人間万事塞翁が馬(2)


 ここに来る直前に見た、後味の悪い夢を思い出す。泣き叫び、胸が痛くなるような懇願を繰り返す真偽まきの声と、彼女に手を差し伸べる褐色の男の姿。

 あれは、彼女の言う「ナナシさん」ではなかったか?


「……もしかして、あれは本当にあったことなのか?」

「あれって?」

「……夢を見た。俺が死んで、真偽が泣く夢。その後に、よく分からない男にお前が手を伸ばして……契約を交わす夢だ。もしかしてあの男は、さっきの神か?」


 真偽は驚いた顔でぱちぱちと瞬いた。


「覚えてるんですか? 意識、あったんですか?」

「いや、意識があったかどうかまでは……でも覚えてるよ。お前、泣いてただろ」

「泣いて……ましたけど。待ってください。どこまで……どこまで覚えてますか?」

「どこまでって、お前が手を伸ばして、そのナナシさん? 無名? とやらと契約したっぽいところまでだよ」


 彼女はあからさまにほっとした顔をした。


「じゃあ、契約の中身については、知らないんですね……」

「知らないけど……俺を生き返らせるために何かするとか、そういう感じじゃないのか?」


 そう告げると、彼女は一転して真っ青に顔を染めた。


「なんで分かるんですか……」

「いや分かるだろ。俺、死んだはずなのに、生き返ってるし。なら大方、お前が交わした約束ってのは、俺を生き返らせることだろ。で、その神様とやらがまだ真偽と一緒にいるってことは、願って、叶って、それで終わりじゃなかったんじゃないか? 一人分の命だし、対価もそれなりだとすると……真偽はまだ、対価を払ってる最中だったんじゃないのか?」


 真偽は絶句していた。目が雄弁に「そこまで分かるの?」と告げている。逆になぜ分からないのか、蒼輔には理解ができない。


「まだあるぞ。そもそも俺は、神在月にお前を追って禁足地まで入ったこと自体、ほとんど忘れてたんだ」


 神在月に真偽に連れられ、フィールドワークに行ったこと自体は記憶していた。だが思い返してみれば、そこで何があったかにいては霧のように朧気だった。それ自体にまるで違和感を覚えていなかったのだから、異常事態だ。

 忘れていることさえ忘れてしまえば、人間は自分の異常性には気づけない。


「まあでも、なんでそんなことになってたのかは分かる。死んだはずの自分が生き返ってることに俺が気づいて、気が狂わないように、あの神様とやらが何とかしたんだろ。でも、それ以降、お前とフィールドワークに行ったときの記憶まで書き換える必要はないはずだ」


 だが実際、書き換えられている。

 なら、そこにも意味があるはずだ。


「多分、その『契約』に関わることを……つまり、俺を生き返らせるための対価を支払う行為を、お前はフィールドワークでやってたんじゃないか?」

「……嘘……ははっ……」

「おい待て、終わってないからな。最後まで聞けよ」


 もはや笑い出し始めてしまった真偽を制止して、蒼輔は続けた。


「ここまではいい。だがそもそも一番の疑問は、俺の記憶を消したり書き換えたり、そんなことをする意味がどこにあったのか、って話だ」

「ま……待ってください、蒼輔さん」


 彼女が耐えきれない様子で待ったをかけた。眉を下げ、困惑した様子で蒼輔を見る。


「まず、あの、自分の記憶が弄られてたことについて、何かないんですか……?」

「いや? 別にない」


 きっぱりと告げると、彼女はぽかんと口を開けた。そんなわけなくないですか? という声が聞こえてきそうだ。


「いや、厳密に言うと、ないわけじゃない。けど、お前が死にそうな顔してるから、一旦脇に置いておく」

「なんですかそれ……」

「いいから。話を続けるぞ」


 強引に軌道修正して、再び蒼輔は口を開いた。


「記憶を消したり書き換えたり、訳の分からないことをするより、俺に全部話したほうが早いはずだ。浅海蒼輔は死んでて、生き返らせるために必要なことがあるから一緒に協力してくれって。ていうか、それを伝えるのが筋だろ。死んでるの、俺なんだし」


