第27話 サキュバス

「じゃあ、おやすみ」


「おやすみなさい」


 小さく手を振り合い、ミミは女子部屋へと帰っていく。ドーピーのやかましい叫び声が一瞬だけ聞こえて扉が閉まった。


 エディはソファの背もたれにだらしなく首ごともたれかかって天井を見上げた。


 この任務はどうやらすんなりは進んでくれないらしい。任務の達成だけを考えればミミは必ず重荷になる。しかしそれでも彼女を切り捨てることはできなかった。それが性分なのだ。


 エディは菓子をもう一つ口に放り込み、その甘さを楽しんだ。

 

「どうにかやるしかないな…… ポジティブにいこうぜ」


 頬をぱちんと叩いて眠気を飛ばす。考えておきたいことがいくつかあった。


「ターゲットにどう近付くか……」


 最重要目標であるヴァレンシナ・アルバ・ハイノート。生徒でありながら厳重な警護に守られ話しかけることもできない。周囲から距離を詰めていくのだってそう簡単なことではなさそう。


 今日のオリエンテーションで目が合いこそしたものの、向こうはリリムスという名前さえ知らないのだ。明日には忘れていたっておかしくない。会いに行ったところで護衛のゴリラに投げ飛ばされるのがオチだ。


 じっくりゆっくり交友の幅を広げながらチャンスを待つ。それしかないのだが……


 ふと、扉がキイと開く。


 それは「立ち入り禁止」の札が掛かった部屋であり、ひょっこり現れ出たのは桃色の頭だ。銀ぶち眼鏡の奥の桃色の瞳を嬉しそうに細めて、テナンは言った。


「お話は終わった? なら部屋においでよ」


「…………聞いてたか?」


「もちろん壁にくっついて耳をそばだてて……としたかったけどさすがに罪悪感がボクを止めたね。なんだか入り込めない雰囲気だったし」


 いたずらっぽく唇を吊り上げるその表情は嘘を言っているようには見えないが、人族がサキュバスの嘘を見抜けるとも思えない。


「何その顔。釣り上げられた深海魚みたいな表情だけど」


「よくわかんねえ比喩だけど絶対悪口だろ」


 エディは眉間を揉みほぐすが頭の中につっかえたしこりは消えそうにない。この少女もまたエディを悩ませる。


「もし聞いてたとしても黙っててくれ」


「だから聞いてないって。そんなに悪趣味じゃない」


「秘密を握ってカラダを要求するくせに、悪趣味じゃないとは」


「あはは、それとこれとは別だよ」


 テナンは首から上と手だけを扉の隙間から出して手招きをする。体を見せたくはないらしい。どうにも嫌な予感がしてエディは疑う視線を送りつけた。


「裸ドッキリとかしたら、興奮のあまりお前の秘密を叫んでまわるから」


「そしたらボクもそのあとをついて君の秘密を叫ぶけど。――二人して気が狂ったと思われるね」


 テナンは一歩踏み出してきてその全身をみせる。彼女は――可愛らしいピンクのパジャマを着ていた。


 もこもこした素材で女の子らしい装いだ。魔法のかかった制服ではないので胸は当然膨らんでいる。テナンは見せびらかすようにパジャマの肩をつまみ上げてくるりと優雅に回った。


「どう?」


「まるで王女様みたいだ」


「それは皮肉? 本物だから」


 テナンは洗練された仕草で腰を折り頭を下げた。少し真面目な顔つきになって言う。


「実は昨日のことは反省してるんだ。リリムスが一日中眠そうにしてたし、下着姿でくっつくのは今後はナシにしたいな。その、もし許可してくれるならだけど」


「……その言い方はやめよう。下着姿で抱きつくことを俺が強制してるように聞こえる」


 テナンはくりりとした目を丸くした。


「してたけど」


「してねえよ。捏造すんな」


 テナンは眼鏡の上に丸くした手を重ねて望遠鏡を覗くようにエディを見る。


「ボクは男の欲望を見透かせる。君も本音ではそう望んでいたよ」


 "本音ではそう望んでいた"。その言葉はナイフで刺すようにエディの心の鎧を貫いた。望んでいなかったと言い切ることはできるだろうかと自問するが、答えは返ってこない。


 サキュバスの虜。それは童話で語られるほど有名な破滅の道だ。サキュバスとインキュバスは人族社会に隠れ住み、数多の悲劇を引き起こしてきた。


 テナンのミステリアスな微笑みが急に恐ろしく思えてくる。絶対に――心を許してはいけない。


「冗談冗談。本気にしないで。そんなサイコメトリーな力はないから」


 エディはただ見つめる。何が本当で何が嘘かさっぱり分からない。


 テナンはエディの手を引き、部屋の中に連れ込んだ。きいと扉が閉まる。


「座って」


 促されるままエディはベッドの上に腰掛けた。テナンはその前に椅子を置いてそこに座り、鼻の下を擦って口を開いた。


「昨日は、ちょっと先走りすぎて君の気持ちを考えれてなかった。ごめんね」


「…………」


「色々考えたんだけど、良い関係でやっていくにはルールが必要だと思って。ワタシは君を邪魔したいわけじゃないんだ。それぞれ秘密はあるけれど利害の一致もある。良い関係を築けると思うし、それを望んでる」


