祈り
「ハロー、浅海くん。
その先に、青い瞳の女性が立っている。
「すみません、家鳴さん。真偽はまだ起きていなくて」
「真事でいいよ。ごめんね、ちょっとお邪魔するよ」
するりと蒼輔の脇を抜けた真事に、後ろにいた修司が顔をしかめた。
「真事さん、ちょっとは遠慮しろ」
「真偽が倒れてるんだ。遠慮は二の次だよ」
蒼輔は咄嗟に首を横に振った。
「いえ、大丈夫です。修司さんも、入ってもらって」
「ああ……どうも。ていうか、さん付けしなくていいよ。同い年だし。俺も蒼輔って呼ぶし、敬語もいらない」
蒼輔はただ頷いた。修司は部屋に入ると扉を閉め、鍵をかける。
真事はというと、ベッドに寝かされている真偽の横に座りこんで、口元に手をかざしたり額に手をやったりしていた。
「うん、呼吸は正常。熱もない。本当に気絶してるだけみたいだね。すぐに目も覚めるだろう」
「だと……いいんですけど」
蒼輔は力なく呟いた。倒れたときの真偽の様子が、脳裏に薄くこびりついている。
「なんで真偽が……こいつが、次期当主? とやらに選ばれたんですかね。やっぱり間違いなんですか」
「どうだろう……こればかりは、そうは言えないかもね」
憂いを帯びた表情に、蒼輔は眉をひそめた。
「どういうことですか?」
「……ときに浅海くん。真偽の体質については知っている?」
意識に切り込んでくる声だった。真事が、全てを見透かすような瞳でこちらを見ていた。
「体質?」
「やっぱり知らないか。まあ、なんていうのかな……異常に好かれるんだよ、この子は。異質なものにね」
「異質なもの?」
「うーん、魑魅魍魎、妖怪変化、まあ幽霊とか、そういうものだと思ってもらって構わないよ。この子、やたらおかしな場所に行きたがるだろう? 幽霊屋敷とか、神様の祀られた土地とか、異形の伝説が残る地方とか」
「ああ……」
身に覚えがありすぎて頷く。真事は苦笑しつつ、言葉を繋げた。
「あれはね、この子がそういう伝説や民話が好きで、好奇心の赴くままにそういう土地に行ってるってわけじゃない。いや、この子に知的好奇心があることは否定しないけど……正確には、呼ばれているんだ。この子は、とても『好かれる』からね」
「呼ばれる……」
「引き寄せられる、と言ってもいいよ。この子自身も多分気づいていないだろうね。百鬼夜行に迷いこんで、化け物と踊るような子だ」
にわかには信じがたかった。それはまるで、幽霊だの妖怪だの異形だの、そんな非科学的なものが、この世に存在しているみたいじゃないか?
「確かに……こいつは色んな場所に出向いては、祠壊したり御神木のしめ縄引きちぎったり、明らかにヤバい魔法陣をぐちゃぐちゃにしたりしてますけど……」
「散々やってるね。すごいな」
「でも、一度も、そんな異物が出てきたことはないですよ。頭のイカれた人間だったら、何度も会いましたけど」
「へえ? 本当に?」
真事が唇を歪める。蒼輔は何故か、脳の奥をぐんにゃりと曲げられたような、不快な気分を覚えた。
「幼い頃、私と裏の山に行ったときは、それはもうすごかったけどね。あのときに思い知ったよ。この世には物理法則では説明できないものが存在してるんだってことと……この子は、神にすら愛される子だ、と」
「神に……」
「お祖母様も気づいてた。だから真偽に『決して神に祈らないように』と伝えたんだ。この子はただでさえ異形に好かれる。自分から手を伸ばすようなことをしたら、どんなふうに愛されるか分からないから」
「神様に愛されることが……悪いことなんですか?」
真事は妖艶に笑った。
「民俗学を学んでいるなら、知っているだろう? 神なんてものは身勝手だよ。あちらの
そんなことが本当にあるのか? と蒼輔は思った。確かに、民俗学では神についての概念や捉え方も学ぶが、それを現実のものとして持ち込んだことはない。今まで頭になかった概念を詰め込まれて、はいそうですかと頷けるほど、彼は柔軟ではなかった。
真事は真偽の髪を撫でて呟く。
「信じられない? まあそうだろうね。でもこの子、さっき奇妙なことを言ってただろう。『今回は祈ってないのに』って」
「……言って……」
いたかもしれない。自信がない。
蒼輔は額を押さえた。何故だろう、かすかに、頭痛がする。
「あれはつまり、神に祈ったことがある、ということじゃないかと私は思う。それで、もう既に、何かがあったのではないかと、私は思うんだ」
