citrus age 番外編 2

菜の夏

第一章 君に触れたい

◇初夏 菜々子




たいした洋服は持ってないけど、お気に入りナンバーワン。

ベージュのシフォン素材のミニワンピ。


胸元がけっこうスクエアに開いていてそこだけ光沢のあるサテンが使ってある。

金のバレエシューズ。


髪も巻きたいからヘアアイロンを持っていく。


わたしがオレンジ終わるのを待って、夕方から二人で出かけることになった。


オレンジはテニスが終わったあと、たいていみんなでファミレスみたいなところで食事をするんだけど、わたしは今回それはパスをさせてもらう。



ナツが車でテニスコートのある公園まで迎えに来てくれることになっている。



ナツの黒のランクル、目立つんだけど、誰もあれがナツの車だって知る人はいないから、公園からちょっと離れた場所に止めて、その中で待っていてもらう。


シャワーを浴びて、着替え、髪を巻く。


「どうしたの? 菜々子そのかっこ」


先に帰ることは高宮さんに言ってあったから、こそこそ更衣室の隅で全くいつもの格好と違う服でメイクを直していると千夏が近づいてきて聞く。


「千夏、声が大きいよっ」

「はーん。デートってわけね?」


「う、うんまあそう。ちょっとわたし、気づかれないように裏口から出るから、あと頼むね」



千夏はわたしがナツとつき合う事に最初は反対だった。


でも、キャンパスでナツが千夏に大声でもう自分の部屋には連れ込まないって宣言して、ちゃんとその約束を守っている事から、彼を信用してくれたみたいだ。



「行ってらっしゃーい。みんなには上手く言っとく」


あきらかにいつもと違う格好で、しかも髪まで巻いて出て行くわたしに、下級生も興味本位の視線を送ってくる。


やばいなあ。

まだ上級生の恋愛関係、バレるとまずいんだけど。

しかも相手は禁忌の1年生だ。


「なんかぁ、母親が長野から出て来てて一緒に観劇するらしいよ」


千夏、なんというナイスなフォロー。


わたしは大きな公園のテニスコートとは逆サイドの道路に車を止めて待ってるナツのもとに走った。


「おまたせ。だいぶ待った?」


「そうでもない。ちょっと遠いけど大丈夫かなあ。ま、いいよね。帰るの遅くなっても怒る人いないもんな」

「う……うん」


遅くなるんだ。

長野のお父さんに12時には絶対帰ることって、約束で東京に出してもらっているんだけどな。


せっかくナツが誘ってくれたんだもん。

まあそんなには遅くならないか。


「ねえナツ、どこに行くの? もう教えてくれてもいいでしょ?」



「菜々子さん、今日のかっこめちゃ可愛いじゃん」


すぐこうやってはぐらかす。

でも嬉しいけど。


車は高速に乗って東京から遠ざかっていくみたい。

どうやら富士山方面にむかっているようだ。


まさかと思うけどアレじゃないよね。

東京でもすごく話題になっているけど、すごくわたしが苦手とする……。


わたし、ナツに苦手って話したと思うんだよね。


最近、ナツはわたしを質問攻めにすることがある。

絶対答えなきゃ許してくれない。


その中で、苦手なものある? って聞かれて、わたし、ちゃんとそれは嘘をつかないで答えた。


幼少期のことはどうしても嘘つかないと仕方ないんだけど、あとは全部、正直に答えている。


だからナツはわたしがアレをとってもとってもとっても苦手としいてることを知っているはずだよね。


でもでもでも。


やっぱり、最近テレビで頻繁に取り上げられているアレの会場に向かっているんじゃないかとすごく心配なんだけど。


広い敷地の特設会場が見えてきたんだけど、まさかわたしが苦手っていってるとこに連れていかないよね?


