第5話
学生たちの人ごみを尻目に、リシャーナは教職員用の食堂の隅でひっそりと昼食を終えた。
本の入った鞄を手に食堂を出ようとしたところで、背後から潜めた声が偶然耳に入った。
「ほら、あれだよ。伯爵家のご令嬢なのに研究者やってるって噂の」
「ああ……女性の研究者ってだけで珍しいのに、貴族だもんな」
きっと本人に聞こえているなんて思いもしない、そんな小さな声だ。リシャーナは動揺もせず、振り切るように廊下に出た。
魔法学園の教職員の過半数は平民である。講義を受け持つ教師は、ふんだんな教育を受けた貴族であることがほとんどだが、その裏方の事務員は可能な限り平民から雇用している。
彼らの言葉に悪意はなかったので、きっと平民の出身者であろう。
昔に比べれば職業の選択の自由が生まれ始めているが、妙齢の貴族令嬢が学園で研究者をしているのが不思議なのだ。
これが質の悪い貴族相手だったり、同じ研究者の平民出身者だと、もう少し正気を疑うような悪意が入り交じる。
自然と早足になっていたことに気づき、リシャーナはそっと足取りを緩めた。背筋はいつも通りピンと張り、優雅な余裕のある足の運びを意識する。
頭のてっぺんから足の指先まで、気を張り詰めて貴族の仮面を被る。
(矛盾してるとは、自分でも分かってるけどね……)
この世界の異物である自分が受け入れられるためには、貴族らしくあらねばならないと常々思っている。けれど、リシャーナは家に戻ることもせず、こうして研究者の道を選んでいる。
矛盾しているが、これはリシャーナにとっての譲れない一つの境界線だった。
屋根のついた渡り廊下を通り抜け、リシャーナは図書館へとやって来た。
学生たちが講義を受ける講義棟と隣接して建てられた図書館は、オルセティカ国内でも随一の蔵書数を誇るもので、学園内では一番その高い建造物である。
入り口には特殊な魔法術式が刻まれた魔法具が置かれており、そこに研究者としての身分証をかざすと独りでに扉が開く。
正面にある受付には、肩までの赤髪を後頭部で乱雑にバレッタでまとめた女性がカウンターで忙しく動いていた。
丸い眼鏡をかけた彼女は、入ってきたリシャーナを認めると、ニヤリと大きく笑う。
「あら、
「ええ、そうですわ。こちら全て返却でお願いします。
語尾を上げ、つんとすました顔で本を差し出すと、ネノン・インシュールは途端に弾けるように笑い出した。
「あはは、リシャーナごめんなさい。そんなよそよそしく呼ばないでよ」
「最初にそういう対応を求めたのはあなたでしょう? それに、私たちはもう学生ではありませんから……節度を持って接するべきかと」
すました顔のまま続けると、ネノンは本を受け取りながら「ごめんてばあ」と弱った声を上げた。
彼女の声に友人への甘えを感じ取ったリシャーナは、ふっと表情を崩す。
「私のほうが意地悪しすぎたわね。ごめんなさい……それと、管理官見習い卒業おめでとう」
「いやあ、無事に正職員として契約できたから良かったよ。ダメだったら実家に帰って嫁がなきゃだったし」
ネノンは、自身の赤髪を掻き上げて哄笑した。その拍子に後ろでとめていたバレッタが外れ、床と硬い音を立てた。
慌てて拾い上げるネノンを見ながら、リシャーナは相変わらずだなと肩の力を抜く。
男爵家の出自であるネノンは、貴族の子女にしては珍しく、自身で学びたいと志願して高等部に入学したものだ。
ただでさえ女性は少なく、そのほとんどは家の義務として通う高位貴族の子女ばかり。そんななか、ネノンの存在はリシャーナにとってありがたかった。
いつだって人の目など気にせず本を読みふける姿が、椎名と似ていたというのも心が安らぐ要因の一つかもしれない。
大半の貴族令嬢が髪を伸ばして身なりを整えるなか、彼女だけは本を読むのに邪魔だからと言う理由だけでその鮮やかな赤髪を短く切りそろえ、あろうことかバレッタで無造作にとめていた。
そして考え込んだり、ふとした拍子に髪をかき混ぜる癖があるので、その度にバレッタを落としては慌ただしくしている。
彼女が高等部の在学中に壊したバレッタの数が両手の指で収まりきらないことを、リシャーナはよく知っていた。
領地を出ての高等部の入学すら反対されたと言っていた彼女は、本来であれば卒業後は家のためにどこかの子息と結婚するはずだったが、そこで本に携わる仕事がしたかったネノンが猛反発。
結局その熱意に負けた両親が、魔法学園の職員ならば――という限定的な条件で許可を出して今に至るのだ。
