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慶野由志
第1話 モテない男子と恋咲きの天使
「………………この世は地獄だ」
高校二年生の春。
俺――
帰宅部である俺が何故こんな時間まで学校に残っていたかと言うと――つい先程まで職員室で担任の先生から小言をもらっていたからだ。
『あのね久我君? 先生は決してあなたのことをできない生徒だとは思わないわ。むしろかなり真面目な方で、成績も平均以上なんだから』
自覚しているが、俺はおおむね先生の言う通りの生徒だ。
そこそこ真面目で、スポーツは今イチだが成績は平均よりはやや上。
目鼻立ちもまあ普通な方で、ごく平凡な男子と言えるだろう。
そして、特に波風を好むような性格でもない。
そんな俺が職員室への呼び出しまで受けてしまったのは、俺が男子の本分に今イチ努力できていないからである。
『だから、もっと頑張って欲しいの。ねえ久我君。君はもう少し恋愛に積極的になりなさい』
現代教師としては当然の指導に、俺はいつもの通り表情を固くして耐えることしかできなかった。
『このままじゃ君、これから先すっごく生き辛くなっちゃうわよ? 昔と違って今の時代は恋愛や結婚を経験してようやく一人前って見なされるんだから』
「ああ、くそ! そんなことわかってるっての……!」
つい先程まで味わっていた先生の苦言を思い出して、俺は昂ぶった感情を無人の廊下に響かせてしまう。
ああ、そうだ。俺だって現状はわかっている。
今、この時代が一体どういうものなのか。
「大恋活時代……か」
今の世の中を表す名を、疲れた声で呟く。
十年前の政策から生まれた、恋愛を中心に回る冗談のような時代の名を。
(ちくしょう……! 俺だって恋愛に興味がない訳じゃないっての! でもだからって、どうにもならないからこの現状なんだろ!?)
心配そうな顔で諭してきた先生は、何も俺を馬鹿にしたかった訳じゃない。
残酷な事実を踏まえて、この出来の悪い生徒を純粋に案じてくれたのはわかる。
だからこそ、余計に暗澹たる気持ちになる。
俺はそれなりに真面目に高校生をやっているつもりだが、『そっち方面』では落ちこぼれである事実を再認識してしまうのだ。
(そりゃ、俺だって叶うのなら恋人が欲しいさ。漫画とか小説みたいな恋に憧れていないって言ったら嘘になる)
俺だって中学時代には、甘い恋にひたる自分を夢見ていた。
けどそれから現在に至るまでに、恋愛においていかに自分が味噌っカスな存在かを思い知ってしまったのだ。
(本当に俺のアレがなぁ……恋愛するには致命的すぎる弱点だ)
自嘲を込めて、俺は力のない笑いを浮かべた。
先生に説教されたばっかりだってのに、ネガティブな要素ばかりが頭に浮かんできてちっとも前向きになれない。
「はぁ……。本当に、何でこんな時代に生まれちゃったかな俺は……」
昔――俺が生まれる少し前までは、世の中はこうではなかったらしい。
学生はある程度清廉であるべきという風潮があり、恋愛を禁止する訳ではないが大っぴらに推奨されるものではなかったという。
母さんや父さんが高校生だった時の話を聞くと、彼氏や彼女を作っていたのはあくまで一部の恋愛力の高い生徒であり、恋愛経験のない生徒なんて全然珍しくなかったという。
けどそれも、俺にとっては知らない時代の話だ。
令和という年号にも慣れてきた今この時は――恋人が作れない奴に対して全く寛容じゃないのだ。
「って、うわっ!?」
「きゃっ!?」
不意に甘くていい匂いがしたかと思うと、肩に走った衝撃に女子の声が重なった。
一瞬の混乱の後で、廊下の角で誰かにぶつかってしまったのだと理解する。
「ご、ごめん! ぼーっとして、た……」
反射的に口にした謝罪の言葉は、途中で途切れた。
目の前で肩をさすっている女子生徒の存在感に、俺の脳が飽和してしまったからだ。
その女子は、あまりに綺麗だった。
極上のシルクと見紛うような艶やかで長い髪。
無垢な白雪のようにきめの細かい肌。
宝石の煌めきのように輝く瞳。
それら全てが黄金律で整えられており、およそ自然に生まれたついたとは思えないほどの完璧な美貌を誇っていた。
その存在感は全身が輝いているような錯覚すら感じてしまい、魔法のように目が吸い寄せられて離れない。
(
男子はおろか全校生徒において知らぬ者はいないその名前を、俺は胸中で呆然と呟いた。
恋愛ランキングに登録されている校内全女子四一五人中、入学以来ずっと一位を保持している女王であり、『恋咲きの天使』などとも呼ばれている。
彼女を一目見た瞬間から誰もが恋心を抱いてしまうことから冠されたあだ名だが、この美貌ではそれも決して大げさとは感じない。
「あ、ううん。私こそごめんね? 誰もいないと思って全然注意してなかったもん。久我君こそ大丈夫?」
星ノ瀬さんとこんなに近い距離で接したのは初めてだが、彼女は不快感を示すどころか温かい微笑みを見せてくれた。
優れた容姿を持つ者にありがちな、横柄な態度は欠片もない。
むしろ、見る者を晴れ晴れとさせるような朗らかな空気を醸し出している。
それに――
(俺の、名前を……)
無二の麗しさを持つ少女から俺の名前が出てきたことに、少なからず驚く。
星ノ瀬さんと俺は同じクラスではあるのだが、彼女はまさにこの学校で一番の発言力を持っていると言っても過言ではないアイドルであり、対して俺はクラスの隅っこに生息している目立たない男子に過ぎないのに。
「あれ? でも久我君って確か帰宅部だったような? こんな時間までどうしたの? あ、ちなみに私は学級委員としての雑用が終わったとこなの」
「あ、えと……」
不思議そうに俺を見る星ノ瀬を前に、俺は情けないことに言葉に詰まっていた。
声帯だけじゃなくて全身が強ばってしまい、呻くばかりで何もできない。
(く、くそ! 俺って奴はどうしてこう……! もう高校生だってのに!)