 けれど、彼女はそうしなかった。


「まあ、俺が信じない可能性が高かったからって考え方もできるが……その神様の力でも見せてれば、遅かれ早かれ信じてたはずだ。死にかけてたんなら、体にだってガタが来てたはずだし、誤魔化すよりも早い」

「……」

「でも真偽はそうしなかった。ここにも意味があるはずだ。そうだろ?」


 彼女は唇を噛んで黙りこむ。手の甲が白くなるほど強く握りこんで、それでも、何も言おうとしない。

 別に、それでも良かった。彼女が「言わない」ということも、判断材料になるからだ。


「つまり……」


 今の蒼輔がしていることは、もしかしたら、ひどく残酷なことなのかもしれなかった。彼女がここまで取り乱すような何かが、必死になるような何かが、この記憶にはあるのだ。

 ならばなおさら、全てを明らかにしなければならない。

 そうでなければ、この暗闇の中で、犬神真偽が独りになってしまう気がした。


「つまり……俺が契約の内容を知ること、それ自体がタブーなんじゃないか?」


 蒼輔は真偽をまっすぐに見つめて言った。彼女は強く、強く唇を噛み締める。ぎりぎりと噛まれる柔い皮膚からじわっと血が滲んだのが分かった。


「おい、やめろ。血が……」


 伸ばした手を、縋るように掴まれる。


「どうして……」


 か細い声が、その場に落ちた。彼女は既に俯いていて、震える声が、悲鳴のようにその場に響いた。


「どうして、こういうときだけ、勘がいいんですか……」

「おい、いつもは勘が悪いみたいに言うな」


 反射的に反論したが、それ以上は言葉にならなかった。

 犬神真偽が、泣いていたからだ。

 ぼろぼろとこぼれた涙が、蒼輔の手に落ちる。体温の混じった水はぬるい。魂そのものにも温かみはあるのだろうかと、意味のないことを思う。


「真偽」

「なんで……先輩が思い出しちゃったら……私……どうしたらいいんですか……」

「……」

「あと、半分だったのに……」


 何を言っているのかよく分からなかったが、多分、己の予想はそれほど外れてもいないのだろうと思った。

 妙に頭が冴えている。自分の命の話をしているのに、まるでジグソーパズルをはめこんで、答え合わせをしている気分だった。一度死にかけると、人間はこうも冷静になるものなのだろうか?


 蒼輔は真偽の手をぐっと握り返す。彼女がどこにも行かないように。


「お前が俺を生き返らせるために、今も何かをしてたとして……そこに『タブーを犯さない』という条件がつけられてたんだとして……」


 引きつけを起こしたように泣く彼女の背を、そっと撫でる。


「タブーに触れた場合に天秤に乗せられるのは、やっぱり俺の命なんだろうな」


 確信があるのに、なんだか全てが遠く、映画の中のことに感じられた。


「なんで、そんなに冷静なんですか……」

「いや、なんでだろうな……」


 蒼輔は苦笑する。自分でも驚くほどに、死にたくないという気にならない。いや、死にたくはないが、それ以上に満たされた感覚がある。

 自分の命のために、犬神真偽がここまで泣いて、ここまで一人で全てを抱えて、歩み続けてきた。それ自体が、なんだか、ひどく尊いもののように思えたのだ。

 だから、もういいかなと思った。彼女をこれ以上すり減らすくらいなら、自分は死人に戻ったほうがいい。正直、今死ぬと、残された母親と弟妹たちが死ぬほど苦労するだろうから、あまり死にたくはないが……


「いいよ、もうやめろ、真偽」


 ただ、浅海蒼輔という一個人はもう、死ぬことを受け入れてしまっていた。


「もういいよ。お前、よく分からないけど、すごく……すごく頑張ってきたんだろ。もういい。もう俺のためなんかに頑張るな」

「……何言ってるんですか……?」


 絶望がにじりよってきたような顔で、彼女は呆然と呟く。


「だから、俺は死んだままでいいんだって言ってるんだよ」


 蒼輔は、人生の中でこれ以上ないくらい、柔い声で言った。

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