第3話



 リシャーナ・ハルゼラインには、このオルセティカ王国の伯爵家に生まれ落ちる前の人生が存在した。

 そこには貴族や平民なんていう階級差は存在せず、魔法や魔力といった不可思議な力も存在しない――そんな日本で十八年間生きた、少女の人生だ。

 そこでは糸田清花と名を受け、両親と五つ下の妹とともに二階建ての住宅に暮らしていた。

 ハルゼラインの邸は、住んでいたリシャーナでさえ部屋数を把握しきれないほどに大きな家だったが、それに比べて糸田の家はひっそりとしたものだ。

 姉妹には一つずつ部屋を与えられていたが、リシャーナが今暮らしている寄宿の寝室よりも幾分も狭い。よく考えると、オルセティカで生を受けてから、リシャーナは前世の自身の部屋より狭いところにいったことがないかもしれない。

 あったとしても、移動に使う馬車程度だろうか。

 実家の敷地は邸から見渡す限りがハルゼラインのもので、与えられる衣服も食事も、全てが厳選された最高級のもの。

 欲しいものはほとんどが手に入るし、決して生活に困ることはない。

 それでも日本での生活が恋しく淋しく思えるのは、糸田清花として生きていたリシャーナが根っからの貴族ではないからだろうか。

(ハッキリと覚醒する前は、こうじゃなかった気もする……)

 寄宿を出て研究室に向かう途中、リシャーナはふと思い返す。

 物心がつくまでのリシャーナは、ずいぶんとぼんやりした子どもだった。

 幼い体はしっかりとオルセティカで生きているが、意識の半分は日本での記憶を辿っていたからだ。目を開けて夢を見ている心地に近かったと思う。

 意識がハッキリとしたのは五歳の頃だ。

 夢うつつに記憶を辿りつつも、年相応の子供であったリシャーナは、それなりに両親たちに甘えて過ごしていた。

 ときには愛情を試すように、可愛らしい我が儘を言って困らせたものだ。

 きっと突然失った糸田の家族たちの愛情を、今世の両親で埋めようとしていたのかもしれないと後になって思う。

 ハルゼラインの両親は、微笑ましそうになんでも頷いてきいてくれた。

 きっとリシャーナのワガママが、軽くこなしてしまえるものだったというのもあるだろうが、幼い娘を愛していたからだとも思う。おぼろげながら覚えている両親の表情は、いつだって柔らかく微笑んでリシャーナを見つめていたから。

 しかし、その考えが引っくり返されたのは、リシャーナの伯爵家の令嬢としての教育が始まったあとのことだ。

 五歳の誕生日を過ぎた春のことだった。家庭教師ガヴァネスを出迎えたとき、春の温もりを含む風に心地良さを覚えたので間違いない。

 簡単な読み書きや計算から始まり、魔力や魔法に関する基礎知識など。そして令嬢の教育は花嫁修業の一貫でもあったので、刺繍などといった嗜みまで。

 そして、なにより大事なものが貴族に相応しい礼儀作法と貴族として生きていく上でのその心意気や姿勢。

 目上の者には敬意を。下の者には愛情を。

 貴族という尊き血のもとに生まれたならば、決して誰にも弱みや未熟なところを見せてはならず、常に気高く、正しくあらねばならない。

 持てる者としての責任を理解し、持たざる者には施しを与えるべし。しかし、傲慢になるべからず。謙虚な心を忘れず、けれど決して持てる者であるという誇りを忘れず、弱き者を助けるべし。

 何度も何度も暗唱を繰り返した、その貴族の信念はリシャーナは簡単にそらんじることが出来る。

 けれど、どれだけ頭に刻み込もうと、心が変わってくれるものでもない。

 読み書きも計算も、はたまた前世にはなかった魔力や魔法といった概念の勉強も、リシャーナはそれほど苦もなくやりこなした。

 けれど、貴族の礼儀や誇りといったところになると、てんで違和感をもってしまってダメなのだ。

 誰にも――それこそ家族にでさえ弱みを見せてはいけないなんて、そんなことってあるだろうか?

 令嬢として生まれたならば、子を産み、血を繋がなくてはならないなんて、そんなことってあるだろうか?

 なにがあっても余裕を持った笑みで堂々としていなければならないなんて、そんことってあるだろうか?

