第15話 ヴァレンシナ殿下

 すでに空は赤くなり始めている。


 五人は学園まで帰ってきた。今日の授業はこれで終わり、ホームルームもないらしい。


 背中の傷を癒してもらうためミミを医務室まで送り届ければ、アリシア先生は「痕なんて残らないように完璧に治しますよ!」と豪語した。


 ドーピーはまたミミの谷間でうたた寝を始めたので、エディとシャーロットとテナンは二人を残して医務室を去った。


 テナンは疲れたので眠ると言っておぼつかない足取りで寮に帰っていく。


 道の真ん中でエディとシャーロットは二人きりになった。


「私も家に帰るわ」


「帰って何すんの?」


 シャーロットは珍しく言葉を詰まらせた。


「それは……庭の手入れとか、部屋の掃除とか、いろいろよ」


 エディはぽかんと口を開けてシャーロットを見つめる。彼女はぎりりと睨み返した。


「なによその顔。文句でもあるの?」


「吸血鬼にも趣味とかあるんだな、の顔だ。棺桶の中で眠るしかできないもんだと思ってたよ」


「あまりにありきたりな偏見すぎて、殺意が湧いてくるわ」


「もし今すぐ帰ってそれをしたいわけじゃないなら……ちょっと付き合ってくれよ。カフェに行こう」


 シャーロットは腕を組んだ。身長はエディの方が高いのに見下ろされている気分になる。


「それは命令?」


「そうだ」


 綺麗に整えられた眉を持ち上げてシャーロットは鼻を膨らませた。


「腸が煮えくり返りそうだけど、命令されればしょうがないので、私の貴重な時間を貸してあげる」


 エディはにやりと笑った。


「実は……さっきすれ違った学生が話してたのを聞いてさ。カフェに生徒会長がいるらしい。接近するチャンスだ」


 生徒会長、魔王の娘、うるわし殿下。エディがこの学園に派遣された最大の目標である。


「なんでそれに私が付き合わされるわけ?」


「二人で行けば芝居の幅も広がるだろ」


「芝居?」


「例えば――シャーロットが殿下に水をぶっかける。そこに俺が颯爽と登場、いじめっ子を追い払って優しく声をかける。とかな」


 シャーロットは吊り目がちな目をさらに吊り上げて険しい表情になった。


「絶対そんなことしないから」


「冗談だよ。ナンパじゃないんだから。それに解説もしてもらいたいし」


「……それは結構ですけど、その汚い服を着替えてからにしなさい。実を言うと今一緒にいるのも恥ずかしいくらいなの」


 エディの制服はタコの青い血で染まっている。乾いてこそいるが、目立つのは間違いなかった。


 エディは走って寮に戻り着替えを済ませ、シャーロットと共にカフェへ向かう。




 カフェには人だかりができていた。彼ら彼女らの視線の先にあるのはやはり――ヴァレンシナ・アルバ・ハイノート。


 優雅にティータイムを楽しんでいる紫髪の絶世の美女。カップを持つ指先にまで美の神が宿っている。


「恐ろしいほど美しいぜ……」


「私の横で鼻の下を伸ばさないで。みっともないから」


 二人は人混みの中から彼女を眺めるが、容易に近づけそうにはない。


 ヴァレンシナは王女。派閥のものによって手厚く警護されているのだ。


 黒色の制服に身を包んだイカつい男女。おそらく三年生だ。一番手前で群衆に目を光らせているのは――ゴリラ。比喩ではなくゴリラであった。


「あのゴリラは生徒じゃないよな?」


「生徒よ。生徒会の庶務」


「庶務? 殺し屋だろ」


 ゴリラの鋭い眼光がエディを捉えた。聞こえていたのだろうか。冷や汗が背中を伝うが……目線はすぐに外される。どうやら無謀に接近を試みるのは危険なようだ。


 ふと、一人の男子生徒、猿の獣人が進み出てゴリラに話しかけた。


「どうも。生徒会長にどうしてもお伝えしたいことがあって……」


 ゴリラはドスの効いた声で返す。


「なんだ。ワシから伝えておく」


「直接お伝えしたいといいますか……」


 ゴリラは吠えた。カフェは一瞬で静まり返る。


「どうせ告白だろう!? 殿下は身分あるお方だ! お前なんぞに相手は務まらん! 身の程知らずめ……毎日一人はこういう馬鹿がいる。そして返事は、こうだっ!」


 ゴリラは男子生徒を持ち上げて、投げた。コマのように回転しながら遠くの方まで飛んでいき、道路脇の茂みに頭から突き刺さって動かなくなる。


 エディは額の汗を拭った。


「ゴリラすげえな」


「どうするの? 腕を引っこ抜かれたって私の助けは期待しないように」


 やはりと言うべきだが、接近は容易ではない。こういう場でお近づきになるのは不可能だ。


「まあしばらくは様子見かもな」


「ふーん」


 ヴァレンシナはご友人と仲良く談笑しているが、その話し声もざわめきにかき消されて聞こえない。


「よし。この件は保留だ。もう少し学園に馴染んで人間関係を把握しないと」


 エディは擬態の勇者。ゴリラにだって化けられる。しかし怪しまれればゲームオーバーだ。擬態は完璧な能力ではない。


「飯でも食おうぜ。昼は何も食べられなかったし」


 二人は席につき、エディはサンドイッチを頬張りながら観察を続ける。シャーロットはつまらなさそうにコーヒーを飲み始めた。