「ナツ……あの……まさかと思うけどあそこに向かってるわけじゃないよね?」


わたしはその古びた建物を指差す。


建物は古びているんだけど、遠くからもわかるように青白いライトがそのあたりを照らしていた。


「あたり」

「あたり、って!! わたし、ああいうのすごくすごく苦手って言ったよね? 知ってるよね?」

「そうだっけ?」


ええええ。

忘れちゃってるんだ。

わたしの言ったことなんて忘れちゃってるんだ。


どうしよう。

こんなところまで連れてきてもらって行かないってダメだよね。


「俺んちの親父、イベント関係とかが仕事でさ、券がやたらと手に入るんだよね。そんで俺はちゃんとそこに行って入って感想とか伝えないとダメなわけよ。息子として」


そっ。そうなんだ。

えっ。

でも前にナツの家族の話になった時、お父さん、医者って言わなかったかな。


あれはナツのお父さんの弟さんだけのことだったのかな。


確か、ナツのお父さんの弟さんも医者で……。


うーん。

医者の免許は持っているけど、実際に病院を経営しているのは弟さんってことなのかな。


それでお父さんの本職はこういう事をしているという事なのかな。


でもなんでよりによって―――。


どうしようどうしよう。

せっかくのデートなのに、ここでわたしが行かないなんて言ったら二度と誘ってもらえなくなっちゃう。


「大丈夫だよ。俺、一緒に入るじゃん。俺にくっついてればいいでしょ?」

「……」


すごく苦手なんだよう。

ちゃんと言ったよう。

でもナツはわたしの話なんてすぐ忘れちゃうんだね。わたしに興味ないんだね。


それが悲しい。


「こんなの男同士で入れないじゃん。気持ちわりぃ。あ、それともカノジョじゃない子と行ってもいい?」


意地悪。

いじわるいじわるいじわる。


「い、行くよ。だ、大丈夫」


人間の作ったものなんだからぜんぜん平気だよ……ね?


もう見ただけで鳥肌が立ちそう。


そこは廃病院。

昭和初期の建物で、あまりに古くなったから移転でその病院は新しい敷地に移った。


それでここを買った業者が取り壊す前に、いわゆるテーマお化け屋敷みたいにして儲けているらしい。


大々的に広告をうってかなり東京のほうでも評判になっている。


怖いって!



本物の病院を使っているからすごくリアリティがある。

古い病院をさらに不気味に演出している。


ナツのお父さんはこういう仕事なんだ。



ナツの家はお金持ちだけど、こういう大掛かりなイベントをプロデュースする人なら儲かるのも納得できる。


けっこう列ができているけど、ほとんどがカップルだった。


そっかこんなとこに男同士でこれないのかー。

こここここれはカノジョの義務なんだね?


わたしが入らなかったら、ナツのことだから他にいくらでも一緒に入る人はいるんだよね?


「いこっか?」

「うううううん」



わたしたちは列の一番最後に並んだ。


大きい病院だからコースがいくつもあるみたいで10秒おきくらいに別コースに人を振り分けて入れている。


大勢で連なっていくわけには行かないんだ。

ナツと二人だけになっちゃうんだ。


「なんかすんごい歴史のある病院らしいよ。昭和初期って床とか板張りなんだって。面白そうじゃん」


ちっとも面白くないようっ。


「ナツ、あの入るけど、わたし、あの…」


きっとナツにしがみついて上向けない……。

イヤだよね。そんなの。


わたし達の順番が来た。


入ってすぐ冷たい空気が流れてくる。


「なっ何あれ。どういう…」


看護婦さんと思われる人がゆらゆらと歩いている。

でも今の時代のナース服とはあきらかに違っている。

もっとふんわりしたデザインの昔のドラマで見るような……。


「コンセプトが昭和初期の廃病院、らしい」

「や、やだっ」


わたしはナツの腕にしがみついた。

そこには3Dなのか、軍隊服を着た兵隊さんが大勢行進していた。


わたしたちのほうにくる。


こっ怖すぎる!! 


つまりここに再現されているのはもう今はない時代のものだ。


「あっ、なんかまた来たぞ。子供? おかっぱ頭で七五三みたいな服着てる。でも顔や手足、全部包帯巻いてる。あっ 空中に浮いてるよ」


なんでナツ、そんなに楽しそうなのー。


わたしはさらにぎゅうーっとナツにつかまって下を向いた。


早く出ようよ。もっと早く歩こうよ。

なんでデートなのにこんななの~?


「ぎゃ~~~~っ!!」


今、なんか足に触れた!! 

絶対触れた。助けてっ!!


もうとにかくナツの片腕を必死に捕まえて抱え込む。


この人にここでどっかに行かれたらわたし、腰を抜かしちゃってどうにもならないよ。

ここから出られないよ。


「面白れぇー」


「おおおお願いだからナツ、もうちょっと早く歩いてくれないかな。早く出たいよ」


「ダメだよ。俺、ちゃんと観察しなくちゃなんないんだもん。報告するために」


何で今日に限ってこんなに意地悪なんだろう。


「ぎゃあああ~~~!!」


また足に冷たいもんがっ!!


