第二十話 提案
教会にミケーレが戻ってきたのは、九時も近かった。
開け放たれた大扉から、ぞろぞろと大勢の人が出てくる。ミサが終わったのだろう。
しかし、出てくる人たちを眺めていると、その男女比は、圧倒的に男性が多かった。年齢も比較的、若い。蕩けるような顔をした者も少なくなかった。その中には女性もいた。そんな、普段から神や教義を信仰しているのか、疑わしそうな人物たちが多く含まれていたのだ。
マリアの所為である。
今週のミサは臨時で美人のシスターが行う――という情報がSNSなどで飛び交ったらしい。彼らのお目当てはマリアというわけだ。
やがて、当のマリアが最後の人を見送りながら、扉の所まで出てきた。
その様子を見ていたミケーレに気付き、労いの言葉を掛けた。
「お疲れ様。沙月はどう?」
「出てくる時は、眠ってた」
「そう」
「説教は終わったのか?」
「ええ」
「盛況だったみたいだな」
「そうかしら。いつも、こんなものよ?」
マリアが小首を傾げた。何気ない仕草がとても愛らしい。それを見たミケーレが、ふっと微笑みながら答えた。
「それはお前さんだからだよ」
「ん?」
マリアが魅惑的な微笑を湛えて言う。
「人徳じゃない?」
「まあ、そういうことにしておこうか」
ミケーレの返答に、柔らかく微笑む。
マリアの金色の髪が、僅かにそよ吹く風に揺れていた。朝の陽射しに金色の髪が煌めいて、天使と見紛うばかりだ。こんな微笑で説教されれば、誰もが教義を守る気になるだろうし、若い男連中ならば呆けてしまうだろう。
そこまで話をして、ミケーレはマリアが頭衣を付けていないのに気付いた。
「そういや、頭衣はいいのか?」
「いいのよ。私の座右の銘は、〝臨機応変〟なんだから」
「気が合うな。俺の座右の銘は〝行き当たりばったり〟なんだ」
「……。まあ、いいわ。朝食にしましょうか」
本気とも冗談ともつかぬミケーレの言葉に、マリアは一瞬の沈黙の後、微笑みながら、そう言って、奥へと戻った。それを見たミケーレは、柔らかくなったもんだ――と胸の内で呟きながら、マリアの後を追った。
「はい、どうぞ」
テーブルに、カフェ・ラッテを淹れたカップを置きながら、マリアが言った。宿舎のテーブルには、
「ああ、ありがとう」
ミケーレが感謝の言葉を述べた。小皿にクロワッサンを取り分け、バターに手を伸ばす。マリアも席に着くとクロワッサンを取り、リンゴを手にすると果物ナイフで皮を剥き始めた。手際よく皮を剥くと四つに切り分けて芯を取り、小皿に載せて楊枝を刺した。
「はい、これも」
「お? おお」
バターを塗ったクロワッサンを咥えながら、ミケーレが頷いた。意外にも子供っぽい仕草に、マリアが顔を綻ばせる。真似をするように、マリアもジャムをクロワッサンに挿み込み、大きな口を開けて食べた。こんな美味しい朝食は久しぶりだった。
「ん、美味しい」
と、マリアは嬉しそうに、口にした。
宿舎のドアの取っ手が音も立てずに回るのと、二人がそちらへ向くのとは、ほぼ同時であった。食事の手を止め、ドアを見つめる二人の前に、静かに姿を見せたのは、全高四十センチメートルほどの、碧い瞳と金の髪をした、紅いドレスを纏う小さな人影。
〝人形使い〟が連れていた洋人形であった。
「〝人形使い〟の人形か。〝お使い〟……かな」
「何か、御用かしら?」
ミケーレの呟きを受けて、マリアが油断なく、洋人形に問いかけた。
「初めまして、シスター。そちらの方とは二度目ね」
紅色の唇から零れるのは、愛らしい声だった。その人形はドレスの裾を摘まむや、優雅に一礼して見せた。にこりと微笑む顔も美しい。
ミケーレは食べかけのクロワッサンの残りを口に入れた。しばらく、むぐむぐとやった後、カフェ・ラッテで流し込む。そうして、
「ほう」
と、感心したように唸った。
思っていたよりも出来がいい。人形使いがわざわざ連れている洋人形だから、これが武器であろう――と、かつて二人は予想した。
肩に載せるだけの愛玩用ではないだろう――と。
逆に言えば、見た目はともかく、中身は無骨な造りなのではないかと想像していたのだ。
それが〝お使い〟とはいえ、単独行動をとり、あまつさえ状況を自己判断出来るとは意外であった。
「なかなかに出来がいいな。他には何が出来るのかねえ?」
洋人形の正面に向かって座り直し、腕を組んだミケーレは片方の手を顎にやり、意味深長に呟いた。洋人形は、こちらも含みを持たせた微笑を浮かべ、
「さあ? どうでしょうね」
と、返した。その言い方と雰囲気からすると、まだ何かありそうだ。
「……で? 結局、何の用なの?」
大きな吐息を吐いて、マリアが先を促すように問いかけた。痺れを切らせたわけでもないが、本題から話が逸れそうだったので、口を挿んだのだ。
「ああ、そうだったわね」
洋人形が勿体を付けて、マリアを見た。どこか、対抗心を持っているかのような対応である。笑顔ではあるが、眼が笑っていない。マリアを煽っているようにも見えた。
その態度に、マリアの眼がすう……と細められた。冷めた半眼で洋人形を見ている。
こちらも、売られた喧嘩なら、買う口だ。
不穏な空気が流れ、緊張が高まるかと思いきや、洋人形があっさりと口にした言葉が、場の剣呑な雰囲気をころりと変えた。
「我が主からの伝言です。〝手を組まないか?〟との仰せです」
「うん?」
「え?」
