第23話 世界の中心で

 椅子に座って手を膝の上で組むミミは眉尻を下げて困った顔になる。


「ダンス……ですか?」


「ぜひ踊ってくれ」


「でも、わたし踊れません」


「踊れなくていいんだ。音楽に合わせて体を揺らすだけでいい。それで充分に君の魅力が伝わる。俺がリードするから」


 ミミは不安げに瞳を揺らす。


「ほら、立って。練習しよう」


「えぇ……」


 エディに引っ張り上げられてミミは立ち上がった。


 片手を合わせて、エディの手を肩に回し、ミミの手を腕に添える。


 エディはとてもゆったりとしたリズムで口ずさみ、足を動かし始めた。


「1、2、3、4――」


 ただステップを踏むだけ。足を交差させることはせず前後に揺れることを繰り返す。最初のうちはミミも半拍遅れていたが、すぐについてこれるようになった。


「簡単だろ?」


「まあ……」


「これができればステージで踊ってる奴らとそう変わりはしない。あれだってフォークダンスに毛が生えた程度だ」


 エディは少しだけテンポを上げた。


 狭い部屋で二人の影が一緒になってゆらりゆらりと動く。ミミは慣れてきてもなお真剣な表情でステップする。


「真面目な顔も可愛い」


 歯の浮くようなセリフが自然と出てきた。ミミは頬をピンク色にして恥ずかしそうにはにかんだ。


「笑うとなおさら可愛い」


「もう……やめてください」


 エディはステップを止めて、ミミに寄り添ったまま囁く。


「君を醜いなんて思ってるのは獣人だけだ。他の種族はみんな君を可愛いと思っているし、獣人だって偏見のレンズを外せば理解するだろう」


「そうでしょうか……」


「必ずだ」


 エディには確信があった。ミミという少女は誰とも違う美しさを持っていて、本人がそれに気付きさえすれば大きく変わる。


 エディは扉の向こうに視線を飛ばす。


「だからあっちで一緒に踊ろう」


 ミミはゆっくりと頷いた。


「リリムスくんがそう言ってくれるなら、やってみようと思います」


「ありがとう。もう少し目の腫れが引いたら行こうか」


「待ちなさい」


 壁に背中を預けていたシャーロットがミミに近付いて、凛として言い放つ。


「そんな涙でびしょびしょの制服で踊るつもり?」


「どうしろって言うんだ。衣装なんて用意してないし。制服を貸してくれるのか?」


 シャーロットは首を振った。壁を覆う自身の黒い影の中に手を突っ込み、取り出したのは――青い布地。


「偶然にもドレスがここにあるから、貸してあげてもいいけど」


 エディはシャーロットの冷たい無表情をまじまじと凝視した。


「お前ってもしかしていいやつ?」


「うるさいわね。殺されたいの?」


「なんでそんなの持ってんだ?」


 シャーロットは牙を剥いた。


「うるさい。言っておきますけれど、タダじゃないから。このシャーロット・スカーレットブラッド・ラヴシーカーのドレスを借りるならそれなりの代償を払ってもらいます。――あなたに」


 シャーロットが鋭い眼差しで貫くのはミミではなく、エディだった。


 エディは肩をすくめて言い返す。


「どうせ血だろ。いいよ別に」


「よろしい。子猫ちゃんもそれで良くって?」


 ミミはよく分かっていないようだが、吸血鬼の眼力に負けて頷いた。


 鼻を鳴らしたシャーロットが影の中から布地を引っ張り出す。


 それはダークブルーのドレスだった。間違いなく最高級品。緩やかなドレープひだが幾重にも折り重なって複雑な陰陽を生み出している。


 ミミは息を呑んで口を手で覆った。


「こんなお高いもの、借りられません」


「いいの。その男が支払いをするから。ほらこっちに来て」


 それでも動かないミミの手首をシャーロットが強めに掴んで部屋の端に連れ込む。ミミの涙で濡れた制服を剥ぎ取るように脱がしていき――


 上着がエディに投げつけられた。


「――あなたはぼーっと見てないで、壁にひっついてなさい!」


 エディは慌てて体の向きを変える。


 衣擦れの音、柔らかい布がふわりと床に落ちる音がして、居心地が悪くなっていく。エディはたまらず口を開いた。


「だーるまさんが、こーろーん――」


 ハンガーが飛んできてエディの背中にベチと衝突する。


「振り返ったら死刑にするから」


「冗談に決まってるだろ。和ませようとしたんだよ」


「センスがないから二度と言わないで。――ほら、これでよし。あとは自分で着なさい。私は髪を編んであげる」


「シャーロット様……お胸がきつくて苦しいです……」


 ミミの絞り出したような声に、シャーロットはしばし静かになった。エディはなんとなく嫌な予感があって一歩壁に近づいておく。


 凍てつくような声が空気を震わした。


「それは――喧嘩を売ってるのかしら」


「ちちちちがいます!」


「私の胸が小さいと言いたいの?」


「違います違います!」


「……まあいいわ。これ、尻尾はどうしようかしら」


「太ももに巻きつけるので……」


「そう。――もう見ていいわよ」


 なんとか怒りを鎮めてくれたことに安堵しつつ振り返る。


 そして目を見張った。


 ドレスはミミによく似合っていた。彼女の女性らしい体つきが強調されそれでいて慎み深い。くっきりと浮き出た鎖骨から大きく膨らんだ胸への曲線があまりに艶かしく、エディはそこから視線を引き剥がすのにとても苦労した。