ナツの腕にひたすらしがみついて下を向いているから、何が周りにあるのかわからないけどとにかく怖い。


「あっ!! あれ、超趣があるぜ菜々子さん。遊女? 着物着崩してひきずって歩いてる。あ~なんかへらーって笑ってるよ」


「かっ解説しなくていいよナツ。ナツだけしっかり見てくれればそれでいいから!!」


「んー。だってせっかく一緒に来てるんだから一緒に楽しもうよ! お、あれは」


「ナナナナツ、さっきから足になんか……。お願い待ってるから早く出てもう一度一人で入って」

「足になんか?」


「足に、足になんかっぎゃああああ~~~!!」


わたしの足を誰かの手がつかんだ。


下を向いていたこともあって、見てしまったら、腹ばいになって髪を振り乱して、白い着物を着た女の人がわたしの足クビを握っていた。


白い着物にはところどころ血が……。


「ナ……うそ……わた……」


あまりの恐怖に意識が遠のいていく。

倒れそうになったわたしの背にナツはしっかり腕をまわした。


「大丈夫だよこんなの。バイトの学生だって」



「……」


もう口を聞くこともできない。


「ほらっ」


腰を抜かしたわたしをナツは軽々と抱き上げた。

わたしはナツの首に両腕をまわして抱きついてひたすら彼の胸に顔を埋めていた。


早く出たいよう。

なのにナツはゆっくりゆっくり歩く。


仕方ないか。

お父さんの会社の企画でちゃんと見なくちゃならないんだから。


がまんだがまん。


でも……もう二度と誘ってもらえないだろうな。

絶対イヤに決まっている。


二人で楽しもうと連れてきてくれたのに、重いわたしを抱えてずっと歩かなくちゃならないなんて。


ナツの匂い。

柔らかいいい匂い。

落ち着く。


香水とかはきっと使ってない。

でもお風呂上りみたいな、いい匂いがする・・・。


きっとパヒューム系のいいボディソープを使っているんだ。

ムスクみたいな男っぽい匂いなのに柔らかい。


でも。


わたしはちょっと安心してしまった。


だってナツの心臓は耳をつけていなくても音が聞こえるんじゃないかってくらい、バクバクとすごい早さで高鳴っていたから。


つよがったってホントはナツだって怖いんだ。



でもナツだって怖いのに、わたしは何をやってるいんだろう。

こんなにナツにしがみついて。どんな女だって思われる。


「歩くよ。重いでしょ?」


まだまだコースがあるのかな。

わたしはナツにそっと言った。


「ぜんぜん重くない。ラグビーの練習でこんなの慣れてるから」


そっ。そうなんだ。優しいんだな。ナツ。

いくら慣れてたってこんなのイヤに決まってる。


わたしはナツの腕から無理に降りた。


これ以上あきれられたくない。愛想つかされたくない。


「もう大丈夫。たっただ腕だけ貸してほしいな」


そう言ってまたナツの腕にしがみついて下を向き、ひたすら出口が見えてくるのを待った。


さすがにナツはもう、周りの情景の解説をしなかった。


「はい。菜々子さんカフェラテ」


ナツの片腕から手を離せないでわたしの腕がまきついたままの状態で、ナツは自動販売機でカフェラテを買ってくれた。


「ほら。これ飲んで落ち着きなよ」


わたしをベンチのところまで連れて行って座らせてくれる。

特設のベンチがいっぱいおいてあって、たくさんのカップルがそこで休憩を取ってる。


泣いている女の子もいる。怖いのはわたしだけじゃないよね。

仕方ないよね。


「あーあー、青白い顔しちゃって。そんな怖かったんだ。ごめんね」


ちっとも悪く思っていないような嬉しそうな声でナツが言う。


がっちりナツの腕をとってまだ離せないでいるわたし。

だって怖くて。


あの建物が見えるだけで怖くて。


「それじゃカフェラテ飲めないね。飲ませてあげるな」


ナツはカフェラテのプルトップを引いた。

わたしがこんなに怖がっているのにそれを見て面白がっている。


だってナツすごく嬉しそうなんだもん。

あきれてもいるんだ。


ニセモノだってわかってるいるお化けを怖がったりして。

そうだよね。

いいかげんイヤだよね。


「……ごめんなさい。自分で飲めるよ」


わたしはまだ心臓がバクバクいってるけど、これ以上嫌われたくなくてがんばってナツの腕を離した。


でもどうしても袖のシャツの部分を強く握り締めてしまう。

本音を言えばもうここから一刻も早く離れたいんだけど。


「何がごめんなさいなの?」


「だってせっかく連れてきてくれたのに……。わたし、ぜんぜん見れないし。ナツにきつくくっついちゃうし。あげくの果てに足に触った人がいるからって抱き上げて歩いてもらうなんて……。重かったでしょ?」