学園であれば安全も十分に確保されるし、生徒や職員には貴族が多くいる。そこで出会いでもあれば万々歳という親の欲が見え隠れしているが、ネノンにとっては気にするほどのことではないらしい。
親の説得のため、彼女が実家と寮との往復生活で苦労していたのを知っている身としては、こうして報われたのは素直に喜ばしい。と同時に、ほのかな恨めしさが出てきてしまうのだ。
(勝手に相手を見つけてきて婚約まで済ませない分、ネノンの家は優しいよね……)
リシャーナは、初等教育を受ける七歳の頃には顔も知らない伯爵家の子息との婚約が決まっていた身だ。
男爵家と伯爵家という家格の違いがある以上、自分たちの境遇に差が出るのは致し方ないことなのかもしれない。けれど、同じ貴族の子女という立場にもかかわらず、両親とぶつかりながらも最終的には認められて自分の人生を歩むネノンの姿が、リシャーナにはひときわ眩しく、そして嫉妬と羨望を抱かせる。
「はい。じゃあ本はお預かりしますね。今日はなにか借りていく? リシャーナの興味ありそうな本が新しく入ってきてるよ」
案内しようか? とうずうずした様子のネノンに、リシャーナは首を振った。
「いいえ。今日は返却だけで大丈夫です。今度またお願いします」
「そっかー……まあ研究者は経費でいくらでも本買えるもんね」
「ネノン。あくまで国の予算ですから……必要なものの見極めは大事です」
研究者の立場であるリシャーナは、研究に必要な本や実験器具などはすべて国の補助で手に入れることが出来る。確かに研究者の中には片っ端から買い漁るような人もいるが、リシャーナはそれをするのはどうにも気が引けてしまう。
自分のお金じゃないからだろうか。ある程度ならば助かると思って許容できるが、度を超すと申し訳なさが先立つ。
そのため図書館に所蔵されている本であれば、まず下見をしてから申請するようにしていた。
生真面目リシャーナの言葉を、ネノンは大きく嘆いた。
「相変わらずしっかりしてるなあ、リシャーナは。私だったら読みたい本はどんどん買い込んじゃうもん」
そこでほかの利用者が現れたので、リシャーナとネノンは目配せで挨拶を済ませて別れた。
(そういえば、どうしてお母様たちは研究者の道を許してくれたのかしら……)
当時は許しを得られた安堵でいっぱいだったが、よく考えればよく許可したものだと思う。
国のためだなんだと大義名分をつらつらと並べ立てたからだろうか。
(それとも婚約が上手くいかなかったのを気遣ってるのかな……)
七歳の頃から同じ伯爵家と婚約していたリシャーナだったが、高等部二年にあがったばかりの秋口のころ、相手のザインロイツ家から一方的な婚約破棄の申し出を受けた。
もちろん相応の理由もなく婚約の解消など出来るわけがない。
父と母は突然だった申し出に怒り、それ相応の理由があるのかとザインロイツ伯爵と夫人を問いただしたが、彼らは深く頭を下げて詫びの言葉を残すばかりで、理由に関しては頑なに口を閉ざしていたという。
最終的には両親も受け入れ、その年の冬には正式に婚約の解消がなされ、リシャーナは晴れて身軽になった。
リシャーナの内心の晴れ晴れしさとは裏腹に、両親は手紙越しではあったものの、心底申し訳なさそうにしていた。
あの時のことが尾を引いて、いまだリシャーナに結婚の話をするのを躊躇っているのかもしれない。
(私からすると嬉しかったぐらいなんだけどな……)
特別相手に不満はなかった。かといって、結婚したいと思うような好意もなかった。
一年の中で、お互いの誕生パーティーぐらいでしか顔を合わせない彼のことを、リシャーナは結局ほとんど知らないままだった。
品のある美しさを持った、目鼻立ちの整った人だった。礼儀とばかりに義務づけられたダンスでは、いつもパートナーを組むのが気が引けた者だ。
しかし、貴族というのはときに私兵を率いて領民の安全を守るために魔獣の討伐に臨まねばならないときもある。
魔獣とは、獣のなかでも魔力を多く持ち、魔法を扱うことの出来る危険な生物のことをさす。
そのため貴族の――とくに家を継ぐことが決まっている嫡男の多くは、騎士のようにある程度体や魔術を極めるものだ。そのため鍛えたられた逞しい体を持つことが多い。
しかし彼は、比較的華奢なほうだった。さすがにリシャーナよりは厚みのある体をしていたが、とても私兵を率いて戦えるようには見えない。陽の光を浴びたことがないような白い肌が、余計に彼の美しさを際立たせる代わりに、弱々しく見せていたのだと思う。