ぐらり、と、脳を揺さぶられるような感覚があった。何故だろう、そんなことはありえないと、訳の分からない話だと、断ずることができない。
がんがんと、脳の奥でもう一人の自分が叫んでいる。
「私はね、神に似たものに会ったことがある。だから分かるんだ。気配がね、似ているよ。この子は既に、何かに愛されてしまっている」
一から十まで荒唐無稽な話だ。だが、その通りだという認識が蒼輔の中にもあった。あるいは、真偽ならありえる話なのかもしれない、という感覚なのか。
「だから多分、犬神様にも愛されるだろう。そういう素質が、もともと、犬神真偽にはあったんだ。今回のことも、何かの間違いだって言い切れない。この子は本当に選ばれてしまったのかもしれない」
蒼輔は、いつの間にか乾ききっていた口の中を湿らせて、掠れた声で呟く。
「……犬神様に愛されて、だから、高い地位である当主に……」
「違うよ。あれは奴隷だ。犬神に捧げられる
きっぱりと、真事は言い切った。
「愛されたから、高い地位を捧げられたんじゃない。犬神様が、彼女を自分のモノだと勘違いしたから、贄嫁として縛られそうになっている。少なくとも私はそう思うね。勝手なことだ」
吐き捨てるように笑って、ぐっと拳を固めると、おろむろに蒼輔の瞳をまっすぐに見つめる。
「君も気をつけるといい」
蒼輔は一瞬何を言われたか分からず、目を丸めた。
「……俺、ですか?」
「神は強欲で、身勝手で、荒唐無稽だ。依代の君は浅海くんに向かって吠えただろう? 何か、良くない予感がするんだ」
「良くない予感って……」
「口に出したらいよいよ現実になりそうだからね、言わないけど。でも、気をつけて。真偽のことを捉えたなら、確実に、君のことも犬神は視界に入れた。神に魅入られた人間は、一部の例外を除いて、たいてい最悪の目に遭う」
まるで見たことがあるかのように、彼女は笑った。
今さらだが、彼女はどんな人生を送ってきたのかと思う。犬神の家の人間で、真偽と同類の精神性なら……彼女も決して、順風満帆な人生ではなかったのではないか?
だが、そんな疑問はすぐに霧のように薄れて消えた。自分が気にすべきは彼女ではない。
青ざめた顔で、死んだように眠る真偽を見つめる。蒼輔に縋って震える手を、いつもの溌剌さが嘘のようなかぼそい声を、まだ覚えている。
「俺は、彼女に頼まれてここに来ました。真偽が助けてって言ったから、ここに来た。だから……まずはこいつのことを助けます。当主だなんだっていうのは、よく知りませんけど、こいつが助けてって言うなら、助けますよ」
真事は予想外のことを言われたのか、呆けた顔で口を開け、弾けるように笑った。
「あはは! いいね! 真偽の先輩が君で良かったよ!」
「え、はあ、ありがとうございます……?」
「うん、それじゃあ、とりあえず君たちは風呂でも入りに行きな。ここ、大浴場あるからね」
「は?」
素っ頓狂な声を上げる。思わず隣の修司を見れば、彼も面食らった顔でこちらを見ていた。
「いきなりなんすか、真事さん。大浴場って……」
「懇談会終わってから行ったら、本家の人間とかち合うだろ。大浴場であの人たちと鉢合わせたい? 私はごめんだね。真偽が起きたら私たちも早めに大浴場に向かうよ。真偽から聞きたい話もあるし……あ、もちろん男女は分かれてるから安心して」
「そんな心配はしてないですよ」
呆れた顔で修司がやりとりを終え、「これ以上は何言っても無駄です」という顔をした。確かに。
「分かりましたよ。俺らは風呂入りに行きます。食事はどうします、真事さん」
「もちろん、みんなで取ろう。結局懇談会ではろくに食べられなかったし……この部屋広いからちょうどいいよ。シェフに頼んでここに食事持ってきてもらえばいい」
それを聞くと、やはり犬神家はすさまじい金持ちなのだなと思う。大浴場にルームサービス的なものまであるとは……もはやホテルでは?
「分かりました。行こう、蒼輔。真事さんの言うこともまあ……一理あるし」
蒼輔は少し迷って、頷いた。真偽のことは真事が見てくれるというなら、多少は安心だ。
「じゃあ、真偽のことはよろしくお願いします」
「任せて」
懇談会のときと同じ、力強い口調で、彼女はひらりと手を振った。
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