第3話

「今日は指の滑りがよくってね。こいつはきっといいことがあるって期待していたんだ」

 ピアノの鍵盤を布で丁寧にぬぐいながら、彼は口元を綻ばせる。

 ほんとうに、嬉しそうに笑うと思う。

 あまりに自然な仕草で。

 まるで、なにもなかったようだ。

 すべて幻か悪夢だったかのような錯覚にすら陥る。

 過去に彼とのあいだに経験した裏切りも、決裂も。



 ロンドンの劇場ハー・マジェスティーシアターをはじめ、数々の劇場と契約しているイシャーウッド劇団の看板女優だったとき、劇団所属オーケストラのピアニストだったのが彼――ヒュー・イシャーウッドだった。



 部屋の中央のアンティーク風の細長いテーブルの傍らのソファを勧める所作も洗練されている。


「ちょうどダージリンのセカンドフラッシュが入ったんだ」

 熟した果実を思わせる円熟した香りがあたりを包む。


 ティナをソファ席に促しもてなしの紅茶を出したあとで、ヒューはそっと正面の椅子に腰かける。

『オペラ座の怪人』のヒロインを演じながら、こんなのが怪人から連れ出してくれる恋人と重なって見えていた時期もあった。


 紅茶の湯気の奥に見えるのは純白の仮面。

 そこにまとわりつくのは紅蓮の炎のような悪夢。

 かの有名なミュージカル『オペラ座の怪人』のファントムにも重なる、呪われた運命。



 彼の父親はノア・イシャーウッド。イシャーウッド劇団を筆頭に、ロンドンで数多くの劇団を束ねる座長だ。

 一時はミュージカルの天才作曲家として名を馳せた。

 和音を順に鳴らすアルペジオをふんだんに使った印象派を思わせるきらびやかな音楽は見事で、アマチュア時代のティナもよく聴いたものだ。



 だが、天上の音楽の創造主の正体は信じがたいものだった。

 彼はロンドンの音楽界ではこう囁かれている。音楽の天使と契約した悪魔だと。



 あるとき、天使の祝福を受けた彼は、ミュージカリー・カップを使用する力を得たという。


 

 天使は彼に言った。才能を自在に移行できる神具を与えよう。



 その代わり、お前の息子を捧げよ。



 座長はその言葉通りに、すでにとびぬけたピアノの才覚を顕していた幼い息子、ヒューに、教会の祭壇で弾かせたのだ。



 その瞬間雷が落ち、息子の左半面は焼けただれたのだという。


 それからというもの、息子が音楽を捧げるたびに、祭壇にどこからか品物が現れる。



 アクセサリーだったり、骨董品だったり、形は様々だが、そこに宿る力はみな同じ。


 人々の音楽の才を吸い取り保管することができる、ミュージカリー・カップだった。


 以来イシャーウッドは息子の音楽を天使に捧げ、数々のミュージカリー・カップを生み出し、才能を奪ってでもほしい者たちに与えることで莫大な富を得てきたという。



 ティーカップを口につけながらふいに視線を向けると、ボルドーにもウィスタリアにも見える菫の瞳が微笑んでくる。




 二年ほど前、歌姫現役時代のティナが、父親の劇団のオーケストラでピアニストをしていたヒューと出会ったとき、そんなたいそうな逸話つきの男の息子なんてやめろと周囲にはさんざん止められた。


 だが若気のいたりというか、傷を負った子犬をほうっておけなくなる女性によくある性というか、それでもともに舞台芸術を造っていく過程で、魂が相通ずるように思えてしまったものは仕方ない。


 情熱の赴くままに、私がこの人を悲惨な運命からかくまう砦になると、音楽劇のヒロインよろしく誓ってしまった。



 ヒューを一生ミュージカリー・カップの生産に利用しつづけるという父親に、彼を自由にするという条件で歌声を捧げたのだった。



 ところが。


 彼の仮面のその下は薄幸の美青年とはいかず、やはり父親と同じ怪人だった。



『どうもありがとう。おかげさまでようやくわずらわしい業務から逃れられたよ』



 自由を手に入れた彼は、涼しげに微笑んで言ったのだった。



『きみとつきあったのは、これが目的だったわけさ。まんまと騙されてくれて助かった』



 その言葉を最後にあろうことか一人、自由になった身で世界へバカンスに旅立ってしまったのだ。



 その右目が、半分の口元がきれいに描いていた半月のような弧を、ティナは今でも忘れることができない。

 その彼は今も、小テーブルの向こうで笑みを向けてくる。


「労働条件を確認しよう」


 あのときと少しも変わらない、余裕に満ちた笑みを。

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