浅太郎はびくりと身をすくませた。


 これは如月だ。

 睦月の体を借りた如月だと思えば、浅太郎は心地よい深淵へと誘われていった。

 独り寝の床で毎夜慣れ親しんだ感覚が、じんじんと浅太郎を浸食する。

 極楽に行くぞ。

 睦月の柔らかな体にむしゃぶりついた刹那――。


 冷水を頭から浴びせられた感覚に、浅太郎は慄然とした。

 何故なんだ。

 こんな肝心のときに〝持病〟が出るとは……。

 心地よい感覚どころか酔いさえも、潮が引くように、どっと失せていく。


 浅太郎は睦月の体を突き飛ばして跳ね起きた。

 乱れた襟を直すや廊下へ飛び出す。


 こんなときに〝持病の発作〟が出るとは……。


 落胆に続いて、怒りが火を噴いた。


 自分はなぜ、こんな体なのか。


 浅葱の存在が憎かった。

 悔し涙が溢れる。


 呆気にとられる茶屋の女中を尻目に、裸足のまま雪の降りしきる縄手通に駈け出した。

 

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