第8話 愛理との契約、錬士の決意


「私は……信じられないくらいに家事がダメだったことがわかったの……!」


「…………」


 一瞬ここは笑うところなのかと訝しんだが、星ノ瀬さんの表情は真剣そのものであり、声には悲痛さが滲んでいた。


「それも並のダメさじゃなくて、自分で自分が怖くなってしまうくらい……なんかもう、呪い?」


「そ、そこまで……」


 まあ確かに、肉まんを爆発させるのは並のドジじゃないけど……。

 

「だからこそ是非聞きたいの! 一体久我君はどうしてこんなに家事万能なの!? 何かコツでもあるの!?」


 星ノ瀬さんはテーブルから身を乗り出し、俺にずいっと顔を近づけてきた。

 その不意打ちに、俺の顔はまたしても朱に染まってしまう。


「あ、いや……コツっていうか、家庭の事情で小さい頃から料理してたから、単に慣れてるだけで……」


「うぐぐ、やっぱり元から努力している人だったわ……! 凄く尊敬するけど参考にはならないのよそれ!」


 秘訣ではなく積み上げたものであるという俺の答えに、星ノ瀬さんはうな垂れる。

 まあ、家事って慣れだから攻略法ってのはあんまりないかもしれない。


「……ねえ、久我君」


 星ノ瀬さんはしばし考え込んだかと思うと、改めて真剣な視線を俺へ向けてきた。

 

「これは冗談とかじゃなくて本気のお願いなんだけど――」


 お願いという単語に、俺は目を白黒させてしまう。

 

 この恋愛力が強く評価される時代で、星ノ瀬さんは絶対的な強者だ。

 今の高校時代だけでなく、これから大人になってからも王族や貴族のような道を歩むだろう。


 それに引き換え、恋愛のスタートラインにも立てない俺は弱者の道を歩む者だ。

 何も持っていない俺に、全てを持っている彼女が何を頼もうというのか?


「私の家事アドバイザーになってくれない? 私が一人で暮らしていけるように家事全般を指導して欲しいの」


「は、え……? い、いや、そんな程度なら別に俺に頼まなくてもいくらでも手があるだろ。ネットで情報を見ながら地道にやれば……」


「いいえ、甘いわ久我君」


 そんなもの、わざわざ他人に教わる程のものじゃない――そう告げた俺に、星ノ瀬さんは沈痛な顔でゆっくりと首を横に振った。


「今日の火事を思い出して。君が消し止めてくれたから事なきを得たけど、下手をしたらこのマンションが全焼していたかもしれないのよ? そういうことをしてしまう女なの、私は」


「そ、それは……」


 確かに……今日の火事はボヤで済んだから笑い話になっているが、もし対応を誤っていればこのマンションは全焼し、大勢の人が火に巻かれたかもしれない。


 あれが人生に一、二回のことじゃなく、今後も起こりうるのだと言うのなら……確かにヤバすぎる。


「もう、いい加減なんとかしたいの! お皿は何枚も割っちゃうし、料理を作ればお腹壊すし、洗濯物にはカビが生えるし! その上今度の火事よ! もう早急になんとかしないと、一人暮らしが破綻しちゃうわ……!」


 聞くだけならただの面白い失敗談だが、星ノ瀬さんとしては自己嫌悪が深まる苦難の日々だったようで、深刻な顔で頭を抱えている。


 まあ、その気持ちは同じ一人暮らしとしてよくわかる。

 自分を助ける存在が自分しかいないのに、その自分のやらかしがあまりに多いと本当に泣きたくなるのだ。


「あと……家庭の事情もあるの。私って、ちょっと理由があって親元から離れて一人暮らししてるんだけど……」


 やや言い淀みながら、星ノ瀬さんは続けた。


「今後、親がたまに私の暮らしぶりを詳しく確認しに来る予定みたいで……それで、あんまりにも上手く生活できてないと判断されたら、最悪親の所に転校ってこともあるわ」


「な……!」


 転校というワードに驚いたが、考えてみれば当たり前かもしれない。

 ウチの親はかなりおおらかだが、普通は高校生が一人暮らしなんてなかなか許可されることじゃない。


 ましてや、星ノ瀬さんはアイドル級に可愛い女の子なのだ。

 親としては心配だろうし、ちゃんとした生活が送れていないという理由で連れ戻すのは過保護とは言えないだろう。


「自力でなんとかしようとしたけど、全然ダメなの! だからお願い久我君! たまにでいいから!」


「ええと、その……」


 星ノ瀬さんにとって生活面でも家庭面でも重大な悩みであるのはわかったが、あまりにも予想外の展開すぎてどうするべきなのか考えがまとまらない。

 住む世界が違いすぎる星ノ瀬さんから、まさかこんなことを頼まれるなんて……。


「もちろん、タダじゃないわ。君が私に家事を教えてくれるのなら――」


 悩み深い表情から一変して、星ノ瀬さんは学校でよく見る余裕たっぷりの笑みを浮かべた。



「え……」


 なん、だって……?

