【第1部北海道カムイコタン編】 1ー1 「旭川」 1892年4月

「わあああっ!」


 少年の目にはその光景は全てが美しく雄大だった。

13歳の志伸しのぶは両親と共に東京から蝦夷地えぞち改め北海道旭川へと転勤してきた。この地に足を踏み入れた瞬間から、その広大な自然に心を奪われた。4月初旬の旭川は、冬の厳しい寒さから解放され、ようやく春の息吹を感じさせる頃だ。雪解け水が川を勢いよく流れ、空気には新鮮な湿り気と土の匂いがただよっていた。遠くの山々はまだいただきに残雪を抱え、澄んだ青空の下にくっきりとその輪郭を描いている。

 志伸の目の前に広がる草原には、一面に緑が芽吹き、風が吹くたびに波のように揺れていた。春を告げる小さな野花たちが足元に可憐に咲き、太陽の光を浴びて輝いている。どこまでも続く大地には、人の手が届いていないような自然の息吹いぶきが満ちており、その静寂さと壮大さに少年の心はただ圧倒されていた。鳥たちのさえずりが優しく耳に響き、風に乗って運ばれてくる森の匂いが、志伸にとってこれまでに感じたことのない感覚を呼び起こしていた。東京での日常とはまるで異なるこの広大な自然が、彼の心の奥底に何かを訴えかけているようだった。


「さあ、着いたぞ。」


 父は言って馬車を降りた。そこはまだ数軒の家が立っているだけの小さな村外れの集落だった。旭川は明治に入り急速に近代化が進められたが、まだまだ厳しい環境だった。志伸の父はとても優秀な人物だったが、旧幕府側きゅうばくふがわ隠密おんみつ御庭番おにわばん」であったため、明治政府めいじせいふでは冷遇れいぐうされこの辺境の地に派遣され、ありとあらゆる役所の困難な仕事を安い給金で押し付けられた。

 志伸はその東京とは全く異なる光景にびっくりしながらもその新しい土地に興味深々だ。母は呆気あっけにとられてこの村の様子を見た。その姿を見た父は苦々しく、


「すまない。不自由をかける。」


と言ったが、母は目をつぶり大きく深呼吸をして


「空気が美味しいわね。さあ、荷物を運びましょう。」


と明るく答え微笑ほほえんだ。


 志伸とその家族が移り住んだ旭川の新しい住まいは、東京での生活とはまるで違った。木造の小さな家屋で、屋根は薄い板で覆われており、隙間風が入り込む。家全体に木の香りが漂い、床板ゆかいたは少しきしむが、志伸にはそれが新しい冒険の始まりのように思えた。

 家の中は、まだ生活感に乏しい。荷解きが終わっていないため、荷物がところどころに積み上げられている。小さな囲炉裏いろりが中心にあり、そこからほんのりとした温かさが家全体に広がっている。囲炉裏の上には黒ずんだ鉄鍋てつなべが掛けられており、志伸の母がたきぎをくべて火を調整していた。壁は粗末な板張りで、外の寒さを完全には防げない。窓は一つしかなく、薄い紙障子かみじょうしで覆われているだけなので、風の強い日には紙がかすかに揺れていた。

 寝室となる場所には、布団がたたみの上に直接敷かれているだけで、寒さ対策に毛布が何枚も重ねられている。隅には東京から持ってきた小さな箪笥たんすが置かれ、志伸の父が荷物を整理している最中だった。箪笥の上には、家族の大事な品と思われる掛け軸と、小さな仏壇ぶつだんが置かれている。志伸の母がそれを拭きながら、


「新しい土地でも、ご加護かごをいただけますように」


と静かに祈っている。

 志伸は狭い家の中を走り回り、興味深げに隅々を観察していた。家の裏手には小さな納屋なやがあり、そこに移り住んでくる際に使った荷車にぐるまや農具が置かれていた。これからの生活がどれほど厳しいものになるのかを、両親は理解しているが、志伸はそんなことにはお構いなしだ。家の窓から見える広大な雪景色と、これから始まる新しい生活に胸を躍らせていた。

 この家にはまだ温かみはないが、家族の手で徐々にその場所が「我が家」と呼べるようになるのを、志伸は無意識のうちに感じていた。志伸は家を出ると、冷たい空気が顔を打ったが、それでも新しい土地の匂いに心が躍るようだった。