 上目遣いで不安そうなミミ。体の前面を腕で隠して体をもじもじと振った。


「すごく似合ってるよ」


「ありがとう……」


 椅子に座るミミの背後でシャーロットが指を高速で動かしていて、みるみるうちに完璧な金色の編み込みが完成していく。


「そんなこともできるのな」


 シャーロットは集中した様子で言葉だけを返してくる。


「……妹がいるので」


「へえ」


「よし。これで完成」


 シャーロットは爪で指の腹を裂き、流れ出る血をミミの頬に塗って伸ばした。


「チークの代わりだから」


 頬の赤みが増して血色が良くなったように見え、表情が明るくなる。


 立ち上がったミミは見違えるほど美しく、舞台女優や歌姫だと言われても疑わない。エディは急に自分が不釣り合いかもとそわついた。


「なんだか俺が緊張してきた。ちょっと美人さん過ぎるかも」


「ふふ、お世辞ばっかり」


 シャーロットがつかつかと踵を鳴らしながらエディに歩み寄ってきて、睨みつける。


「あなたもみっともないわ。襟はよれてるしボタンは外れてるし、チンピラみたい。ネクタイぐらいつけなさいよ」


「……お前に言われて外したんだけどな」


 エディはポケットの中に突っ込んでいたネクタイを引き出すが、それはしわしわになっていた。


「あちゃ」


 シャーロットがそれを手の甲で払い捨て、影の中に腕を沈めて取り出したのは――新品のネクタイ。


「そんなものまで。助かるよ」


「うるさい」


 シャーロットはエディの襟首を掴んで手繰り寄せ、ネクタイを結んでくれる。すぐそばにある彫像のように整った顔は少し不機嫌なように見えた。小声で囁きかけてくる。


「ぜんぶ万が一誰かさん・・・・に誘われた時のために用意しておいたのだけど……それを貸してあげてるの。意味が理解できるかしら?」


 底冷えする声音だ。首の後ろから汗が伝って腰まで至る。


「埋め合わせはしっかりしてもらいますからね。日を改めて、別の形で」


 シャーロットがネクタイを強く締めれば、エディはその勢いにうっと呻いて後ずさる。


「了解です……お嬢様……」


「よろしい」


 舐めるような視線がエディの首筋を上から下まで這っていく。


「死なない程度でお願いします……」


「もちろんですとも。角、忘れてるわよ」


 すぐにエディは額に触れ、すると黒い角がにょきにょき伸びてくる。触ってそれがあることを確かめて頷いた。


「よし」


 エディは髪を撫でつけ息を一つ吸い込み、ミミの手を取った。彼女の顔に涙の痕跡はない。


「すごく……綺麗だ。鏡がないのが残念でしかたない。見たら腰を抜かすと思うよ」


「もう、大袈裟すぎます」


「準備はいい?」


 ミミは首を縦にも横にも振らず口をパクパクした。


「緊張で……吐きそうです」


「俺だけ見てたらいいよ」


「リリムスくん……だけ?」


「そう。二人きりで踊るのと一緒だ」


 シャーロットがばしんとミミの背中を平手打ちにして、ミミはむりやりに胸を張って背筋を伸ばすことになった。


「派手に行くから」


 エディはにやりと笑って、扉を全力で蹴り飛ばす。木製の厚い扉は枠から外れて吹き飛びインプを一匹下敷きにして倒れた。


 会場は静まり返る。呼吸の音がうるさく聞こえるほどの静寂だ。全方位から怪訝な視線が突き刺さり、その全てを受け止めながらエディは丁寧に一礼する。


 勇者に手を引かれて、少女は薄闇の中から照明の下に歩み出た。



▼△▼



 感嘆の息が会場を包んだ。


 誰もがエディの隣を歩く少女を見つめている。静寂はざわめきに変わり、生徒たちはあれは誰だと口々に囁き合った。


 ちらりとミミの様子を伺う。


 濃紺のドレスを揺らしながらゆったりと歩いている。背筋はぴんと伸びて穏やかな微笑みを浮かべ、目には強い輝きを宿し、それは手を引くエディただ一人に向けられていた。


 どきりと心臓が弾む音がする。それを誤魔化してエディは口を開いた。


「な? みんな見惚れてる。君が綺麗だからだよ」


 ミミは僅かに微笑んだ。


「周りは見ないことにしたので、分かりません。リリムスくんが綺麗だと言ってくれるなら……」


「綺麗だ」


 脊髄で答えた。ミミは嬉しいと呟く。


 多くの生徒は放心した様子でミミを眺めている。獣人たちの半数も同じで、残り半数は悔しそうに歯軋りをしていた。それが示すのは嫉妬と羨望だ。主役はミミで、自分たちが踏み台でしかないことに気付いたのだろう。


