第二話 神の子
翌日、ミケーレは昨日と同じ岩の上にいた。
強い日差しを避けるように日除けの布で頭部までを覆い、影を作って座っている。特に何をするでもなく、ただ座って、遠くを眺めているだけだった。
そこへ、
「こんにちは。ミケーレ」
と声を掛けてきたのは、マリアだった。ミケーレは布を捲り、顔を出した。
「おや、マリア。こんにちは」
「何をしてるの?」
「何も。ただ、ぼんやりとしていただけさ」
「そ? あ、ちょっと詰めて」
「何だ、座りたいのか?」
「そうよ」
そう言って、マリアはミケーレが座っている大岩の上に昇ってきた。岩は二人が容易に座れるほどのサイズである。胡坐をかくミケーレの隣に、マリアがちょこんと座った。少女のように可愛らしい雰囲気を持っている女性である。
「何だ?」
「別に。何を見てるのかな――って、気になっただけよ?」
「それこそ、別に――だ。何を見てるでもない」
「そう?」
「うん」
そうして、二人して大岩の上に座り、何もせず、ただ、ぼうっとあたりを眺めていた。そんな不思議な時間が過ぎていった。
しばらくして、ミケーレが声を掛けた。
「何か、気になることがあるのか?」
「ん。ちょっと、ね」
「ふうん」
「聞かないの?」
「マリアが言いたくなったら、言えばいい」
「……ありがとう」
「うん」
マリアがそれきり黙り込んだ。何か思うところがあるのだろう。聞いてほしいような、聞いてほしくないような――本人にも判然としない感情のようだ。だから、ミケーレも無理に聞かなかった。マリアもその配慮が嬉しかった。
そして、また不思議な時間が流れた。マリアは何も話さなかった。ミケーレも黙って、傍に座ったままだった。
「帰るわ」
やがて、マリアが口を開き、そう言った。気持ちの整理が付かなかったようだ。
「そうか」
「また来るわ」
大岩を降りて、そう言った。
「うん。気を付けて帰れよ」
「ありがとう」
手を振って帰っていくマリアの後姿を、ミケーレはしばし見詰めていた。
明くる朝――。
「おはよう」
マリアは朝早くから、ミケーレの座る大岩のところにやって来た。
「おはよう。えらく早いな。マリア」
「うん。何となくね」
「そうか」
「そうなの」
そう言って、マリアは持ってきたパンと水をミケーレに差し出した。ミケーレは受け取り、礼を言った。
「ありがとう。マリア」
「どういたしまして」
昨日と同じく、マリアはまた、ミケーレの横に座った。そして、それきり黙り込んだ。そんなマリアを、ミケーレは横目で見ながら、
「何か、言いたいことがあるのか?」
「ん……」
「俺で良ければ、話を聞くぞ?」
「うん……」
ちょっと逡巡したマリアが、言葉を継いだ。
「あのね……。イエスのことなんだけどね」
「息子さんの?」
「うん。最近、あの子がちょっと……ね」
「うん」
ミケーレは先を急かすでもなく、マリアの言葉を待った。
「夜になると、弟子の一人と出かけるのよ」
「弟子? 弟子がいるのか?」
「そう。私と同じ、〝マリア〟って
「マリア? 女性なのか?」
「うん」
「恋人なんじゃないのか?」
「恋人なんだけどね」
「じゃあ、別に変じゃないだろ」
「そうなんだけどね」
「だけど、気になる――と?」
「うん。ぼ~っとしてることが増えた気もするし」
『心、ここにあらず』なのは、恋をしているからではないのだろうか――とミケーレには思えた。しかし、親としてはやはり心配なのだろう。マリアの話を聞いていたミケーレは空を仰ぎ、それから、マリアに言った。
「とは言え、見守るしかないんじゃないか? 彼ももう、いい大人なんだから。それなりの付き合いがあるだろ」
「そうよね。やっぱり、それしかないか」
「何かあったら、言ってくれ。出来ることだったら、力になるよ」
「そう? ありがとう。ミケーレ」
「ああ」
「うん。じゃあ、帰るわ」
「帰るのか」
「うん。話して、ちょっとスッキリしたわ」
「そうか。気を付けてな」
「ありがとう。じゃあ」
