第2話
お風呂から上がると、ソファに香坂さんの姿はなかった。奥の部屋に目をやって、ベッドに横たわる人影を見つける。
「(……寝ちゃったのか)」
疲れたと言っていたし、疲労感は見てとれたし、お腹が膨れ体も温まって眠たくなったのだろう。
邪魔をしないように、起こさないように、静かに静かに寝室の扉を閉めようとして、ついその動きを止めた。香坂さんの肩から布団がずり落ちていたからだ。寒くないかなと思うのが先か、私はベッドに近付いている。
浅く寝息を立てる香坂さんの寝顔はいたいけな子どものようで可愛い。そんなことを言ったら香坂さんに怒られるだろうか。――きっと笑われる。ひどく呆れたような表情で。
布団を直すと、ゆっくりと香坂さんの髪に手を伸ばした。香坂さんに触れたくて、触れようとして、わずかな良心が香坂さんに触れることを止めさせた。香坂さんの髪に触れる前に手を握り締める。
「(……今日もリハビリ、しないのかな)」
ほぼ毎週行われるこの不思議な逢瀬は、当初、恋人らしい動作であふれていた。
「芽唯」と呼ばれて、腕を引かれて、腰を抱かれて、私は何度となく香坂さんの心音を聞いた。香坂さんは私を「彼女」と呼んで、顎をすくって、キスをした。恋愛感情をもとにじゃない。「リハビリ」の名目で、何度も、何夜も、香坂さんはそうした。
すべては夢だったんだろうか。そう疑うくらい遠い、現実味のない時間だった。
最近はめっきり減った。触れることもキスすることもなく、香坂さんは眠る。「彼女」という冗談ももう口にしない。
いや、当然だ。嫌気がさしてもおかしくない。おかしくないどころの騒ぎではない。誰が好き好んで、身を削るボランティアを続けたいだろう。これまで、食事と寝床の提供と引き換えにハグやキスをしてくれていただけでも頭が上がらないくらいなのに。それでも会いに来てくれているだなんて、もう足を向けて眠れないくらいなのに。
強欲な自分が恥ずかしくなって、小さくうめきながら頭を布団の上に乗せた。恥ずかしい。恥ずかしすぎて穴があったら入りたい。羞恥心をため息とともに吐き出す。
「――…何してんの」
突然聞こえた低い声に青ざめた。
がばっと体を起こせば、眠っていたはずの香坂さんが目を開き、こっちを見ている。
「……すみ、ません」
驚きすぎて頭が動かないが、香坂さんの眠りを阻害してしまったことだけは悟り、謝る。
香坂さんは怒るでも苛立ちをあらわにするでもなく、ダイニングキッチンから差す照明を眩しがって腕で目を覆った。それを受けてまだドアを閉めていないことを思い出した私は、慌てて立ちあがった。
「本当にすみません、ゆっくり休んでください。おやすみなさい」
ドアを閉めて、ダイニングキッチンと寝室を遮って、ダイニングキッチンの照明を絞って、それから明日の朝のアラームをセットして……。
頭の中で練られた計画は、一瞬でお陀仏だ。
「芽唯、こっち来いよ」
立ち去ろうとする私を引き留めるみたいだった。香坂さんは身をよじってベッドのスペースを開け、布団をまくった。
こっち来い。ここに来い。隣に来い。隣に寝ころがれ。
一緒に寝よう――?
私の心臓の辺りで、「そんなの無理!」と叫ぶ私と、「香坂さんの『来い』に背くなんて無理!」と叫ぶ私が戦っている。
かろうじて前者が勝った。首を弱く振りながら「電気が……」と呟けば、香坂さんは「じゃあ電気消したら来いよ」と目を閉じてしまった。
後者の私が頭を抱える。
だから、香坂さんの「来い」に背くなんて、私には無理なんだって……。
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