第17話 医局の優里
「優里教官━━った!」
「まだ━━意識が戻らない━━クソっ」
清牙は中枢の会議に出席するため足早に石の外歩廊を進む。医局へと走る兵達の切迫した声が断片的に清牙の耳を刺すように届いた。
優里が自分の腹に刺さった短刀で刺客を仕留めた直後、清牙は沙漠や柳をはじめとする大勢に無理矢理後方へ引きずり込まれた。そのままこの惨状に対する会議がもたれ、清牙は優里の安否を確認出来ずにいる。
周囲に尋ねることは出来なかった。
優里は農夫に刺されてなどいないという事になっているのだから。
優里の意図を知った清牙は感謝した。農夫を断罪などしたくない。そもそもは自分がすべての原因なのだ。彼を責める立場にはない。彼の孫娘をむごい目に遭わせ、死なせてしまったのだから。
だが周囲は王弟に刃を向けた人間を無罪放免にすることは絶対に許さないだろう。よって隠し通そうとする優里の判断には感謝しかない。
信頼のおける者に優里の容態を確認させたいが清牙同様、沙漠も抜けられる状態にはない。
明花を狙った刺客の死は、あの場で飛永が刺客の指の骨を何本か折って確かめた。生きているなら何らかの反応を示すだろうという、実に手っ取り早く雑で非道な確認方法だ。
その後、刃に毒が塗布されていたことも確認されている。
刺客がほぼ即死するほどの毒が仕込まれた刃で刺されたのだ。恐ろしい強運で命を引き留めた優里だが、かろうじて生きている状態であろう。
全身が緊張に高い熱を孕む一方で、心臓が冷たく引き絞られ握りしめられるような感覚。すぐにでも容態を自ら確認したい衝動を抑え、己を律して清牙は事後対応にあたった。
清牙が真実を公表するにあたり発生する問題。それに対応するための準備は進めていたがどこに宰相の手の者がいるか分からない。誰しもが宰相の息がかかった者に見えた。計画が漏れる可能性を考え、ほとんど動けなかったというのが正直なところだ。
今後の緻密な改革の準備と宰相の処分についての検討はこれから始めると言っても過言ではない。
国主暗殺は女の兵役により働き手不足が深刻化するにもかかわらず税が重くなることを不満とする人々を焚きつけ、孫娘を亡くした老人の恨みを利用した反乱因子によるものだった。
そういった風潮がある事を政府は把握していたが、甘く見ていた。
反乱因子による国主暗殺未遂の実行犯と内通者の早急な追及と、今後の対応。
宰相の処分。
それに加えて明花暗殺計画。こちらは娘を后にという短絡的な貴族の犯行とされているが裏付け途中だ。本当に余計な事をしてくれたと中央の頭脳達は怒り心頭だ。
中央は多忙を極めている。
会合がいったんの区切りを得たのは翌日の夕刻を過ぎてのことだ。短い休息が数回挟まれたが情報収集や確認に追われ、清牙は離席する事もままならなかった。
一時解散、次の招集の指示待ちの段になってようやく清牙は部屋を出ることが出来た。暗い歩廊を猛然と歩みを進める。
「優里は?」
「救護棟に」
「意識は?」
「まだ戻ってないそうです」
答える沙漠の声には沈痛な響きがあった。優里が刺されてからすでに丸一日以上経過している。
あの瞬間、自分の前方を白い影が横切った。
そんな装束を身にまとっていたのは沙漠と優里だけだった。
淡い色の髪を持つ母譲りの美しい王弟。それが国中の者が認識している王弟であり、現在の清牙とは真逆の風体である。
沙漠と優里が白く目立つ衣装で護衛につき注目を集めることで、それを率いる清牙が特別な人間であることを知らしめる。
それが優里の案だ。
多くの警備が求められる直系の警護のため、本来は教官職である優里も駆り出された。その実力は皆把握しており、将軍の娘である。異論は一切なかった。
己の背後に左側に優里が、右側に沙漠が警護についていた。後ろ髪は短くなったものの、前髪は長かった。これまで通り普段は傷を隠し、有事の際は縛り上げるのに必要な長さを残したのだろう。
