第33話 心と身体が弱った日

 

 星ノ瀬さんと美容室に行った翌日。

 俺は朝から星ノ瀬さんの席をチラチラと視線をやり、彼女が来るのを待っていた。

 

(……元気になっていればいいけど)


 俺は昨日自宅に戻ってから、隣の部屋で一人で過ごす星ノ瀬さんのことを夜通し考えてしまっていた。


 あの昔の友達っぽい女子と一体何があったのかは知らないが、あの時の星ノ瀬さんの顔色は今にも倒れそうだった。

 だからこそ、今朝元気に登校する星ノ瀬さんを見て安堵したかったのだが――


 結局、朝のホームルームが始まっても彼女の姿はなかった。


「さて、今日のお休みは星ノ瀬さんね。ちょっと高い熱が出ちゃったみたい」


「…………」


 担任の魚住先生からそう聞かされても、少し前までの自分ならなんとも思わなかっただろう。

 せいぜい『美人でも風邪は引くんだな』くらいにしか思わなかったはずだ。

 

 だけど、今は――俺は知っている。


 星ノ瀬さんが、家族と離れて一人暮らしをしていることを。

 家事が壊滅的にダメで、自分で病人食を作るスキルに乏しいことを。

 

 そして昨日、顔面が蒼白になるくらいのショックを受け――弱ったメンタルを抱えたまま一人で発熱に苦しんでいることを。


「おいおい、ずいぶん深刻な顔してるな錬士」


「俊郎……」


 俺はよほど怖い顔をしていたのか、後ろの席の友人はちょっと驚いたような様子で話しかけてきた。


「……てか、星ノ瀬さんか? まだ詳しく聞いてないけどお前らってば本当にどんな関係なんだかな」


 どういう関係――そう問われたら、俺は即座に答えられない。


 恋愛レッスン講師とその生徒。

 家事アドバイザーとその生徒。

 同じマンションに住むお隣さん同士。


 それは全部正解なのだが、それらの内のどれか一つだけを俺たちの関係としてラベリングするのは不適切のように思えた。


「なあ、俊郎。これはもしもの話なんだけどさ」


「うん?」


「風邪を引いた一人暮らしの女の子の家に、男一人でお見舞いに行く。これって、どんな関係だったら許される行為だと思う」


「そりゃあ……家族か恋人以外は警察呼ばれても文句言えないだろ」


「まあ、そうだな。俺もそう思う」


 常識的に考えればその答えに一部の隙もない。

 お互いが了解している関係――つまり、『お隣さん』や『協力相手』の分を超えることを行ってはならないのは当たり前だ。

 

 だから、まあ――


 どうしてもそうしたいのなら――それなりの覚悟が要るということなのだろう。


■■■


 私――星ノ瀬愛理は、熱でぼんやりとした意識のまま自室の天井を見上げていた。

 

(こんなタイミングで熱が出るなんて……)


 今日という日のほとんどをベッドで過ごしたため、パジャマが汗で湿っているのが不快だったけど、着替える気力も湧かない。


 一人暮らしは病気の時がしんどいと聞いてはいたけど、確かにこれは想像以上に辛い。倦怠感と熱に苛まされているのに、食事の用意もなにもかも全部自分でやらないといけないのだから。


(風邪の時って……お粥とか雑炊とかよね。あぁ、でも材料はお米しかないし、私じゃ上手く作れないわね……)


 お腹はそれなりにすいているけれど、家の中にある食べ物は味の濃い冷食やレトルトばかりで、とても食べる気にはならなかった。 


(ふふ……久我君なら、どんなに風邪で辛くてもすっごく美味しい病人食を作ったりするんでしょうね)


 少なくとも、今の私みたいに何も食べるものがないなんて状況には陥らないのは間違いない。本当に、私はなんとも家事が不得手だ。


(……昨日は、久我君に悪いことをしたわね)


 一緒にごはんでもと言ったのは私なのに、急に帰ってしまったのは本当に失礼で申し訳なかったと思う。


 けれどあの時は、とても気分を平静に保てる自信がなかった。

 不意打ちみたいな再会に、あまり思い出したくないもので頭がいっぱいになってしまったから。


(ちーちゃん……)


 彼女に会ったのは中学卒業以来だったけれど、やっぱり彼女の心にあの時のことは何も残っていないようだった。


 けれど、それはそうだろうと思う。

 あの時彼女は私に頭を下げて謝って、私はそれを作り上げた笑顔で許した。

 その時点で、あの時のことは全部終わりだ。


 けれど――


 どうしても、私はあの時の痛みを忘れられない。

 ちーちゃんを恨んでいるんじゃなくて、あの時の恐怖と悲しさがもたらした心の傷が、未だに私の在り方を縛っている。


(…………寂しい……)


 熱の苦しみと、忘れようと努めていた過去の痛み。

 その二つがひどく私の心を弱らせていて、私以外誰もいない部屋の静寂が心細さをより強めていく。


 そう、一人は辛い。だから、誰もが友達や恋人を求める。

 けれど、私はあの時からそれが難しくなってしまった。


 無邪気に友達を作って無垢に恋愛に憧れていたかつての自分が、あまりにも懐かしい。


 弱った気持ちが、自然と瞳に涙を溜めていた。

 気分の悪さと身体の辛さで、いよいよ嘔吐感すらこみ上げてきたその時――


 閉塞された無音の部屋に、突如玄関のチャイムが鳴り響いた。

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