 

「ねえ久我君……恋愛ランキングのことで悩んでいるんでしょ? Fランクっていう位置にいる今を、どうにかしたいんじゃないの?」


「……!」


 さっきまで見せていたポンコツ少女の顔は鳴りを潜め、クラスの中心的存在たる少女は的確にこちらの苦悩を突いてきた。


「だったら私が力になれるわ。久我君が恋人を作れるようにコーチして、君の恋愛ランキング順位を押し上げる」


 俺をモテるようにする――そんな無理ゲーのようなことを、星ノ瀬さんは自分ならできると自信に満ちた面持ちで口にする。


「い、いや、俺なんかどうやっても無理だって。そもそも俺は今更恋活なんてする気は……」


「――?」


 反射的に俺の口から出てきた自己防衛の言葉は、星ノ瀬さんの一言で止められてしまう。


「本当に久我君はそう思っているの? 自分には恋愛なんか無理だって、いくら恋活の時代だからって無理して恋人は作りたくないって」


 気づけば、星ノ瀬さんはテーブルから身を乗り出して俺の目をのぞき込んでいた。 

 俺が胸に奥にしまっているものを、掘り起こそうとするかのように。


「ううん、そもそも――久我君は恋をしたくないの?」


「――っ!」


 その一言が、俺の中のシンプルな願望を大きく揺さぶった。

 胸に押し込めていたものに一石が投じられて、心中が波立つ。


「周囲の評価がどうこうより、単純に恋人が欲しくない? 想い想われる関係を誰かと結んで、最高の高校生活を送ってみたいとは思わない?」


 まるで催眠にかけられるように、星ノ瀬さんの甘い囁きが俺の脳裏に染みこんでいき――俺の心奥が揺り動かされる。

 逃げ続けていた当たり前の本音が、明確な輪郭を形作っていく。


(これは……チャンスなのか?)


 あまりにも特異な状況の中で、俺は直感的にそう感じていた。


 俺は、今まで何もしてこなかった。

 恋に憧れて、恋の時代を謳歌している周囲を羨んでいるのに、女の子と向き合うのが怖いからと……望むものに手を伸ばそうとはしなかった。


 けれど、心の奥底では願っていた。

 自分を変えることができるチャンスを、足踏みしている自分を前に進めてくれるような『何か』が、いつか自分にもたらされることを。


(俺が変わるためのきっかけとなる『何か』が……今俺の目の前にある)


 それを理解した瞬間――俺の中で何か固い蓋にヒビが入った。


「……したい……」

 

 その亀裂は瞬く間に広がっていき、ずっと封じ込めていた俺の本当の気持ちが溢れ出てくる。

 

「恋愛がしたい……! したいに決まってるっ!」


 一度堰を切った気持ちは止まらない。


「本当はいつだって思ってた! 可愛い女の子と恋人になって、手を繋いだり他愛ないお喋りをしたいって!」


 俺の中で堆積していた渇望が、次々と吐き出される。


「昼休みに一緒にごはんを食べたり、放課後に駄弁ったり、デートで一緒に遊園地にいったりカフェでお茶したり……そういうのにずっと憧れてた!」


 熱に浮かされた頭は、衝動のままに赤裸々な心中を吐き出していく。

 あまりにも格好悪い、男子の欲望全開な想いを。


「でも恋愛ランキングでずっと底辺の俺は、どうしても死ぬ気で頑張れなかった! 自分に自信がなくて、女の子のことが怖くて、恋愛のやり方がわからないで、本気を出して傷つくことばかりを怖がって何もできないままで……そんな自分にずっとイライラしてた……!」


 何の深みも重みもない俺の長ったらしい本音を、星ノ瀬さんはうんうんと頷きながら黙って聞いてくれていた。その表情には呆れも苦笑もなく、ただ微笑みだけが浮かんでいる。


「そんな俺が……もし、自分を変えたいって言ったら。こんな自分でも恋愛できるようになりたいって、そう言ったら――」


 俺の男子すぎる願望を掘り起こした星ノ瀬さんに向き合い、問いかける。

 こんな俺でも、星みたいに高くて遠いところにあるところに手が届くのかと。


「星ノ瀬さんは……俺を助けてくれるのか?」


「うん、もちろん! 全力で久我君を助けてあげるわ!」


 曇りのない純粋な瞳で俺を見返し、星ノ瀬さんは真正面からそう言ってくれた。

 そこに浮かんでいる笑みは眩しいほどに輝いており、言葉に込められた想いに嘘偽りはないのだと、そう信じさせてくれた。


「なら……むしろ俺から頼む星ノ瀬さん」


 今こそが千載一遇のチャンス――そう確信した俺は、自分から頭を下げて頼む。

 目の前の少女は信じられると、俺の勘が告げていた。


「俺にできることは全部するから、俺に恋愛のことを教えてくれ。俺は……自分を変えたい」


「ええ、久我君のその言葉が聞きたかったわ。これで協力関係の成立ね!」


 俺が本気であることをわかってくれたのか、星ノ瀬さんは満足そうに笑顔で頷いてくれた。


「じゃあ、これからよろしくね久我君。こうして約束したからには、私は絶対にあなたの恋愛力を上げてみせるから……私への指導もしっかりお願いね?」


「あ、ああ、わかった。こちらこそよろしく頼む星ノ瀬さん」


 そうして、その奇跡としかいいようがない契約は締結された。

 なし崩しではなく、星ノ瀬さんと俺の明確な意思に基づいて。


 そうして、この日に俺は自己変革の開始点へと立った。

 今までの、恋を諦めていた自分とは違う茨の道を走るために。


 この選択が、自分の高校生活を激烈に変えてしまうのだと知らないまま――この時はただ明日からの決意に燃えていたのである。

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