 少しするとヴァレンシナは席を立ち、ぞろぞろ仲間を引き連れて去っていく。


「それにしても……やっぱりどこかで見たことがあるような」


「いよいよ低俗なナンパじみてきたわよ」


 触れがたい高貴さを纏う後ろ姿を目で追いながら、エディは今朝と同じ既視感を感じていた。


 これは勘違いではない。きっと戦場で出会ったことがあるのだ。だがどこで、どんなふうに? いくら頭を捻っても思い出せそうにない。


 空は赤みを増していき、カフェから学生の姿は減っていく。


 二人は静かに時間を過ごした。エディの頭の中では任務達成のための様々な思考が泡のように浮かんでは消えていく。


 シャーロットがカップを置いて口を開いた。


「良い案は思いついたかしら?」


「まったく」


「そう。殿下の安全を喜ぶべきかしら。それともあなたがさっさと故郷に帰らないのを悲しむべきか」


「俺の血が大好きなくせに」


「血は大好きなのだけど……飲み物の趣味は合わないかも。コーヒーって苦いだけで何が美味しいのか分からないわ」


 シャーロットはそう言って茶褐色の液体をしかめ面で啜り、けほりけほりとむせる。


「無理して飲むなよ」


「うるさい」


 ぼやくシャーロットは背中を丸めて足元に手を伸ばし、己の影に触れて――影の中に手を突っ込んだ。白い手が薄い影の中に沈み込み、何かを探るように動いている。


 エディは目を見張った。


「そんなこともできるのか」


 その手は何かを見つけたようで、ゆっくりと引き上げ、指先がつまんでいたのは真っ白なハンカチ。


 シャーロットはそのハンカチで口元を拭う。令嬢らしい洗練された仕草だ。


「おかげさまでね」


「俺が今まで会った吸血鬼はそんなことしてなかったけど」


「混血と一緒にしないで。それからそこらへんの純血ともひとくくりにしないで。私は始祖の子なの」


 シャーロットはハンカチをひらりと投げ捨てた。それは舞い落ちながら影に引き寄せられ、影の上で一瞬だけ浮き・・、とぷとぷ沈んでいく。まばたきの後には何も残らずただ影があるのみだ。


 吸血鬼は己の影の中に領域を持つ。噂程度でしか聞いたことがなかったそれを、エディは初めて目にした。


「私はこれからますます強くなるわ」


 シャーロットが反応を探るようにエディをまっすぐ見据えた。


「あなたの血を吸って強くなるの。変身できる種類は増え、血の操作は研ぎ澄まされ、不死性も高まっていく」


「……悪いことはするなよ。もしそうなれば――」


 殺すことになる。口に出さずともシャーロットは真意を理解したのだろう。意味深げに微笑んだ。


「かしこまりました、ご主人様。ちゃんと手綱を握っておいてね」


「……ああ」


「じゃあ帰るから。また明日」


 シャーロットは席を立った。


 エディはその凛々しい背中を見送る。純血の吸血鬼は人族にとっての天敵だ。彼女はまだまだ若く未熟で、それでもその才を開花させつつある。エディはもう一度自分を戒めた。いくら友人のように振舞おうと、シャーロットに心を許してはいけない。


 エディはサンドイッチを口の中に押し込んで寮へ向かった。



 寮にはみなが揃っていて、ミミは傷を綺麗に癒してもらっている。ファングとバーンもどうにか森から帰ってこれたようだ。


 寮生はその日の体験を共有しながら夕食を食べ、たくさん話した後に各々部屋に戻った。


 そして……エディは擬態の持続時間の限界が近いことを悟った。ベッドの上で天井を見ながら角を触る。


 寮の静寂が心臓の鼓動とともに際立って聞こえた。長引いた擬態のせいで全身がこわばり、角を触れる指先が少しずつ汗ばんでいる。


 このままじゃ明日にでも、あるいは今夜眠りが深くなった瞬間にでも擬態が解けかねない。人族の姿に戻って休む時間が必要だ。


 エディはファングとバーンを起こさないよう静かに男子部屋を出た。向かうはトイレである。


(トイレの個室で眠るしかない。旅の間からずっと擬態を解かないままで来たが、いよいよ限界だ。どうやら匂いだけで勘付かれることはないようだし、問題はないはず)


 便座に座り込み鍵をしっかりとかけてから、エディは額の角に意識を集中させた。


 大きな角が煙のように消えて頭がすっと軽くなる。本来の姿に戻ると緊張が一気に緩んでいく。ずっと体の中に根を張っていたしこりが溶解して、疲れがどっと押し寄せた。


 堪えきれず、壁にもたれながらエディの意識はすぐに温かい夢の中へ沈み込んでいった。



▼△▼



 そして――


 かけたはずの鍵が音も無く外れ、扉がゆっくりと開けられる。決してたまたま開けてしまったのではなく、確信を持った何者かによる行いだ。


 危機に気付いていないエディは無防備に寝顔を晒していた。


 それを見て笑みを深めたのは――


 テナンであった。


「あーあ。こんなに寝ちゃって」


 テナンはくすくすと小声で笑い、まるで糸で人形を操るかのように指を動かした。その瞬間、エディは目を閉じたまま、まるで意思を失ったように立ち上がり、テナンの指先に引き寄せられるようにゆっくりと歩き始めた。

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