そんなことを言い合う日もあれば、何を言うでもない日もあった。それでも、ミケーレに会うと何となく落ち着くのか、マリアは毎朝現れるようになっていったのである。
もっとも、息子の方では、それを快く思わなかったらしい。度々、母親を迎えに来るのだ。〝どこの馬の骨ともわからぬ者〟に母親が頻繁に会いに行く――というのは承服しかねるのだろう。とはいえ、さすがに母親に、〝会いに行くな〟とは言えなかったようだ。
よって、彼に出来ることは、ミケーレに会いに来たマリアを早々に迎えに来ることだけだった。
今朝もいつものようにマリアは来た。そして、ミケーレの隣に座った。
「いいのか? 毎朝、こんな、どこの馬の骨とも分からん男に会いに来て?」
「うん?」
「変な噂になるぞ?」
「そうなの?」
そんなマリアの行動は、街でちょっとした噂になっていたのだ。
「旦那さんだって、気にするだろう?」
「ああ……。まあ、ウチの亭主は大丈夫よ」
「本当に?」
「うちの亭主、もう歳だし。〝やきもちを焼く〟――って歳じゃないかな」
「そうなのか?」
「もう、老人って歳よ。それよりは、どっちかというとイエスの方かな」
「そうだな。息子さんは、マリアが俺のところに来るのが嫌そうだしな」
「ね。やきもち焼きなのよ、あの子。〝神の子〟なんて言ったって、そんなものよ」
「〝神の子〟?」
マリアの言った言葉に引っ掛かったミケーレが、オウム返しに言った。
「あれ? 言わなかったっけ? あの子は〝神の子〟だ――って、天使様が教えに来てくれたのよ」
「天使が?」
「そうなの。まだ結婚する前のことなんだけどね。大天使ガブリエッレ様が来て、『貴女――私のことね――は懐妊しています。その子は〝神の子〟です』なんて言うのよ」
「ほう」
マリアは〝信じられる?〟と言わんばかりの顔で、ミケーレを見てきた。ミケーレも〝面白いな〟という顔で、話の続きを促した。
「私としたら、まだ結婚前の生娘なのに、そんなわけないじゃない――って思ったのよ」
「ほほう」
「そしたら、やっぱり妊娠しててね。そりゃあもう、ビックリよ」
「そうだろうな」
「で、産まれたのがあの子」
「ほう」
「亭主との結婚は家が決めたことなんだけど、お腹の大きくなり出した私を
「そうか」
「でも……」
そこで、マリアは照れた顔をして、
「私としては、〝恋〟をして、好きになった人と結婚したかったかな」
恋愛をした末に、結婚したかったのだ――と言いながら、またミケーレを見た。ミケーレも、どう言ったものかと思っているとそこへ、
「母さん」
と、良くも悪くも微妙なタイミングで、イエスがやって来た。マリアは仏頂面だ。一世一代の告白――とも云える場面だったからである。
「何よ、イエス。いつからいたの?」
「今、来たところですが?」
「そ、そう。ならいいのよ」
「?」
マリアはバツが悪そうでもあった。イエスの方は不思議そうな顔も一瞬で、改めて真面目な表情で、母に告げた。
「私はこれより瞑想し、〝主〟と対話致しますので、しばらくお会い出来ない――とお伝えに参りました」
「えっ……瞑想?」
「はい」
「どれくらいの間なの?」
「およそ、一週間ほど」
「ふうん……。気を付けてね」
「はい。母さんも」
「ありがとう」
傍にいるミケーレが存在しないかのように、イエスは母と話した。ミケーレが黙礼すると、これは無視出来ないと思ったのか、
「おはようございます。ミケーレさん」
と言ってきた。ミケーレが、
「おはよう」
と返すと、
「では、私はこれで」
と、話はここまで――とばかりに、そう告げて立ち去った。
ミケーレから見た別れる際のイエスは、マリアには親愛の情を、ミケーレには嫉妬の情、それから敵対心が籠った眼差しであった。やはり、ミケーレがマリアと一緒にいるのが気に入らないらしい。
この時は何もなく別れたが、イエスの一週間の瞑想は、その最終日に事件は起こった。イエスが捕らわれたのである。
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