第39話 打ち砕かれた野望
貴族院議長ベルトラム・オービルの執務室には、満ち足りた雰囲気が漂っていた。窓辺には昼間から豪勢な酒が並べられ、既に何杯かが空いている。
ベルトラムは重厚な椅子にふんぞり返り、得意気な笑みを浮かべていた。その弟であるエルドラド男爵の興奮に満ちた声が足元から響いていた。
「兄上、あのアリシア・フォン・ラインハルトが、私との縁談を進めるというのは本当でしょうか?」
エルドラドは兄とそっくりの、丸々とした体型をした男だ。脂ぎった手で嬉々として問いかける弟に、ベルトラムは気味の悪い笑みを浮かべた。
「ああ、私が手を尽くして彼女に縁談を飲ませたから間違いない。もうすぐラインハルト家の使者がここへ到着するらしい。きっと良い返事を持ってきただろう」
酒も入り上機嫌のエルドラド男爵は、上ずる声で歓喜した。
「先日の社交界に初めて登場したアリシア嬢は噂以上に美しかったと評判になっていましてな。あのじゃじゃ馬を、私が思うがままにできるとは、この上なき至福ですぞ!」
ベルトラムは喜ぶ弟の言葉にうなずき、薄笑いを浮かべる。
「これで我が一族は帝国との国境にまで勢力を伸ばすことになる。そうなれば、我が影響力もさらに強まることだろう。さすれば……もう私に楯突ける貴族はおらん。たとえグレイスフィールド伯爵家であってもな」
そのとき、執務室の扉がノックされ、ベルトラムの執事が入室してきた。
「ベルトラム・オービル議長、ラインハルト家からの使者が到着いたしました」
「ほう、早速か。やはり、縁談を受け入れる返事に違いない」
ベルトラムは満面の笑みを浮かべたが、次の執事の言葉でその笑みが凍りついた。
「それが……使者は直接こちらに来るのではなく、外交の責任者であるセバスチャン様のもとへ向かいました」
ベルトラムの顔が険しくなり、目を鋭く光らせた。
「なぜだ!使者は私のもとに来るべきだろう。セバスチャンになんの関係があるのだ!」
執事は一瞬躊躇したものの、「それがどうやら……」かいつまんで答えると、ベルトラムの激昂を恐れるかのようにすぐに退室した。
ベルトラムは怒りに震え、しばしの沈黙の後、立ち上がるとそのまま廊下へと出た。弟のエルドラドが「兄上、どこへ?」と声をかけるも、彼は無視して廊下を進み、セバスチャンがいるという会議室へと向かった。
その部屋の前に立つと、怒りのあまり扉を強く開け放った。
「セバスチャン!これは一体どういうことだ!なぜラインハルト家の使者が、貴様の元にいるのだ?アリシア嬢の縁談は、我が弟エルドラドと進めるはずではなかったのか?」
対するセバスチャンは、いつもの冷静な面持ちで、ベルトラムに対して軽く頭を下げただけだった。
「おや、ベルトラム議長。どうやら勘違いをされているようですね」
「勘違いだと?」
ベルトラムは激昂したまま、セバスチャンに詰め寄った。
「はい。ラインハルト家からの使者の報告によれば、今回の報告はアリシア・フォン・ラインハルト嬢と、帝国の貴族アレクセイ・フォン・ルーベンス侯爵の婚約についてのものです。これは王国と帝国双方にとって重要な外交案件であり、私が受け取るべき事項です」
「な、何だと!?あのアリシアが……帝国人と?ありえないだろ。しかもルーベンス家はリストにないはずだ!そもそも我が弟の婚約者になるはずではなかったのか!」
ベルトラムは青ざめた顔で叫んだが、セバスチャンは冷静に、ふっと微笑みを浮かべた。
「そもそも、エルドラド男爵とアリシア令嬢の縁談はすでに破談になっているはずです。……飲みすぎで記憶を失ったのですかな?」
セバスチャンはベルトラムの腹に視線を移し、まるで嘲笑するかのように微笑を浮かべた。
ベルトラムはその表情にますます怒りを募らせ、何か言い返そうとするが、セバスチャンは冷静に「では失礼します」と一礼し、その場を去っていった。
その背中を見送りながら、ベルトラムは悔しさに唇を強く噛みしめ、血が滲むほど口元を歪ませていた。怒りと憎悪に満ちた表情が浮かび上がり、全身が怒りで震えているのがはっきりと見て取れた。
その時、背後から弟のエルドラドが泣き叫びながら掴みかかってきた。
「兄上!一体どういうことなのですか!アリシア嬢が私の手に入るはずだったのではないですか!」
エルドラドは泣きじゃくりながら、ベルトラムに縋りついた。しかし、ベルトラムは振り払うように弟を払いのけ、冷たい視線を向けた。
「うるさい!すべてを台無しにした者がいる!泣きたいのはこっちだ!」
そう叫ぶと、ベルトラムは荒々しく執務室へと戻っていった。
「これで4度目だ、またしても私の息のかかった縁談が反故にされた。しかも、すべてがグレイスフィールドに有利な盤面になっているではないか!」
——ベルトラムは考える。セバスチャンの動きは間者まで送り常に監視している。奴が縁談に関する動きに関わっている気配はない。であれば誰が?何者なのだ?とんでもない知謀を持った策士が裏で動いているはずだ。
「誰の仕業か知らぬが、必ず突き止めて、息の根を止めてやる」
同じ頃、王宮の別の部屋では使者から報告を受け終えたセバスチャンが、目を見開きながら微笑みを浮かべ、両手を広げて天を仰いだ。
「ああ、セレーナ……まさかこの縁談を本当に成し遂げるとは!君の才覚には驚嘆するばかりだ」
セバスチャンは静かに吐息を漏らし、窓越しに広がる王宮の中庭へと視線を移した。陽光が降り注ぐ庭園を見つめるその眼差しには、敬意と共に鋭い策謀家の閃きが宿っている。
「君がここまで盤面を動かすとは思わなかったよ……ずっとこの瞬間を待っていたのだ。今こそ、あの計画を実行に移す時がきた」
彼の口元には、次なる一手を思案する冷笑が浮かんでいた。
一方で、アリシアとアレクセイの縁談を別の場所で知った仮面の騎士、ヨージは、思いがけない報せを聞いて握りしめた拳には、かすかな震えが伝わっていた。
「どういうことだ!話が違うぞセバスチャン……まさか、あの野郎俺を裏切ったのか」
マスクにこもった彼の低い声は、怒りに震えていた。
セレーナを中心に成し遂げられたこの「成婚」が、王宮に次なる波乱の幕を開けることになろうとしていた。
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