第2話




同じ部署の先輩は、唐突な私の誘いにも嫌な顔ひとつせず乗ってくれた。非常にありがたい。オフィスビルの1階ホールで待ち合わせて合流したのだが、その時点で既に彼女は「あれでしょ。例のあの人に呼び止められてたやつでしょ」とワクテカが止まらない様子である。きっと彼女は、会議室から出る時に呼び止められた私を見たタイミングで既にワクテカしていたのだろう。

その様子にちょっと笑いながら、私たちは隣に立つ商業ビルの安いイタリアンへ入った。




「そこまで鈍感になれるって逆にすごいよね、例のあの人」

「前々から思ってるんですけど、その呼び方ってすっごい人殺してそうですよね」


容赦ない評価を下す先輩の言葉にちょっと斜めの返答をしながら、私は食後のアイスティーをストローでひと口飲んだ。

それぞれ頼んだランチセットのパスタを食べながら、先輩はしっかりと今さっきの出来事を聞いてくれ、結果先ほどの感想がまろび出た訳である。


「いやでも人殺せそうなメンタルしてる気がするけどね」

「やー・・・ほんとそれ」


先輩の言葉を全く否定できなかった。ほんと、なんなんだろうあのクソ強メンタル。いっそ羨ましい気がする。嫌いだけど。全然憧れないけど。


「なんかもう、どう対応するのが正解なんですかね?」

「うーん・・・難しいとこよね。職場でギスギスすんのもしんどいし、ここまで察する能力低いタイプに逆恨みとかされても怖いしなぁ」

「そうなんですよねぇ・・・まあさっき大分やっちゃった気はしますけど」


先輩の言葉にため息混じりで答えながら、行儀悪くストローをずずずっと鳴らす。追うように氷がからん、と涼しい音を立てた。


「自意識過剰かもしれないけど、嫌がらせされたらとか、ちょっと考えちゃうんですよねぇ・・・あんまり刺激したくもないって言うか」

「いやわかるよ。自衛大事だって。あんだけ断っててなお誘ってくるって普通に怖いよ」

「え、ですよね?あれだけ断ってたら永久にお断りなのって伝わりますよね?」

「普通はね」


先輩の返答に思わず安堵のため息が出る。よかった理解者がいて。

同じ部署に理解者がいてくれるのは、本当にありがたい。これで「あれだけ一生懸命なんだし、デートくらいしてあげれば?」なんて空気になった日には最悪である。というか、同じ部署の、主に男性陣が若干そんな空気を醸し出したことがあったのだが、そこを救ってくれたのが今目の前で話している先輩だったりする。


「え、顔もタイプじゃない、第一印象も最悪、しかも後々面倒な感じになりそうって分かってる女の子に言い寄られてデートとかするタイプなんですか?女なら誰でもイイってタイプです?」って真顔で聞かれたその男性社員は、一瞬固まってから「すまん」と謝ってくれたので今も良好な同僚関係でいる。先輩様様である。


隣の島の人たちはまんま「デートくらいしてやれよ」って雰囲気らしいけど、まあ同じ部署の仕事ができる灰寺さんの肩を持つ気持ちは一応理解できる。できるが、私には私の価値観があるので、その辺りはもう割り切って気にしていない。そもそも仕事で関わらないしね。基本的には「おはようございます」と「おつかれさまでした」しか言葉を交わさない人たちだ。なんならこっちが挨拶して返答がなかったところで全然気にならない。


「とはいえ、今のところ隣の部長にちょっと話すとかくらいよねぇ・・・」

「とはいえうちの部長と仲悪いですしねぇ・・・」

「・・・ならもう現状維持かぁ・・・」

「ですよねぇ・・・総務まで持ってくほど大ごとにするのも面倒ですし・・・」


ふたりで同時にため息をつき、それぞれなんとも形容し難い不満を表すようにストローをずずずっと鳴らす。実に子どもっぽい反抗だが、他にも不満の表明方法も浮かばなかったのだ。


嗚呼全く、楽に生きて死にたいものだ。


「さて・・・そろそろ戻りますかね」

「しんどぉ・・・」


ひとり掛けのソファにそっくり返る私を笑いながら、先輩が席を立つ。


「ほら行くよ」


ほとんど返事になってない呻き声を返しながら、私も先輩のあとを追ったのだった。



...



..







