白熊皇帝と伝説の妃
沖田弥子
第1話
白銀に染め上げられた街に、はらりと細やかな雪が舞い降りる。
「はぁ……どうしようかな……」
寒さに凍えた手のひらに、
見上げれば、つい先ほどまで覗いていたはずの薄い水色の空は雲間に隠れ、空は一面の重くて厚い雲に覆われている。
北国の冬は天候が変わりやすい。
この灰色の雲は雪雲だ。家を出る前に見た天気予報では、夕方から雪になるという予報だった。風も出てきたので吹雪が吹き荒れるかもしれない。街を行き交う人々も寒風に首を竦めて、一様に家路へと急いでいる。
けれど結羽の足取りは重い。
家に帰っても、待っている人はいないから。
結羽には両親がいない。子どもの頃に自動車事故でふたりとも他界してしまったのだ。その後は祖母が引き取って結羽を育ててくれた。将来は調理師になりたいという希望を持った結羽は専門学校を卒業し、晴れて街の料理店に就職できた。
これで育ててくれた祖母に恩返しできる。そう思った矢先、体調を崩して肺炎に罹った祖母は、病院に入院すると間もなく亡くなってしまった。高齢のため、いつ容態が急変してもおかしくないと医師に告げられていたが、突然の祖母の死は結羽の胸に深い哀しみをもたらした。
天涯孤独の身の上となってしまった結羽は仕事に励もうと懸命に勤めたが、不幸に追い打ちをかけるような事態が起きてしまう。
勤め先の料理店のオーナーはこれまでにも結羽の身体を無造作に触ってきたりと、やたらとセクハラまがいのことを仕掛けてくるので困っていたが、とうとう肉体関係を持たないとクビだと宣告されてしまった。
結羽は恋人がいたこともないし、誰ともそういった性的な関係を結んだことはない。
同僚がこっそり、一度やらせればいいんだよと進言してくれたが、結羽はきっぱりオーナーに断った。
できません。
好きな人とでなければ、身体を重ねるなんてことはできない。仕事のためと割り切って身を委ねるなんて、自分にはできそうもなかった。
怒ったオーナーに即刻解雇を言い渡されて、結羽は俯きながら職場を後にした。手袋をロッカーに置き忘れたことに気づいたが、取りに戻る厚顔さは持ち合わせていない。
北国の冬は身を切るような寒さで、マフラーや手袋など身を守る防寒具が必須なのだが、帰るまで我慢する。バス停はすぐそこ。バスの車内はきっと暖かいだろう。
「ばあちゃんに、なんて言おう……」
一緒に暮らした古びた家にある、祖母の位牌にどのように報告すればいいのだろう。まだ勤めて一年も経っていないのに仕事を辞めてしまったなんて、恩返しどころか、天国の祖母に顔向けができない。明日からの生活さえ危ぶまれる。とりあえず貯金を切り崩して生活するしかない。それから次の仕事を探そう。
でも、また職場で同じような目に遭ったらどうしよう……。
鬱々と考え込んでいた結羽がふと顔を上げれば、辺りはいつの間にか猛吹雪が吹き荒れていた。目の前は真っ白に覆われ、歩いている路すら判然としない。上空では風が鋭い呻り声を上げている。かろうじて車のヘッドライトが照らす黄色の灯が移動するのが見えた。
「うわっ……すごい。目を開けていられない」
叩きつける雪の粒を避けようとしてダッフルコートのフードを被るが、吹雪の中では意味を成さない。横殴りの雪が頬を叩き、前髪や肩は白く染め上げられていく。
ふと、道路の端にいる小さな物体が目に留まった。
真っ白なふわふわの毛は雪と同化してしまいそうだ。小さな丸い身体に小さな耳が付いているが、手足はどっしりとしている。子犬のようだ。
周りに人影はない。飼い主と、はぐれたのだろうか。
子犬はなにかを捜すように首を巡らせたが、突然走り出した。
道路を横切る子犬の前に、車のヘッドライトが近づく。
「あぶないっ……!」
ドライバーは吹雪と同化した白い子犬の存在に気づいていない。
車体は瞬く間に子犬めがけて突き進んでくる。
結羽は咄嗟に駆け出した。
両手で子犬を掬い上げ、庇うように腕の中に抱き込む。
身を捻り、道路の脇に飛び退いた。
そのつもりだった。
……あれ?
一瞬の浮遊感。
それはまるで永遠のような。
僕……轢かれた……のかな?
痛みはない。天地も分からない。
霞んでゆく意識の中、結羽は純白の子犬を、ぎゅっと抱きしめた。
……あたたかい。
なんだろう、これ。
ふわふわしていて、あったかくて、きもちいい。
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