「僕、ちょっと外を見てくる。」


と言って家を出た彼は、周囲の開拓民かいたくみんの家々を軽く見回しながら、すぐ近くの小高いおかに向かって歩き始めた。

 家の周りには、いくつかの開拓使の家が見え、その大部分はまだ途中で、粗末な建物が並んでいた。家々の間には雪がわずかに残っており、足を踏み入れるとサクッと音がする。道は完全に舗装ほそうされておらず、まるで自然と調和するように、土地に溶け込んでいるような印象を与える。

 丘の頂上に到達すると、志伸は息を呑んだ。目の前に広がる景色は、まるで絵画のように美しかった。広大な旭川盆地あさひかわぼんちが一面に広がり、道がどこまでも続く様子が見て取れる。その盆地を囲むのは、遠くにそびえる大雪連峰たいせつれんぽう。雪をかぶった山々がまるで守護神のように盆地を見守っている。山々の間に差し込む日差しが雪に反射して、まぶしい光を放っていた。

 さらに遠くには、旭川の名の由来ともなった「石狩川いしかりがわ」が悠々と流れているのが見える。川は銀色に輝き、その広大な流れが大自然の力強さを感じさせる。志伸は目を細めて、静かに流れる川をじっと見つめた。


「……あの川も、ただ静かに見えて、ちゃんと前に進んでるんだな。」


どこかで迷っていた心が、少しだけ軽くなる気がした。広がる風景には生命の息吹が感じられ、彼の胸を打つ。どこか遥か昔から変わらぬ風景が、ここに存在しているのだと、志伸はふと気づいた。

 

 山々、川、そして広がる大地。志伸はそのすべてに圧倒されながらも、この新しい世界に自分が一歩足を踏み入れたことを強く実感した。この土地での生活が、どれほど過酷かこくになろうとも、彼の心は既にこの広大な大自然に溶け込んでいた。


 その日の午後、村の人々が次々と志伸たちの新居を訪れた。みな手には差し入れの食材や生活必需品を持っていて、それぞれが温かい挨拶あいさつと言葉を交わしてくれた。


「大変だったでしょう」

「この土地は厳しいけど、慣れればきっといいところですよ」


と優しい言葉が飛び交い、新しい環境に不安を抱えていた志伸の両親も、少しだけほっとしたようだった。

 村の若者や力持ちの男性たちは荷物運びを手伝い、女性たちは新居の片付けをサポートした。志伸も一緒に手伝おうとしたが、大人たちに「子供は外で遊んでおいで」と笑いながら諭され、外で村の子どもたちと一緒に遊ぶことになった。初めて会う子どもたちと石ころを投げたり、駆け回ったりして遊び、気づけば笑い声が絶えなかった。

 日が暮れる頃、家の片付けはひとまず終わり、家の中はようやく家族が過ごせる形になっていた。志伸たちは村人からもらった野菜や味噌、肉を使って鍋を作ることにした。囲炉裏の火の上に鍋が置かれ、湯気とともにいい匂いが家の中に満ちる。志伸は火のそばに座り込み、ぐつぐつと煮える鍋をじっと見つめながら、早く食べたいという気持ちを隠しきれなかった。


「こんなにたくさんいただいて、ありがたいね」


と母が鍋をかき混ぜながらつぶやき、父は


「この土地の人たちは本当に親切だ。俺たちも早く慣れて、お世話になった分を返さないとな。」


としみじみと言った。

 家族で鍋を囲み、野菜や肉をほおばる。湯気で顔がほんのり赤くなり、寒い土地での温かい食事が何よりも心を満たした。鍋の合間に、これからの生活について自然と話が進む。父は新しい仕事の話をし、母は家の整え方について考えを話した。

そして、話題が志伸に移る。


「週明けには学校だな、志伸。新しい友達もできるだろうし、頑張るんだぞ」


と父が声をかけると、志伸は目を輝かせて笑った。


「うん! 楽しみだよ。外で会った子たちもすごくいい人たちだったし、学校も面白そうだね!」

 

志伸は学校がどんなところなのか、どんな先生や友達がいるのかと胸を躍らせながら、話が尽きなかった。家の外では冷たい風が吹きすさびていたが、家の中は鍋の温かさと家族の笑い声で満ちていた。

 その夜、布団に潜り込みながら、志伸は学校での新しい生活を思い浮かべていた。初めての土地、初めての友達、そして新しい冒険。彼の心は期待と興奮でいっぱいだった。



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