定時までは存外さっくりと終わった。ことさらトラブルもなく、灰寺さんもいつの間にか姿が見えない。早退か外での勤務だったのだろう。実に平和だ。


「お疲れ様でした」


今日は定時で上がれるように、あらかじめ周囲に手伝うことがないか聞いていたので、私は定時ぴったり、鐘が鳴った瞬間に帰り支度を始め、これ以上なく爽やかで後腐れない笑みを浮かべて、同僚たちに終業の挨拶を告げた。


「いや早すぎだろ」なんて笑い混じりに揶揄われたが全く気にならない。私のこの後の予定はもう確定しているのだ。速攻で帰って、秒でお風呂に入って、洗濯だけ干して、スエット生地のだるだるロンスカとパーカーに着替えて漫喫へ行く。


つまり、一秒たりとも無駄にはできない。


何を読むかはまだ悩んでいるところだ。新規開拓もいいけど、しばらく前に読んだ、面白いことを確信できるレジェンド作品もいい。でも新巻を読めてない作品も気になる。


いやどうせ朝までコースだ。寝落ちするまでにどこまで読めるか・・・つまるところ、何から読み始めるのがいいか、という問題だ。優先順位は決めておきたいところだ。


これから読む漫画のことで頭をいっぱいにしながら、改札を抜けた。

電車はそれなりに混んでいるが、朝のラッシュほどではない。座れはしないけれど、押し潰されることもないという程度だ。

今この電車に乗ってるビジネスマンの大半は定時組だろうか。そういう日もあるよね。残業代は美味しいけど、自分の時間ってお金じゃ買えないもんね。なんて、妙な仲間意識が湧いてくる。これだけ定時上がり組がいるなら安心だ。何が安心かいまいち分からないのだけれど、なんとなく安心だ。


最寄り駅から家までは、歩いて10分ちょっとかかる。週末の疲れ切った脚は、その10分すら煩わしいのだけれど、残念ながらここでタクシーを拾うなどというリッチな選択ができる程、稼ぎは良くない。いや。いや、ポジティブに考えようじゃないか。歩くの健康的だしね。いい事だよね。ちょっともうパンプス脱ぎ捨てちゃいたい気分ではあるんだけどね。


9月に入って、少し日差しも落ち着いた。都会でも、蝉は鳴くし、トンボは飛ぶ。赤く染まったトンボをちらほら見るようになると、まだ全然暑いけれど若干秋を感じ始める。実際、夏の焼き付くような日差しは多少和らいできているように感じる。

日暮れも早くなってきたけれど、それでも18時を回るかどうかの現在、空は夕日をビルの向こうに抱えてながら空を茜色に染めており、まだまだ明るかった。


うちの最寄り駅の駅前はそこそこ栄えている、と思う。駅のすぐ目の前にはちょっと寂れたショッピングモールがあるし、商店街もある。いっそのこと、ショッピングモールが若干しょっぱい感じなせいか、商店街がかなり盛況だ。

個人経営であろう店がずらずらと軒を連ねている姿はなかなか活気があり、私は毎回この道を通って帰る。

いつもであれば普通に買い物もする。八百屋さんとお魚屋さんはかなり良心的な価格設定だし、お惣菜屋さんがとにかく豊富だ。正直の商店街が気に入っているので、もし引っ越しても、最寄駅は変えずに引っ越すと決めているくらいには気に入っていたりする。今の部屋自体、特に不便もないので今のところ引っ越す予定はないのだけれど。


そう広くない道に並ぶ惣菜店や肉屋、飲食店から美味しそうな匂いが流れてきて、思わず立ち止まる。


あーもう。すごい食欲が掻き立てられる。どうしよ、コロッケ揚げたてだって。えー、あそこの美味しいんだよな。


一瞬止まった足をどうにか再度動かした。

いやだって、お昼にパスタ食べたんだもの。そろそろぴっちぴちの若者とは言えなくなってきた妙齢の女子としては、ここは我慢したいところだ。漫喫行ったら絶対コーンスープを我慢できないし・・・。というかおそらく夜食も何かしら頼んでしまうに決まってる。つまりここは、少しでもカロリーを抑えておきたいところなのだ。