ミケーレとマリアは顔を見合わせた。意外な申し出であったからだ。だから、確認のために、
「それは〝人形使い〟からの提案ということでいいのかな?」
と、聞いた。洋人形がそれを受けて、見た目は愛らしく答える。
「はい」
「〝怪物〟とジル・ド・レエを売る――と言うのね?」
「そうなりますね」
「何故だ?」
「は?」
ミケーレの疑問に、洋人形が間の抜けた声を漏らした。真意を図りかねたような洋人形に、もう一度ミケーレが問うた。
「それで〝人形使い〟に、どんな利――メリットがある?」
「ああ、そういうことですか」
洋人形は質問の意味に頷いて、〝人形使い〟からの提案について、説明を始めた。
「〝怪物〟がヴァチカンから〝キリストの肝臓〟を奪って逃げたことが、今回の諍いのそもそもの発端ですが、その力を〝怪物〟が独り占めしようとしているようでして。それを察した主が危惧を抱いた――というのが、この提案の内情です。ジル・ド・レエについては〝怪物〟側に付いているので、もののついでです。あの方は決して、〝怪物〟を裏切ることは出来ませんから」
「奴には奴の目的があるからな。ところで、マリア。〝キリストの肝臓〟ってのは眉唾物じゃなかったのか?」
「そのはずだけれど……。もっとも、私も実物を見たわけではないから」
マリアが肩を竦め、歯切れの悪い、困ったような声を出した。マリアとて教会のすべてを知っているわけではなく、また知らないことは答えようもない。
「それについてですが、〝キリストの肝臓〟を喰らったらしい〝怪物〟が、〝脱皮〟したようだ――と主は仰られています」
「〝脱皮〟?」
「はい。そう伝えれば分かる……と」
「〝脱皮〟……な。それなりの効果はあったということか」
ミケーレがぼんやりと遠くを眺めるようにぼやけば、マリアが思案顔で呟く。
「――ということは、〝怪物〟がこの街に潜んでいる理由が無くなった?」
「その通りだが、このまま俺たちに、うろちょろされるのも目障りだろうしな。俺が奴の立場なら、邪魔な俺たちを消してから、行方を晦ませる――かな」
ミケーレがマリアを見やって、答えた。確かに、その考えもあり得る話だ。
「そこで、主が〝怪物〟を誘き出しますから、お二人に仕留めて頂きたいのです」
策を提案する洋人形に、ミケーレがもう一度、問い質す。
「最初の質問だ。俺たちが〝怪物〟を仕留めて、それで〝人形使い〟にどんなメリットがある?」
「……」
洋人形は口籠った。〝人形使い〟に聞いていないのではないだろう。明言出来ないだけなのだ。じっ、と洋人形と見つめあった後、やれやれ――とばかりに大きく息を吐いて、ミケーレは軽く頷いた。
腹は決まったらしい。
「まあ、いいさ。何を企んでいるかは知らんが、〝怪物〟を誘き出してくれるのなら、こちらも捜す手間が省ける。協力しよう」
「いいの?」
マリアが複雑な面持ちでミケーレに聞いた。〝人形使い〟が信頼するに値するのか――と言外に問うているのだ。
とはいえ、マリアはどうも今回の交渉の決定権を、ミケーレに委ねた感がある。今の言葉にしても、ただ確認したに過ぎない。
「ああ。〝人形使い〟だって、〝怪物〟を仕留めるまでは裏切らんだろうさ。それでは、接触してきた意味がない。ま、信用出来るのは、〝怪物〟を倒す瞬間までなんだろうがね」
そう言ってミケーレは、小さな洋人形に手を差し出した。洋人形も苦笑と言っていい表情を浮かべながら近づき、小さな手でミケーレの人差し指を握った。またも、洋人形を見透かすように、じっと見つめていたミケーレが、
「さて。それじゃあ、これからどうする?」
と、問うた。それを受けて、洋人形がにっこりと微笑んで答えた。
「はい。こちらの手筈はお任せ下さい。上手く〝怪物〟を誘き出して御覧に入れます。あとは、時間と場所ですが……」
ふと、眼が覚めた。
沙月はぼんやりと周りを見回してみたが、辺りは薄闇で覆われていた。自分のベッドで眠りについたことは覚えているが、どれくらい眠っていたか、さっぱりわからない。窓には遮光カーテンが念入りに掛けられていたし、ミケーレに送られてから泥のように眠っていたから、今が昼なのかどうかも判然としなかった。
「もう、こんな時間……」
机の置時計を見れば、夕方の五時を回っている。朝の八時過ぎに戻ってきたから、少なくとも、九時間ほどは眠っていたようだ。そのくせ、身体は怠いままだった。この怠さは回復が遅いのか、眠り過ぎたからなのか――。
起き上がるのが、億劫だった。昨日、出かけた時の服装のまま眠っていたから、さすがに着替えたかったが、それすらも億劫であった。
そのままベッドで
いつしか、沙月は寝息を立てていた。意識がなくなる前に、
〝あの男の人を、自分のモノにしたくありませんか?〟
〝自分だけのモノにしたくないですか? 出来ますよ?〟
そんな声が、頭のどこかで鳴っている気がした。
頭の中から、誰かに囁かれているような、そんな感覚。
そして――。
沙月はむくりと上体を起こし、起き上がった。その眼差しに意思の光はなく、虚ろなままであった。幽鬼のような足取りで玄関に向かい、それでも靴だけはしっかりと履くことを忘れずに、沙月はドアを開けて、夜が支配し終えた世界に出て行った。
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