第7話
――一体どうしてそんなことに?
驚いて立ち尽くしていたリシャーナが訊ねる前に、ふとヘルサは思い出したように
「おや? ユーリスくんに許可証を預けたままだった」
ユーリスの去った扉を目で追い、ぽつりと呟く。
許可証とは、この王立魔法学園の敷地に入るために必要な入校パスのことである。
敷地に入る際の正門などはもちろんだが、図書館や研究棟、寄宿などそれぞれの建物に入るときも、出入り口の魔法具に配布された許可証をかざさねばならない。
王侯貴族が通うことを考えてのセキュリティなのだろう。
もちろんリシャーナも自分のものをいつも持ち歩いているし、研究者には常に予備の入校パスも配布されており、好きなときに一人だけ入校させることが出来るのだ。
研究者のほとんどは自身の研究で話を聞きたい専門家などを招き、研究のために有意義に使っている。
もちろん研究者を経由せずとも、事前に学園側に申請を行えば、臨時的に許可証の発行は可能だ。
今回は急だったこともあり、ヘルサは自身の予備許可証を使用したらしい。
「……私が取りに行ってきます」
「リシャーナ嬢?」
戸惑うヘルサの声を背中に、反射的にリシャーナは研究室を飛び出ていた。
長い黒髪が、後ろに大きくたなびく。
リシャーナは必死で、自分が走っている自覚もなかった。
ちょうど学生たちは講義中で、学園内に人影は少ない。そのことに、幸いだったなとリシャーナは後になって思った。
研究棟と寄宿舎の往復生活で、休日ぐらいにしか通らない正門へ向かって走った。
(私、どうしてこんなに必死になってるんだろ……)
漠然とそう思った。自分でもあまり理解できない感情だ。
同情心と、一歩間違えば自分もこうなっているかもしれない、という恐怖がない混ぜになってリシャーナの体を突き動かしている気がした。
息が上がり始めたころ、守衛室も構えた大きな正門が見えてきた。――が、ユーリスの姿はない。
その頃には冷静になり始めていたので、リシャーナは足をゆるめて息を整えてから職員に声をかけた。
「すみません。フードを被った若い男性が通りませんでしたか?」
守衛室の警備職員はすぐに頷いた。
「ええ。ついさきほどお通りになりましたが……」
なにかありましたか? と窺うように言われ、リシャーナは肩を落として首を振った。
「いいえ……あ、彼に預けていた予備の許可証なのですが……」
「ああ。それでしたら私どものほうでお預かりしております。許可証などはこちらで保管後に持ち主に返却いたしますので、取りに来ていただかなくても大丈夫ですよ」
「そうですよね……すみません」
なにより許可証は悪用されないよう、返却は持ち主本人でなければならないのだ。そんなことに今さら思い至り、リシャーナは自身の失態に恥ずかしくなった。
「ご苦労様です」
挨拶もそこそこにリシャーナは再び学園へと戻った。そのとき、正門越しに向こうの通りを見たが、ユーリスの姿は微塵も感じられなかった。
次の休日、リシャーナは研究棟を出て市街へと向かっていた。
仕事の時には着ない少し明るい色のワンピースに身を包んで、馴染みの花屋へと顔を出した。
「リシャーナ様いらっしゃいませ。今日も出来てますよ」
恰幅のいい女店主が、親しみのある笑顔で声をかけたあとに奥から花束を一つ抱えてきた。
白と黄色を基調とした、鮮やかだけれど、主張しすぎない柔らかな雰囲気のブーケだ。ちょうど胸にすっぽり収まる小ぶりなブーケに、ついリシャーナの顔にも笑みがのぼる。
「ありがとうございます。今日もまた素敵な花束ですね」
「リシャーナ様には贔屓にしてもらってますから! こっちも腕によりをかけましたよ!」
と、急に顔を輝かせた店主が、新しく入荷したものがあるんですよ、と軒先へと誘導する。リシャーナはまだ会計の済ませてないブーケを手に、少し困ったまま後に続いた。
ネノンや店主のように、自分の好きなものを語る人間を前にすると、こちらまで楽しくなってしまう。
軒先のバケツに入った花を前に、店主が「これなんですけどね」と口を切ったとき、リシャーナの視界を気になる影が通った。
「あれは……」
数日前に見た、フードを被った後ろ姿にリシャーナは目を吸い寄せられた。
「リシャーナ様? どうかされましたか?」
「ごめんなさい。あとで必ず取りに来ますので」
窺う店主にブーケを押しつけ、リシャーナは視線をユーリスから外さぬまま店を出た。
ここは貴族街から少し離れた、平民向けの小さな個人商店が軒を並べている通りの一つだが、道幅はさほど広くはなく、けれども利用客は意外と多い。
人の間を縫うように進み、リシャーナは小路に入ったユーリスを追った。
「ユーリス様!」
人混みを抜けたリシャーナはすぐに彼に追いついた。ユーリスが背後からの足音に気づいて振り返るときには、リシャーナはその手を掴む。
振り返ったフードの下で、緑の双眼が驚きで見開かれた。
そして、リシャーナが掴んでいるのが手首のバンドルだと気づいた途端、彼は怯えたように喉を鳴らして咄嗟に振り払った。
「いっ……!」
「あ……す、すまない」