 テナンは伺うような上目遣いでエディを見た。


「君もそう思ってくれる?」


「ああ」


 そう答えつつも内心では警戒を解かない。解いてはいけないと言い含める。エディは自然な表情を装って頷いた。


「擬態を解除して休める場所はありがたい」


 エディの額の角は煙となって掻き消えた。テナンはそれを目にしてわあと声を上げつつ、


「だよね。だから、ルールなんだけど……」


 テナンは指を一つ立てた。


「添い寝は毎日じゃなくていい。いっさい自分の部屋で眠らないのも不自然だし、一人で寝たいときもあるでしょ」


「その通り。おかげさまで一人寝できるとしになってるからな」


「ペースは今後話し合っていこう。ワタシは精気を補給しないと昂ってしまって男装を維持できないし、君は休まないと角を維持できない。お互いの必要を満たしつつ負担にならないくらいの頻度で」


 テナンは指をもう一つ立てた。


「そして、ワタシは過剰に誘惑しない。頑張って抑える。ただ添い寝して抱きしめてもらう以上のことは求めません。下着もナシ、裸もナシ」


 エディは大きく頷いた。


「コスプレ系もナシな。水着もナシだし、透ける素材もナシ。ニットもナシ、薄着もナシ、体のラインを際立たせるのもナシ」


 テナンは慌てたように手を大きく振ってエディを制止した。


「待って待って、着る服がなくなっちゃう」


「まあいざとなったら俺は相棒アレをちょん切るから、心配しなくていい」


「心配するよ……」


 テナンは悲しそうに眉を下ろして下唇を突き出した。


「そんなことにならないように頑張るから。服はともかく絶対に誘惑しない。……君の宝はワタシが守る!」


「おう、頑張ってくれ」


 いざとなったらちょん切る。それは決して冗談でも誇張でもない。サキュバスの虜になるくらいなら去勢の方がまだマシだ。エディは相棒を見下ろして謝意を目で伝えておく。


 テナンはその生来のふんわりとした面立ちを凛々しく真剣なものに変え、三本目の指を立てた。


「それから、リリムスも――我慢できなくなったら言うこと。ワタシは君を色狂いの腰振り人形にしてしまいたいわけじゃないの」


「ふうん」


 その言葉はエディにとっては信じがたい。サキュバスは欲望のまま男を喰らい最後には狂死させる。そういうものだろう。


 テナンはエディの内心の疑念と警戒を見抜いたのか、寂しそうに薄く笑う。


「だから限界が来る前に言って。そしたらしばらく距離を置こう。ワタシは精気がなくても死ぬわけじゃない」


「…………」


「これはぜんぶワタシのわがままだってことは自覚してる。身勝手な欲望で君に危険を背負わせることになるけど……どうか許してほしい」


 テナンは座ったまま膝の上で手を揃えて頭を下げた。エディは何も言えずに黙る。


「ワタシは普通の生徒として過ごしたい。女だとバレたら魔王の娘だとバレるし、そうなったらもう普通じゃいられない。最悪王宮に戻ることになる。学校を卒業したあとはどうなるか読めなくて、この三年間が生涯唯一の自由な時間になるかも。だから――楽しみたいの」


 それは真摯で素直な願いだった。学生として学校生活を楽しみたい。冷静に考えれば十代として至極当然なものであるはずのそれが、エディにはとても異質に思えた。


 エディは兵士だ。ここへは楽しみに来たのではない。任務のために来た。


 というか、人生で楽しむために何かをするなんてことがあっただろうか。生きるために戦い、食うために働き、命じられるまま殺してきた。


 テナンは続ける。


「本当は女の子として生活したいけど、それは我慢する。だから他のことは我慢したくない。何でもやってみたいし、色んな人と話したいし、休みの日はお出かけしたい」


 彼女の瞳の中には虹色の空想が映し出されている。エディは魅了されたように目を逸らせなくなった。


「君からすれば会ったばかりのサキュバスなんてどうでもいいだろうし、むしろウザいかもしれないけど……それでもワタシには大事なことなんだ。だから――お願いします」


 まっすぐ届けられる声。相手を思いやる優しさと思慮深さが伝わってくる。


 だが丁寧な頼みのように聞こえても実際は脅迫と同義だ。エディにはテナンを殺すことができないが、テナンはいつでもエディを殺せる。関係は対等ではない。


 "テナンはいつでもエディを殺せる"。己の脳内で生じたその思考にエディは若干の疑いを感じてしまった。エサでしかない人族に頭を下げるような少女が誰かを殺せるのか?