物静かな人で口数は多くはなかったが、逆にその静けさが彼の品のある優しげな美貌によく似合っていたと思う。
(そういえば、五月の若々しい緑のような、そんな綺麗な眼をしていたっけ……)
その美しさと、貴族然とした振る舞いや優雅な笑みに気後れしていたリシャーナだったが、その深い緑の双眸には、よく目を奪われていた。
久しぶりに元婚約者を思い耽りながら、事務棟を突っ切って研究棟へと向かう最中。
「リシャーナ!」
不意に背後から呼ばれ、リシャーナはドキリとして立ち止まった。
聞き覚えのある声に、心臓の熱がすっと冷えていくようだ。おずおずと振り返ると、やはり想像通りの少女の姿が見える。色の濃い
「リシャーナ久しぶり! 卒業してからだから、三ヶ月ぶりぐらいかしら」
「ええ、サニーラ……お久しぶりです」
呼びかけると、サニーラは嬉しそうにその薄い桃色の唇に微笑みをのせた。
控えめに垂れた琥珀色の瞳は彼女の心根の優しさを醸し出し、今は旧友と再会を喜んでいた。
サニーラは、つい最近までリシャーナやネノンとともに高等部に通っていた同級生だ。
元々は平民の出で、その魔力を買われて男爵家の養子に入った彼女は、ほかの令嬢たちとは馴染めなかったのだろう。サニーラはリシャーナやネノンとともに過ごすことが多かった。
なにより、彼女こそがこの世界の主人公であり、ヒロインである。
「医療班での活躍、かねがね聞き及んでいます」
胸に手を当てて敬愛を示すべく頭を傾ければ、慌てた様子でサニーラが制止をかけた。
「やだ、リシャーナってば! そんなふうに頭を下げたりしないで……あなたにそんなことをされたら、私のほうがもっと低く頭を下げなきゃいけなくなっちゃう」
「ですが、この三ヶ月だけでもあなたの噂はよくうかがいます。まだ研究成果も出せていない私が敬意を示すのは当然です」
オルセティカは今は他国との戦争もなく、平和で安定した統治がされているが、魔獣の被害というのは決してなくならない。
騎士団は、国に従属するものと、その領地の貴族に仕えるものの二種類がある。
その中で、さらに王族や貴族の身辺を守る近衛隊、市内の治安維持に努める警備隊、そして魔獣の討伐を主とする討伐隊が存在する。それ以外の医療班や整備班、情報班などはまとめて支援隊としてひとくくりにされることが多い。
そして、その中で死者や負傷がでるのは討伐隊だ。
一度魔獣の討伐に出れば、死者がゼロということはあり得ない。それほど危険なものだ。
そんななか、サニーラのその膨大な魔力と医療魔法で、どれだけの人が救われることか。
すでに聞き届いている活躍と、これからの将来性を考えれば、自然と頭は下がるものだ。
しかし、悲しそうな表情で慌てるサニーラを前にすると、やりすぎたかと少し反省する。
元の姿勢に戻って向き合えば、途端にサニーラはほっと肩を落とした。そして、胸の前で手を結ぶ。
「平民の私からこんなことを言うなんて失礼だって分かってる……けど、学園は階級格差なくみな平等、が主義。高等部に入ったばかりの私にかしこまらないでと言ってくれたのはあなたでしょう?」
言いながら、サニーラは頬の染めた不安顔でちらりとリシャーナを窺った。
「ゆ、友人のあなたに、そんな態度をとられるのは淋しいわ」
言い切った琥珀の双眸が、ぐっと力強くリシャーナの碧眼を突き刺す。
真っ直ぐに自分に向かってくるその視線をどこか居心地悪く思いつつ、リシャーナはそっと微笑んだ。
「……そうよねサニーラ。ごめんなさい。ただ、あなたの活躍に敬意を持っているのは本当よ」
そこだけは誤解して欲しくなくてつけ加えると、今度はサニーラが珍しく自嘲的に口の端を上げた。
「活躍っていっても、ただ人より多い魔力が少し役に立ってるだけ……私、自分の力はもっと役に立てると思っていたのに……」
愛らしい雰囲気とはかけ離れた苦い顔で、彼女は自身の利き手をぎゅっと強く握りしめた。その横顔は、悔しいと思っていることがよく分かる。
「……なにかあったの?」
「この前初めて討伐に駆り出されたの……実戦は私が思っていたよりもずっと過酷だった」
人が簡単に傷つき、支援部隊はその補助で走り回る。
その現場を前に、サニーラは圧倒されたらしい。
「今ね、週に一度高等部で医療魔法について教えてるの」
今日もその帰りなのだと、彼女は少し明るくした顔で手元の教材を見せた。
「すごいじゃない。医療魔法の教諭だなんて」
「私が一番能力が高いからって……それをもっとたくさんの人に教えて欲しいって言われて引き受けたの。みんなの医療魔法の効率や性能が上がれば、もっとたくさんの人を救えると私も思ったから」