裾の長い正装を纏うその姿は若く美しい青年そのものだった。
上等の絹で仕立てられた上衣の背が光を反射し、ひどく眩しく見えた。止める間も問い質す間もなく優里は民衆の最前列まで矢のように駆け抜け、その先で一人の男を抱きしめた。
騒ぎに乗じて仕切りの衝立を乗り越えようとする男の手には武器があったのを目にした瞬間、優里の名前を絶叫するしかできなかった。
優里が刺されるのをどうする事もできず、清牙はただ見ているしかなかった。
そのあとも後始末に追われ優里の容態を確認する間もなかったが、ようやく要人達の集まりから一時退席する事がかなう。その足で清牙は優里の元へと急いでいる。
周囲が止める声もまともに耳に入れず、清牙は医務室の引き戸を開く。反動で戸が戻るほどの勢いだった。
刹那、正面からぶつけられる強い殺気に思わず腰の剣に手を伸ばすが、相手の切っ先が喉元で止まる方が早かった。
これまで見た事もない、殺意の籠った目で低く構えた優里が剣を清牙に突きつけている。
手負いの獣の皮を被った悪鬼どころではない。
そこにいたのは自分を確実に殺そうとする殺戮者だ。呼吸を忘れるほどの殺意は優里が清牙を認識した瞬間きれいに霧散した。
「……失礼しました。暗殺者かと」
剣を下ろし、ちらりと脇の寝台を視線で示す優里は胴と胸元を締める
脇腹に血の染みはない事を確認した清牙は次に優里の意外に白い肩と、二の腕の古い刀傷を目にして途端に戸惑いうろつく。
前髪を縛り、傷を顕わにした優里が目で示したのは寝台の上で眠る農夫だ。
「興奮していたので薬で休ませています」
言いながら優里は上着に袖を通す。
着替えの最中だったかと気付いた清牙の腹の奥底が、苛立ちと怒りに滾るような熱を持った。
未婚の娘が、意識がないとはいえ男の前で着替えていたというのか。
戸口から中の様子を窺ってくる衛兵に優里は問題ないと鋭い眼差しで頷く。またしても肌を見られた未婚の女の反応ではなかった。
「意識が戻ったのか……? 怪我は」
「戻ったんですか?」
清牙の問いかけを無礼にも遮り、優里は驚いたように顔を上げた。しかし清牙の困惑した表情と会話の不自然さに気付き、黙って首を横に振る。
「まだ戻ったという報告はありません」
話の嚙み合わなさに怪訝そうな表情で眉間を顰める清牙に、優里は「ああ」と気付いたように声を上げた。
「賊を捕らえましたが殴る加減を見誤り、混沌させてしまいました。おそらく彼の口封じだったのでないかと。申し訳ありません」
詰問するため何としても意識を戻そうとしたが、賊は意識不明で瀕死の状態なのだ。
農夫を殺そうとした者の存在を清牙はここで初めて知った。
「そうではなく、お前が毒で意識が戻らないと」
言われた優里は不思議そうな表情で小さく首を傾げた。
「ああ━━あれは刺さってませんよ。はじめに清牙様の代役をする案が出ていたでしょう? 清牙様の体格に合わせて衣装を準備したので中に防具を着用する余裕がありました。衣に穴も開いていませんよ。生地がほんのちょっと切れはしましたが、怪我はしていません。ほら」
そう言って整える途中の上衣の合わせを開いて脇腹を見せつける。鍛えられ、割れた腹が下衣と晒の間から覗く。そこ再度負傷のないことを再確認した清牙は白い肌から目を逸らした。
「分かったから。そう見せなくていい」
立っているのがすでに毒に犯されていない証明だ。
途切れ途切れ届いた声は「優里教官が殴った」「優里教官に殴られた賊の意識が戻らない」というものだったと清牙はようやく気付いた。
優里は妙に衣装を気にしているが、衣装などどうでもいい。