小さな悲鳴に、ユーリスは「どこか痛めたりしてないだろうか」と、気遣うように声をかけてくる。けれど、彼の手はリシャーナに伸びる直前、怯んだように止まった。
「いえ、私のほうこそ急に声をかけたりして失礼いたしました」
頭を下げるリシャーナに、ユーリスは居心地悪そうに首を振った。
長い前髪の下から覗く若緑色が訝しむ。
「それよりも、どうして俺に声を……?」
「それは……」
どうしてと言われても――。
姿を見て、つい追いかけてきてしまっただけなのだ。どうしてかなんて、自分でもハッキリと分からない。
(ただ、放っておけない……そんなふうに思うんだけど……)
それは元婚約者という縁故だろうか。
言い淀むリシャーナは、ふとユーリスの手首にあるバングルが目についた。
(そうだ。魔法具の話が聞きたかったんだ)
顔を上げてバングルについて話をしようとしたとき、不意にユーリスの体がゆっくりと傾いた。
危ない! ――と声が出るよりも早く腕を伸ばしたが、リシャーナの手が彼を受け止めることはなかった。
ユーリスはふらつきはしたが、どうにか自分の足で持ちこたえたのだ。しかし、真っ直ぐに立てないのか、すぐそばの家の壁に手をつきながら、前屈みに項垂れる。
「ユーリス様!? 大丈夫ですか?」
慌てて屈んだところで、ユーリスには明らかに様子のおかしい顔で「大丈夫だ」と言われてしまう。
目眩を抑えるように眉間に指を置く姿に、リシャーナはある可能性に思い至った。
「もしかして魔力欠乏症では……?」
言うが早く、リシャーナは彼の手にあるバングルへと手を伸ばした。これが必要以上にユーリスの魔力を抑え込んでしまって、体に必要な魔力が供給されていないのだ。
(やっぱり! これをつけて元気でいられるはずがないと思った!)
バングルに触れて手首から外そうとしたところで、ユーリスが気づく。すると、彼は苦しみの表情の中に蒼白とした恐怖を映し、
「触るな!」
と、貴族らしからぬ大きな声で叫んだ。
途端、彼の体から瞬間的に大きな魔力が溢れ、触れていたリシャーナの指先に痺れるような痛みを生み出した。
「……いたっ!」
触れていた箇所を起点に、稲妻のような小さな電撃がリシャーナを襲ったのだ。攻撃された指先に怪我はないものの、まだじんと痺れた感覚が残り、動きが鈍い。
魔力とは、本来は本人の意志でのみ体外への放出が可能だ。
しかし、それが本人の制御を外れるときがある。一部の特殊な病例を除き、それは本人の感情が理性を越えて高まったときだ。
オルセティカが幼少の頃から魔力制御を義務化しているのも、ここに理由がある。
ちょうど五歳を超えた辺りは、体の成長に伴って成長する魔力が一際大きくなる時期で、子どものちょっとした感情変化で意図せず魔法を発動してしまう事例がある。
感情の高ぶりとともに魔力が暴走し、体内のエネルギーが無理矢理放出し続けるために、人間は正常な理性を取り戻すことが出来ない。そうなると、魔力がつきるまで周囲を攻撃してしまう。
周囲はもちろんだが、暴走した本人にも命の危険が伴うような事態になってしまうのだ。
そのため、幼少の頃から魔力を扱うことに慣れさせ、まずは暴走させないことを目標とし、万が一魔力が乱れることがあっても、己の力で正常化させることを目的とするのが幼少の義務教育である。
痛がるリシャーナを前に、ユーリスは自分のしたことが信じられないように真っ青な顔で喘いでいた。
「リ、リシャーナ伯爵令嬢……俺は、なんてことを……」
あまりの狼狽えように、わざとではないことはすぐに理解できた。なにより、欠乏状態の人間が、自分の意志で魔法を発動できるはずがない。
完全に感情が昂ったが故の一瞬の暴走だ。
(それだけバングルを外すのが嫌だったってことだよね……)
なんだか申し訳ないことをした気分になる。だが、このままではユーリスの体が危険だ。
現に、魔法を使ったせいで余計に顔色は悪くなり、彼は今にも崩れそうな体を懸命に支えている。
「ユーリス様、バングルをとるのは嫌かもしれませんが、このままではあなたの命に関わります」
リシャーナが訴えても、ユーリスは守るように腕を胸に抱き、ゆるゆると首を振った。
(命に関わるのになに言ってるの!?)
意固地な彼にリシャーナが痺れを切らし、無理矢理腕を掴もうとしたとき。
緊迫した現場に似つかわしくない、可愛らしい音がユーリスの薄い腹から聞こえてきたのだ。
「……え」
拍子抜けした声を出したリシャーナだったが、恥じるように顔を赤くしたユーリスに遅れて状況を理解した。
「お腹が空いてるのですか?」
つい訊いてしまった。
ユーリスはいっそ可哀想になるほど赤くなったり青くなったりを繰り返したが、渋りながらもようやく答えた。
「……食事をすれば、回復します」
だからあなたは気にせず――と、そこまで続いた言葉だったが、緑色の輝きが瞼でしまいこまれると同時に言葉も途切れた。
そのまま傾いた体をリシャーナは胸で抱き留め、助けを求めるべく誰もいない小路を見渡した。
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