お総菜屋さんやらパン屋さんやら、いい匂いで誘惑してくるあれこれをどうにか振り切り、魅惑に満ち満ちた商店街を抜けると、周囲は一気に住宅街へと変わる。

あんなにも賑わっている通りがすぐそこにあるのに、一本道を跨いだだけで随分と閑散とするのだから不思議だ。


家まであと5分ほどだ。歩けば歩くだけ人の数は減っていく。

静かな住宅街に、私のパンプスの音がやけに響いて聞こえた。


進めば進むほど足音は加速度的に減っていき、今聞こえているのは、自分の足音と、そしてもうひとつ。革靴の、恐らくは男の物であろう重たい足音だけだった。


それは、別におかしいことじゃない、はずだ。だってここは住宅街で、そりゃ働くお父さんだって普通にいるだろう。忙しい現代社会人とは言え、定時で帰る日がないとは言えない。


逢魔が時、だなんて呼称されるこの時間帯のせいだろうか。薄く暗くなってきた住宅街。空の隅だけ妙に赤いのが、きっと不安を掻き立てるのだ。二人分の足音しか聞こえないという状況が落ち着かない。


「・・・・・」


鳩尾のあたりに不快感と不安感が立ち込めていた。


そんなはずはないのだろうが、なんだか後をつけられている気がしてならないのだ。心臓がちょっと五月蠅い位に跳ねている。


立ち止まって確かめてみる?

いやでも、それはそれで怖い。距離を詰められるのも嫌だし、刺激するのも嫌だ。


ここ最近、この道を歩いている時に度々視線を感じる事があった。すわストーカーか、と思わないでもなかったのだが、しかしスマホのインカメであったり、不意に振り返ったりと確認してみても誰がいたわけでもない。それが、今日に限ってこんなにハッキリ追われているような感覚に襲われている。


こちとら女のひとり暮らしである。私は別に、自分が絶世の美女だなんて思ってないし、ついでにスーパーモデルみたいなスタイルをしている訳でもない。でもだから安全か、と言われたらそんな事もない。ニュースで見る被害者たちは、大体が普通の人だし、それは私も同じだ。


歩調を変えないまま、しばし歩く。視界の端にひとつの曲がり角が目に入った。そこを曲がらずまっすぐ行けば自宅で、曲がって少し歩けばコンビニだ。


多分、恐らくは自意識過剰だと思っている。後ろを歩くのは、きっと疲れた週末のお父さんに違いない。

それでも自宅付近で、知らない男性であろう人とふたりっきりという現状は、一人暮らしの身の上としては、どうしても怖い。


ほんの少しだけ迷い、私は角を曲がる事にした。


別に、疲れたOLが、仕事帰りにコンビニへ寄ったからって何も問題はないだろう。こんな不安なまま自宅へ帰るなんて、自意識過剰と言われようと、ちょっとできそうになかった。


不自然じゃない程度に、でもさっきまでより少し速足で歩き、コンビニへとたどり着く。入店を告げる電子音に、こんなにも安心させられたのは初めてだ。


とりあえず、変な動作は見せたくない。いや分かんないけれど。ただの滑稽な大人な可能性は捨てきれないのだけれど。いやもうこの際開き直ろう。これで別にただの気のせいだったとして、誰に迷惑かけてるわけでもないんだしいいとしよう!私がちょっと恥ずかしいだけだ!


日本人じゃないと絶対に「いらっしゃいませ」を崩して言ってるのだとは分からないような声がかかる。それはスルーして、まずは適当に商品棚を物色し、そしてさらりと流れるように窓際に設置されているATMへと移動した。最近雑誌って紐でしっかり括られていて、立ち読みとかできないからね・・・。

ATMも目の前が完全に画面と仕切りで目隠しされてしまうけど、でもそこへ向かうまではしっかりと外を確認できるし、そこから立ち去るときもやっぱり窓の外を自然に確認できる。


何の気はない風を装って窓の外へ視線を流す。夕日も沈み、明るい店内から覗く外は思っていたより暗く、視界が悪い。駐車場のないタイプのコンビニなので、目の前はすぐに歩道なのだが、特に人影はないようだ。

パッと見た感じでは人はいないけれど、一旦不自然にならないように少しばかりお金を下ろし、出口に向かいながらも再度外を確認する。見た限り、やはり人はいない。


やっぱり近くに住んでる働くお父さんだった感じかな・・・。


ほっと胸をなでおろしつつ、過剰に反応した自分がやはり少しばかり恥ずかしい。でも胸につかえていた不安感が一気に払しょくされた解放感もすごい。


うん、なんかグミ買って帰ろう。どうしよう、なんか今日はもう家で映画かドラマの一気見でもいい気がして来た。ちょっと奮発して夕飯はU〇erしちゃおうかしら・・・。


何はともあれ、私はひとつ息をつき、そのままグミコーナーへと向かったのだった。

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