当初、白い装束を着用するのは清牙と「皆が知っている理想の王弟」の姿を持つ沙漠の予定だった。それが清牙の拒否により沙漠と優里に変更になった事で急きょ丈詰めが行われた。丈詰めは容易だが優里の体格まで身幅を絞る事は難しく、優里はこれ幸いとばかりに詰め物代わりに防具を着用していた。
そして素人に向けられた刃物を脇で挟むようにして止めるなど優里には造作もない事だ。
白い衣装で出血があれば目立っただろうに、それを確認しなかった清牙はあの瞬間のいかに己が動揺していたかと恥じる。
「無事なら、それでいい」
優里の意識が戻らないと思い込み、一日焦燥に駆られていた清牙は歯切れ悪く言いつつ安堵した。
「それからずっとここに?」
「はい。護衛としてついています」
この農夫を陽動の捨て駒としてそそのかし、式典に招き入れた者がいる。生き残った農夫は今や尋問対象であり、証拠となった。すでに一度狙われ、それを優里が阻止し瀕死にしている。
その情報さえ清牙のもとに入って来ないほどに混乱を極める中枢。その現状を改めて突き付けられた気がした。途方もなく終わりの見えない今後の展望に、清牙は眩暈の錯覚を覚える。
農夫が小さく呻き、清牙は優里に戸口へと促された。
「すぐ戻る」
優里は部屋奥に向かって告げ、医局配属の兵が頷く。
清牙はそこで初めて室内に他に人間がいた事に気付いた。優秀な武人でもあるはずの清牙はそれほどまでに冷静を欠いていた。
部屋を出て歩廊を進み、二間離れた所で優里は踵を返すと清牙の肩口に頭を寄せた。これまでにないほどの接近に驚き、咄嗟に身を引く清牙に優里は小さく告げる。
「もう長くないそうです」
突然の宣言に清牙はぎょっとして優里の両肩を掴んでその顔を確かめた。軽傷を負い、遅効性の毒に犯されているのかと清牙は顔色を失う。
「悪腫が手の施しようもない所まで来ていると。確かに以前より相当痩せています。医師たちが森県からここまで来てあれだけ動いていたのが信じられないと言っていました」
優里が悲愴な面持ちで口にするのは農夫の事だと気付き薄情にも安堵を覚えると同時に、清牙は男がこんな行動に出た理由を悟った。
すべては娘を奪うきっかけを作った国主に一矢報いるため。
反乱因子からの誘いを受け、自分の命と引き換えに捨て身で挑んだのだろう。
だというのに幼い戯言を吐いたのはこれまで自分の住む土地を守っていた男だった。奇しくもあの場でそれを知った男はどう思っただろう。
思いつめた様子の優里を前に、清牙はふらつくようにして脇の格子戸に背を預けた。
己の考えなしの言葉が、どれほどの人間の人生を狂わせ、傷つけ、命を奪ったのだろうか。
思わず右手で額を押さえた。
もちろんこれまでの人生でそれを考えなかったことはない。けれど自分も宰相がしたように「他国に対抗するため」と正当化し、「自分は森県にて国境を守るという大義に貢献している」と己に言い聞かせるように現実から逃れてきたに等しい。最大の責は子供の他愛ない戯言を利用した官僚にあるとどこかで責任転嫁してこなかったか。
は、と清牙の息が乱れた。
当時は最良と思われていた政策だが、それを続けたのは今となっては間違いだったと王が、国が認めたばかりだ。
間違いのきっかけは━━
「誰もがあなたに責任を取らせようとするでしょうし、あなたを憎む人間も多いでしょうが……私のような人間には生きやすかったと、言えなくもありません」
清牙だけに声が届くよう、身を寄せて優里は言う。
「まぁそんな人間はごく一部でしょうが」
一歩下がり、距離を取った優里はなにか自嘲気味にそう肩をすくめた。
「清牙様」
控えていた沙漠が清牙の名を呼ぶ。言葉を返したかったがなんと返すか迷ううちに清牙の私的な時間の満了を告げられた。まだ公務は少しも片付いていないのだ。
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