 しかしその思考の芽はすぐに摘み取って潰した。惑わされてはいけない。この言葉が演技ではないとどうして言い切れようか。


 結局のところ、どれだけ悩もうとエディに選択肢はないのだ。


「ああ、こちらこそ、よろしく」


「よろしく」


 テナンは少女らしく柔らかく微笑む。


「だからワタシのことはただの学生のテナンとして扱ってほしい。魔王の娘であることも、サキュバスであることも忘れて。ワタシも君が人族だってことは忘れるから」


 エディはとぼけて肩をすくめた。


「? 何の話だ? 俺が……人族? 俺は鬼人族だけど」


「いいね、じゃあワタシも鬼人族ってことにしようかな。角はないけど、生え変わり中なんです」


「鬼人の角は生え変わらない。鹿じゃないんだぞ」


「君だってさんざん設定を盛ってるでしょ? 本物の生態があまり知られてないからって適当なこと言い過ぎだから」


 二人は示し合わせたように同じタイミングで笑った。テナンは座った姿勢で足を前後に揺らしながら言う。


「もう寝る? 昨日は寝れてないし、眠いでしょ?」


「ああ、そうだな――」


 そう言われれば体が眠気を思い出したようにまぶたが重くなってくる。擬態を解いているとどうにも心まで安らいでしまうのだ。


「そろそろ寝ようかな」


 エディはベッドに横たわる。ふわりとあくびをした。


「そうだよね。じゃあワタシも寝るよ」


 テナンは何気なく眼鏡を外し――


 エディはその素顔のあまりの美しさに息を呑み呼吸も忘れてただ見つめてしまう。


 大粒のアーモンドのような目も、鮮やかな桃色の瞳も、すっと通った鼻筋も、口紅なしで蠱惑的に赤い唇も、神の造形の域である。


 きっと眼鏡にも顔立ちをぼかすような魔術がこもっているに違いない。


 エディの穿つような視線を受けたテナンは頬を火照らせながら前髪を指で直した。


「そんなに見ないでよ」


「……眠気が吹き飛んだ。これは困ったぜ」


「ええぇ。でもワタシもメガネのままじゃ寝れないし……」


 テナンはそうだと手を叩いてエディの隣に体を滑り込ませた。温もりをすぐそこに感じて、エディは全身を強張らせる。


「後ろから抱きしめてもらおう!」


 テナンはそう言ってエディに背中を向けた。


「これならどう?」


 彼女の後頭部、そして背中。ずいぶん刺激の少ない光景だ。甘い匂いが香ってきてクラリとするが、口呼吸を意識する。


「なんとかなりそう」


「よかった。でもワタシの顔にも慣れてね。面と向かっておしゃべりもできないんじゃ困るから」


「うーん…… 変顔から慣らしたいな」


「それはやだ。変顔なんてしない。――ほら、抱きしめてよ」


 テナンはエディの腕を掴み取り、その腰にまわす。


 ぐっと距離が近づいた。足を絡ませるように擦らせて体を密着させてくる。二人の体温が急上昇していくのをお互いに理解した。


「精気は貰えてるけど……もどかしいや。例えるなら秒速一文字で本を読むみたいな」


 そう言ってテナンは灯りを消した。部屋は一気に闇で覆われて、息がかかる場所にある桃色の髪の毛さえぼんやりとしか捉えられない。


 エディは唱える。


「これは温かい抱き枕。これは温かい抱き枕。これは温かい抱き枕。……もう抱き枕としか思えないな」


 擬態を解除して休める時間は貴重だ。二日分の疲れは今になって猛烈な勢いでエディの心身を重くした。眠気が増してくる。


(いったんサキュバスなことは忘れよう。とにかく休んで、明日また考えればいい)


「おやすみ」


「うん、おやすみ」


「抱き枕は返事しないでくれ」


「なんて理不尽……」


 温かさに包まれて心地いい。いつの間にか筋肉の強張りは抜けて、ただ緩んでいた。体は休息を求めている。


 エディは抱き枕をぎゅっと抱きしめた。そうすると奇妙なことに落ち着く。


「あはは」


 くすぐったそうな笑い声を聞きながらエディは意識を深く深くへ沈めていった。


 たおやかな手がエディの手と重なり、恋人同士のように繋がれる。


「これで、大丈夫だよね?」


 不安そうなつぶやきが聞こえたような気はしたが、もはや意味をなさないただの雑音として処理されてしまう。


 エディはこの日、魔族連合に入って初めてぐっすりと眠ることができた。

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