もう誘ってもらえない。

ううん。振られるかも。

面倒だって思われているにきまってるもん。


涙がでそうになるのを唇をかみ締めてこらえた。



そっとナツのシャツを離す。


高そうなシャツなのにきつく握りしめてたからそこがシワになってる。


「ごめんなさい…」


ナツは黙ってカフェラテをベンチに置いた。


呟いてナツを見上げると、何かに耐えるような怖い顔で唇をかみ締め、わたしを見つめる瞳が揺れている。


あきれられたんだ。

なんで我慢できなかったんだろう。たったあれだけの時間。


なんで平気なフリができなかったんだろう。


「あ……」


もう最悪。


ナツの白いシャツの片側には、わたしのファンデーションがべったりくっついてる。口紅まで。


「ナ……ナツ。ご、ごめんこれ。あのクリーニングして返すよ」


わたしがそう謝ってもまだナツは怖い顔でわたしを睨むのをやめない。

わたしが指した自分の腕を見ようともしない。


さっきまでわたしが怖がっていてもあんなに楽しそうだったのに。


片腕にくっついたままのわたしにカフェラテ飲ませてあげる、とか言ってふざけていたのに。


怖いけど、がんばってナツから離れたのに……。

そのとたん怖い顔になった。


本当はうっとうしいと思ったんだ。

ナツだって好きでここに来てるわけじゃない。


お父さんの仕事の関係で仕方なく。


それで、男の子とわいわい来るような歳じゃないから、一応カノジョのわたしを誘ってくれたのに。


こういうイベント、ナツのお父さんはあちこちでやっているのかな。

テーマお化け屋敷。


貞子で有名になっちゃったリンクの世界を再現しているのとか、今年は夏にむけてそういうイベントが目白押し。


もうわたしとは絶対に行ってくれない。

わたしだって行きたくはない。怖いところは苦手。


でもナツがデートに誘ってくれるのは父親のイベント関係で、『仕方なく』で、つまりこういうとこばっかりなんだ。

あんなに楽しみにしていたのに。ちゃんとメイクもして髪だって巻いて……。


でももう今のわたしはぐちゃぐちゃだ。


メイクも口紅までナツのシャツについている。

違うところに連れて行かれてもきっとこうなっちゃう。


こんなわたしナツだってさらにあきれちゃう。


「……もう、違う子を誘って行って。わたし、こういうの苦手で。ごめんなさい」

「俺が違う女と行ってもいいの?」


「だって。だって。わたしじゃナツに迷惑かけるだけで一緒にどこがいいのか悪いのかとか分析もできないし」


「ダメだよ」

「え?」


「俺のカノジョなんだから、これからもこういうイベントに菜々子さんはつき合う義務があるの。俺に公認で浮気しろって?」


「……そ……そうじゃないけど、でもわたしじゃ役目を果たせないし。ナツならつきあってくれる女友達いるんじゃないかって」

「いくらでもいるよ」


わたしは下を向いた。泣きそうだ。

涙があふれそうになるのをぎりぎり歯をくいしばって止めた。


ここで泣いたら絶対うっとうしがられる。いやもうフラれる。


「でも俺のカノジョは菜々子さんでしょ? こういうのはカノジョと来るって決まってんの。他の女じゃダメなの。俺に公認の浮気なんかさせんなよ。その女が今の菜々子さんみたいに俺にべったりくっついたり抱き上げられたりしてもいいの? まわり見てみろよ。他の女だってみんな怖がってんじゃん」


そういうナツの声がふわっと優しくなった。


さっき怒ってたよね? 

でも今はもう許してくれたの?


「わたし、異常に怖がって、ナツにくっついて……うっとうしかったでしょ? その高そうなシャツ汚しちゃったし……」


「そうだなー。悪いけどこのシャツ結構高かったんだよね」

「クリーニング代出すから」

「落ちないかもなー。口紅とかって落ちにくいじゃん」


やっぱり今日のナツは意地悪だ。

ものすごく意地悪。いつもとぜんぜん違うのはなんで?


