大坂夏の陣
第二十七話 兆候――再びの開戦
講和の条件として決まった、二の丸、三の丸の破却と惣構えの埋め立てが始まった。
豊臣方はのらりくらりと時間を稼ぎ、家康が寿命で死ぬのを待つ心積もりであった。ところが、徳川方が惣構えの堀を埋めた勢いで、二の丸、三の丸まで埋め立てた――とよく言われるが、それらを取り壊すことを提言したのは豊臣方で、埋め立てたのも豊臣方であった。
当時の資料には徳川方の横暴を記したものはない。つまり、徳川方は『取り決めた持ち分を、取り決めに基づいて行った』だけなのである。
それはともかく、外掘には家屋の廃材までも放り込み、突貫工事で行われた。その後、二の丸、三の丸、どさくさ紛れで内堀までも埋め立てた。一月二十三日には完了したというから、およそ一ヶ月で埋め立てを終えたことになる。
工事に関わった諸大名も、帰途に就いた。
家康は講和後、駿府へ引き上げたが、秀忠は江戸には戻らず、伏見城に入った。豊臣方を監視するためである。
現に、豊臣方は多数の浪人を抱え込んだままであった。それでも講和後は神妙にしていたようで、やがて秀忠も江戸に引き上げた。
だが、それに安心したのか、辛抱が出来なくなったのか、浪人たちの一部が乱暴狼藉を働いた。中には、京都まで出向く者までいたのである。
慶長二十年(一六一五年)三月十五日、この状況を京都所司代、板倉勝重は家康のいる駿府に報告した。
「そは、不届きである。直ちに浪人たちを追放するか、秀頼殿が移封に応ずるか。どちらかを選べ!」
報せを受けた家康は、豊臣方に二択の選択を突き付けた。応じなければ、今度こそ豊臣家を討ち滅ぼす決意であった。
だが、大野治長が送った使者の返答は、
「移封は応じ難し――と仰せつかりました。また、秀頼様から退去するように命じられても、浪人衆は城内、城下町に居を構えて居座っており、埒が明きませぬ。もうしばらくの間、お待ち頂きたい――との由にございまする」
と事実上、どちらも拒否。それがどういう意味を持つのか、この使者は思い至らなかったようだ。もう少し気が利いた使者ならば、巧く言い逃れもしようというものだ。
その返答を伝え聞いた家康は、
「是非もなし」
と、豊臣家を討つ意向を固めた。
一方の豊臣方も、もはや戦は不可避と判断し、堀を掘り返したり城壁を修理したりしている。
ただ、それでも和議の約定通りにすでに解雇していた浪人もいたし、裸城では勝ち目などない――と豊臣を見限った者もいた。そのため、冬の陣の時よりも兵は減っており、六万余となっていた。
四月四日、家康は九男の義直と浅野幸長の娘、春姫との婚儀のために駿府を出発し、十日には名古屋城に入った。名古屋に向かう最中の六日、七日には諸大名に出陣を促している。
十二日には婚儀も終わり、家康は十八日に二条城に入城。二十一日の秀忠の到着を待って重臣たちと軍議を行い、五月三日に出陣と相成った。実際には、三日は雨が降ったので、五日に日延べとなった。
「此度の戦、三日分の腰兵糧で良かろう」
と、家康は言ったという。三日もあれば、裸城の大坂城は落とせる――との自信から出た言葉だと云われている。
徳川方は十六万余の軍を二手に分け、先の冬の陣と同じく、家康が大和路、秀忠が河内路を取って大坂へ向かうことと決め、紀伊藩当主の浅野
四月初旬からの徳川方諸大名が京都の鳥羽、伏見に集結しつつあった状況を、大坂城への出陣準備と見た豊臣方は四月二十六日、大野
定慶は千余の兵や領民らを掻き集めるも、豊臣方を大軍と見誤り、戦わずに撤退。治房らは残った僅かな兵を討ち取り、難なく郡山城を接収した。
しかしながら、その治房も、徳川方が大軍で大和路を通るとの報に、戦わずに城を放棄。大坂城へ撤収した。
そのついでとばかりに二十八日、徳川方の兵站基地でもあった堺を焼き討ちを行い、堺の町は全焼した。
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