このとてつもない緊張は、俺の持病だった。
中学時代から俺の自信を奪い続けている、悲しい呪いだ。
女の子と話す時に緊張してしまうのは、俺以外の男子にもよくあることだろう。
だが俺の場合、その硬直具合が極めて大きいのだ。
言葉が出ない。
思考がまとまらない。
冷や汗が増えてどんどん流れ落ちていく。
まるで蛇に睨まれたカエルのように、滑稽なほどに全身カチコチになってしまう。
女子緊張症――俺はこの情けない持病を、そう呼んでいる。
「ん? どうしたの久我君? なんだかスマホのバイブ機能みたいにブルブルしてるけど……」
「あ、い、いや、その……」
この女子緊張症は医者曰く別に身体や心に問題がある訳ではなく、ただ単に俺が同年代の女の子を人の何倍も意識してしまう気質であることが原因らしい。
つまるところ、単に女の子への照れが凄まじい規模で発生しているに過ぎない。
(だからこそ、可愛い女子との接近は辛いんだよ……!)
ただでさえ女子に対してカチコチになる気質なのに、目の前にいるのは女子慣れした男子であろうと頭が真っ白にならざるを得ない至高の美少女だ。
俺の精神メモリは一瞬で焼き切れており、もはや機能不全に陥っている。
「あー、なるほど。久我君はちょっと女の子が苦手な感じなのね! うんうん、まあ別に程度の差はあっても珍しいことじゃないわ!」
「え……」
星ノ瀬さんが満面の笑みで口にしたその言葉は、持病の緊張を一瞬だけでも吹き飛ばしてしまうほどの衝撃を俺にもたらした。
多くの女子は俺のこの過度な緊張に、『ふざけてんの?』と不快感を見せる。
そしてそれは、仕方のないことだろう。
俺のこのザマは、一見してふざけているようにしか見えない。
だが、星ノ瀬さんは俺の内なる緊張を理解できるらしく、こちらの気質を正確に見抜いてきた。
それは、俺にとって初めてのことだった。
「あはは、そんなに怖がらなくても大丈夫だって! ほら、怖くなーい、怖くなーい」
「ひゅわっ!?」
星ノ瀬さんが軽い声とともにとった行動に、俺はつい素っ頓狂な声を出してしまった。
あろうことか、星ノ瀬さんは手を伸ばして俺の頭をヨシヨシと撫でたのだ。
自分の髪に触れる、とてもスベスベした星ノ瀬さんの手の感触と、ほのかな体温。
それを認識してしまったが最後、俺の脳は一瞬で沸点に達した。
「それじゃあ、またね久我君! 君のそのピュアさは嫌いじゃないけど、今後はもうちょっと女の子に慣れた方がいいかもねー!」
言って、笑顔のまま腕をぶんぶんと振りつつ、星ノ瀬さんは去っていった。
そして、一歩も動いていないのに大量の汗をかいている俺だけがその場に残る。
「はぁ……はぁ……」
呼吸を整えつつ汗を袖で拭うが、胸の鼓動はすぐには落ち着かない。
朗らかに微笑む少女の顔が、未だに瞼の裏に焼き付いているからだ。
(星ノ瀬さんと……初めてこんな間近で接したな……)
クラスメイトである彼女のことはずっと前から知っていた。というか知らない奴は校内にほぼいない。
だから、彼女が誰にでも分け隔てなく優しく接する場面も、俺は何度となく見てきた。
(けど、こんな誰も見ていない状況でも……あんなに優しく……)
他人という評価の目がない状況でも、星ノ瀬さんは優しかった。
女子に緊張してロクに話せなくなるこんな面倒な男子に対して、終始笑顔を向けてくれていた。
誰もが心を融かされるような美貌を持ちつつも他人を見下さず、他人を気遣う心を失わない。
それは本当に……掛け値なしで素敵ことなんじゃないだろうか。
「なるほど……モテるはずだよ」
皆が憧れるナンバーワンの女子は、本当に評判に違わぬ素敵な女の子だった。
その事実に俺は口の端を緩め、少し心が温かくなるのを感じていた。
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