 もやもやと名状しがたい違和感が、ふつふつと幼い胸のなかに積もっていった。

 そして、家族とでさえくつろぐことのできぬ関係に、言いようのない淋しさや恐怖を感じたのだ。

 幼いリシャーナは、授業を見守っていた母と眼の前の家庭教師に向かってぽつりと言った。

 リシャーナからすると、いつものわがままの延長だった。

「私、おうちを出て誰かと結婚するなんて嫌。ずっとお母さまとお父さまと一緒にいたい!」

 だからこんなお勉強やめちゃおうかなあ。

 本気じゃなかった。けれど、あまりに糸田清花自分の中の常識と違うものが降りかかってくるものだから、怖くなったのだ。

 ――まあリシャーナ。可愛いことを言って。でも、これはお勉強なんだからちゃんとやらないとダメよ。

 これらはあくまで勉強として、知識として頭に入れておかなければならないこと。そう思えたら、安心できると思ったのだ。

 きっといつもみたいに、母は困ったように……けれど愛情の隠しきれない笑みで答えるはずだ。

 そう思っていたリシャーナの考えを裏切るように、母はつり目がちの瞳を瞬時に眇め、感情のない顔でリシャーナを見下ろした。

 澄んだグレーの瞳に浮かぶ庇護欲や愛情といった温かな感情が、一瞬で消えていくのを目の当たりにしたリシャーナは息を飲んだ。

(あ、これダメなやつだ……)

 遠い記憶の中、これとよく似た瞳を向けられた、学校での風景が脳裏をよぎった。

 途端、喉が痙攣したように震えだした。

「……おかあさま」

「リシャーナ、私たちハルゼラインの生活がどう成り立っているのか知っていますね?」

「……りょ、領民たちからの税金です」

「そうです。私たちはこの領地を治め、平民のように労働せずとも金銭を得て豊かな生活が出来ます。なにより、この地は由緒正しきハルゼライン家が代々治めてきた地です」

 淡々の述べる母の声は、冷たく聞こえるほどに平坦だった。

 これが諭すような優しさ含む響きであれば、まだリシャーナは平静を保っていられただろう。

「ハルゼラインの家に生まれたあなたは、ほかの貴族と番い、その血を繋いでいかねばなりません。私たちは貴族です。その身は、この領地のために。家のために使うものです。お前の兄テシャルが家を継ぐように、リシャーナ。お前にとってはそれが貴族としての務めなのです」

 そこで母は一歩、リシャーナとの距離を詰めた。普段ならば腰を折って目線を合わせてくれる母は、ぴんと伸びた美しい姿勢のまま、リシャーナに戒告した。

「その務めを放棄するというのならば、お前はハルゼラインを名乗る資格はありません。出てお行きなさい」

 微塵の揺らぎもなく、母は言い切った。

 その佇まいは凛と美しく、貴族とはかくあるべきということをリシャーナに突きつけてくる。

 リシャーナはふと助けを求めるように、一歩下がったところにいた家庭教師を見た。

 けれど、彼女は母を静止することも、リシャーナを心配そうに見やることもない。

 まるで母の弁舌に聞き惚れるように眼を伏せ、その口許には誇らしいとばかりに笑みが乗っていた。

 途端に、リシャーナの背筋が粟立った。

 この人たちは本気なのだ。本当にこれが正しいと、誇らしいことだと、一縷いちるの疑念もなくそう信じているのだ。

 ゾワリと幼い肌を撫でたのは、理解できないものと相対した気味の悪さと恐怖だった。

 恐怖で竦む足が、今にも崩れそうだった。

 けれど、それをしたら今度こそ自分は見放されるのではないかと思うと、震える足を叱咤して立っているしかなかった。

 習ったばかりの作法を頭の中で必死に反芻し、出来るだけ優雅に、貴族らしく見えるようにリシャーナは頭を下げた。

「お母さま、申し訳ありませんでした。私が間違っておりました」

 そこでようやく母は血の通った笑みで応えた。

「いいのよリシャーナ。あなたはまだ子供だもの。これからきちんと貴族としての責任を感じていけばいいのよ」

 ──いいえ、お母さま。私は子供だから分からないのではないのです。

 頭の中で密かに返し、リシャーナは小さな心を恐怖で震わせていた。

 冷ややかな視線と、愛情のない冷えきった声。

 それを浴びた瞬間に、リシャーナの今世での意識は、ハッキリと覚醒したのだ。

 愛しているはずの娘でさえ、貴族としてあるまじきものだと思えば、一瞬で情もなにもかも捨てることが出来る。それがこの人たちには当たり前なのだ。これが、貴族というものなのだ。

(それなら、もし私が貴族じゃないと知れたのなら……)

 その先の考えに行き着く前に、学園から帰省していた兄に手を引かれて、リシャーナはされるがまま母たちのいる部屋を出た。

 


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