未来の希望を見るように、サニーラは琥珀の瞳をきらめかせた。それをリシャーナが眩しく思ったのも束の間、彼女の顔色が曇る。
「でも、上手く説明できなくて……」
沈んだ様子のサニーラの言葉に、リシャーナも思う。
(医療魔法かあ……難しい分野だよね……)
魔力は生きていく上での必須の生命エネルギーであり、体中に満ちているものだ。体に傷を負ったり、病気にかかったとき、魔力に働きかけて修復を促して完治させることを医療魔法と呼ぶ。
医療魔法は、使い手が少ないことで有名な魔法だ。
まず、これは全ての魔法を使う者に共通することだが、生命活動以外に魔力を回す余裕がある者であること。つまり、魔力の保有量が多い者。
そして、傷を癒やしたり病気の治癒をするための、繊細で緻密な魔力のコントロールが出来る者だ。ここで大半の者がふるい落とされることになる。
自分自身に医療魔法を使うことが出来る者は、騎士団の実働部隊でもときおり見かける。だが、他者に対して医療魔法を施すことが出来る者は、ぐんと数を減らす。
一人一人の魔力は、固有のものであり全く同一であるということはあり得ない。
他者の傷を治癒しようとするとき、治癒者の魔力を負傷者に注いで治療に当たる。その際、治癒者の魔力は負傷者にとっては異物と判定され、上手く馴染ませることが出来なければ、逆に負傷者の魔力を乱すことに繋がり、結果として命を縮めることになるのだ。
上手く馴染ませることに成功しても、己と相手の魔力が混ざった中で、正確に自身の魔力だけを使用して傷口の再生を促さなければならない。
そのため、たった一人を治療するのに医療魔法の使い手は、精神も、時間も、体力も消耗する。
だからこそ、少数の医療班員では、多数の負傷者を全て治癒することは出来ないのだ。
(そんな中で現れた奇跡のような存在……)
それがサニーラだった。
他者へいくら流したところでなくならない膨大な魔力。そして、いともたやすく行われる繊細なコントロール。なにより彼女が優れているのは、その魔力が他者の体へなんなく馴染んでしまうことだろう。
そのためにサニーラは、時間も精神も消耗することなく、比較的短い時間で多くの負傷者を治療することが出来るのだ。
ゲームの中では、その献身的な姿と神のような御業で、彼女はいつしか「聖女」と呼ばれるようになっていた。
(そんなヒロインでも、こんなふうに悩んだりするんだ……)
そう思って、でも主人公なんだから悩んで前に進むのが定番なのかと思い直す。リシャーナがそんなことを考えていると、落ち込んでいたサニーラはハッとした様子で笑顔を作って見せた。
「魔力って感覚的なことだから難しいし、どうして私の魔力だけ馴染むのかなんて私にも分からなくて……」
早口で告げたサニーラは、でも――と力強い声で続けた。
「これが誰かの助けになるんだもん。もっと頑張ってみる!」
暗いこと言ってごめんね、と笑うサニーラを前に、リシャーナは感慨深く思った。
(これがヒロインが愛される理由なのかな……)
いつだって前向きで一生懸命で、決して諦めない愛らしい女の子。その少女然とした明るさは、どことなく妹の鈴を思い出させ、不意にリシャーナを泣きたい気持ちにさせた。
「サニーラなら大丈夫よ。自信を持って」
「ありがとう。でも、リシャーナも魔力の研究頑張っててすごいわ! 以前見せてくれた試作品だって私ビックリしちゃったもの!」
「もしかして、魔力抑制装置のことでしょうか?」
思い当たる節を零せば、サニーラは琥珀色の虹彩をキラキラと輝かせて身を乗り出した。
「そう! 患者の魔力を安全に最小限に抑えることが出来れば、治癒者の魔力への反発も少なくなるし、自分の魔力を操作しやすくなるでしょ! きっと回復魔法の大きな進歩になると思うの!」
興奮した様子で語るサニーラに、リシャーナは素直に喜ぶことが出来なかった。嬉しいような、申し訳ないような……そんな複雑な心持ちになる。
あの試作品は失敗に終わっており、実用にはほど遠いのだ。それに、いまだ改良のための糸口はつかめていない。
正面から素直に言うのも気が引けてしまったリシャーナは、どうにか一言振り絞った。
「……いつか実用出来るように頑張りますね」
「ええ、楽しみに待ってる!」
サニーラの笑みがあまりに輝かしくて、リシャーナはチクリと罪悪感を刺激された。
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