 数百の注目が降り注ぐ中を進んでいく。エディは足が速くなるのを抑えるのに必死だった。


 一歩ずつステージ上に登る。


 それでもなお観衆はミミを追い続けた。エディの目には彼女だけが輝いてうつっていて、それは観衆にも同じようだ。


 唖然としている男女ペアの間を抜けていき、二人は空いたスペースに陣取って腕を組み体を沿わせた。


 エディはひどく緊張しているのだが、ミミはそうではないらしい。硬さは完全に抜けている。


「ずるいな」


「何がですか?」


「俺だけ緊張してるじゃん」


 エディは生徒たちに見られているから緊張しているのではなく、ミミの相手を務めることに緊張しているのだ。


「わたしだけ見てたらいいですよ」


「それがムリだから困ってるんだ」


 見つめるには魅力的すぎる。


 演奏はいつの間にか止まっていて、エディが音楽団に目配せを送れば、指揮者は思い出したように棒を掲げる。


 ゆったりとしたリズムだ。エディが軽い調子で言う。


「この曲の題名知ってる?」


「知りません」


「"世界は君を中心に回ってる"って曲。ミミにぴったりだ」


 二人は稚拙なダンスを始めた。心拍を合わせながら小さくステップを刻む。


 ミミは輝くような笑顔を咲かせた。曲のテンポ感は変化するにつれて動きが少しずつ大きく伸びやかに、大胆になっていく。


 他の誰よりもシンプルだ。派手なスピンやターンはなく、ただ決まったステップを繰り返すだけ。それでもミミは誰よりも一生懸命に、誰よりも楽しんでいた。彼女の喜びが動きから伝わってくる。エディと踊ることをただ純粋に無垢に楽しんでいるのだ。


 エディは自分がとても浅ましいように思えた。獣人たちを見返してやろうという気持ちなんてこの少女にはない。今この一瞬を楽しもうという心だけ。


 そこに他者を圧倒するような美しさはない。彼女が持つのは凍りついて動けなくするような美しさではなく、無意識に頬を緩ませるような美しさだ。


 ミミは無邪気な子どものように踊った。それにつられてエディも笑う。


 視界の隅でシャーロットが1ミリくらい口角を上げたような上げてないような。ミミが発する朗らかな空気が会場を満たしていく。


 やはりそうだった。ミミには力がある。エディにはない力があるのだ。この少女は剣がなくとも他者を救える。


 そのあとエディはただ無心になって体を揺らした。もうミミの笑顔しか見れない。どうしようもないほど惹かれてしまう。


 永遠に留めておきたかった時間は一瞬で過ぎ去り、曲は終末を迎えた。


「あぁ――楽しかった」


「俺もだ」


 二人のつぶやきがどこまでも響いているのではと思うくらいに静かだった。緊迫感さえある無音が続き、それを打ち破ったのは――


 二階ステージの貴賓席。


 生徒会長ヴァレンシナが立ち上がり拍手をしていた。それは講堂全体に広がって万雷のとどろきとなる。


 エディとミミに向けた拍手だと明示するものは誰もいない。ダンスを踊った全員への称賛と解釈するのが自然だが、一番の凝望を集めるのはやはりミミだ。


 しかしヴァレンシナは――エディを見ていた。確かに目が合う。今度は錯覚ではない。彼女は二人に向けて拍手を送っていた。ヴァレンシナはエディをただの生徒のうちの一人ではなく、個として認識したのだ。


 圧倒する美貌の持ち主に見下され震えそうになるが、ミミの手の温もりがそれを止めてくれる。軽く頭を下げてみればヴァレンシナの微笑は妖艶さを増す。


「じゃあみなさん、ステージから降りてください! 服は着替えても着替えなくてもいいですよ!」


 酔ったアリシアがマイクもなしにしゃがれ声で叫べば、ステージ上の男女は順番に降りていく。


 そしてミミはそっと頭を差し出した。猫耳がふりふりと揺れている。エディは言われずとも求められているものを理解した。


 エディは金糸の間に指を差し込んでそのさらりとした感触を味わい、両手で猫耳を撫でる。ふわふわで気持ちいい。


「撫で心地はいかがでしょう?」


「最高だ。ずっとこうしていたい」


 ミミが手でエディの腰を掴んだ。まるでハグ一歩手前のようだ。


「素敵な曲でした。きっと一生忘れられません。世界は君を中心に回ってる、ですね」


 エディは肩をすくめてみせた。


「実は曲名なんて知らないんだ。俺が適当に付けただけ」


「ふふ、なんだ。できすぎてると思ったんですよ」


 ミミは嬉しそうに目を細めながらも背筋を正してまっすぐにエディと視線を絡ませた。


「お伝えしたいことがあります……」


「なんだろう」


 ミミの緊張がエディにも伝播する。ミミはそれでもにこやかに口を開いて、


「生まれて初めてハーフで良かったと思えました。リリムスくんと出会えたから。――ありがとう」


 エディも作りものでない笑顔を返す。


「そう言ってくれると、こっちまで嬉しくなるよ」


 二人は手を繋いでステージを降りた。

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