「…………」

「来週もつき合ってくれたら許すよ。俺んちの親父、こういうイベントいくつもやってて10代の男女がどういうふうに感じるか、すげえ知りたがるんだよ。ある意味、俺の生活、かかってっから」


「……わかった」


ナツがわたしの髪をそっとなでた。

触れるか触れないかの控えめななで方。


めちゃくちゃ怖い顔をしたり強気な意地悪を言う人の触り方じゃない。


「怖いんだから俺にくっついたりするのはしょうがないじゃん。口紅ついたのだって別にぜんぜん怒ってないよ。今度んとこも怖かったらまたくっついてればいいじゃん」


「……本当?」


恐々ナツを見る。


目が合う。


 触れるか触れないかの距離でわたしの髪をなでてた手が止まり……彼はその手を拳にして降ろした。


わたしを見ると、喉仏がごくん、とはっきり動くような唾の飲み込み方をする。苦しそうな表情。


大きく息を吐き出したと思ったら気分を切り替えるみたいに立ち上がる。


「さ、行こうか。この先に夜景が綺麗なスポットがあるんだって。そこ見に行って、気分を変えてから帰ろうか? 悪いな。つき合わせて」

「……うん」


怖い。

つかまれた足首の感触がまだはっきり残ってる。


「ナツ……」

「何?」


「あの……腕くんでいい? まだ怖くって……」

「ほらどうぞ」


ナツは肘をわたしのほうに突き出した。

わたしはナツの腕をとる。


いつもの手首だけをひっかけるような腕組みじゃ怖くて。

もっと近くに寄りたい。でも……。


ナツがわたしが手首をひっかけた肘をぐいっと自分の身体のほうにひっぱった。

動きについていけなくてわたしの手は離れてしまった。

次の瞬間、乱暴にわたしの肩がナツのほうに引き寄せられた。


え? 

わたし、肩を抱かれている?


「まだこんなに震えてんじゃん。夜景とか寂しいとこじゃなくてもっとうるさいとこのほうがいい? クラブは?」

「ナツ、クラブなんて行くんだ?」


「やー、めったに行かねぇな。高校の部、引退してからちょっと通ったことあるけど。でも基本的に、俺、スポーツのほうが好きだから。んでボクシング始めちゃったから。最近はぜんぜん。でも騒がしいとこのほうが怖くないなら連れて行くよ」


「いい。夜景がいい」


踊れない。華やかな場所に慣れてない。

この服で浮かないのかどうかわからない。


ナツに……あきれられたくない。


結局ナツは、肩を抱いたまま、車のところまで行ってくれて。


はじめてこんなことをされたのに、とにかく怖くて、ときめきより感謝の気持ちのほうが強かったかもしれない。


怖がっているわたしを気遣ってくれている。


夜景のスポットに連れて行ってもらって、まだ落ち着かないわたしがナツにくっついて手首をひっかけるような腕組みをすると、彼はそっと腕を動かして、自分の身体に密着させた。


悪いと思ってるんだ。

さっきちょっとだけ肩を抱いてくれたとき、わたしが震えていたから。

無理にわたしが苦手なお化け系のところに連れてきたの。



さっきまで意地悪って思ってたけど、ナツがこんなに優しくしてくれるなら、恋人っぽいことできるなら、お化け屋敷もいいかもしれないな。


どっちみち、ナツは父親の関係のこういうとこじゃないと誘ってくれないんだし。


克服しよう。お化け屋敷。そしたら遠出デートができる。


わたしを見てもらえるかもしれない。

好きになってもらえるかもしれない。


帰り、高速がすいてたのもあって12時前に、ナツはちゃんとわたしのアパートまで送ってくれる。


わたしの家の最寄駅の前を通ったとき、レンタル屋さんの看板が前方に見えた。


わたしがたまに使ってるところだ。


「ナツ、ちょっとあそこ寄って行っていい?」

「何? DVD借りるの?」

「うん」


わたしたちは二人でレンタル屋さんに入った。

わたしはホラーとかオカルトのコーナーへ直行。


うわー。怖すぎる。


タイトルの文字だけで震えがくる。

でもこれを克服しなくちゃダメなんだ。


ままま、まず、初心者向けのそれほど怖くないやつ。


最終的には貞子の出てくるリンクだってちゃんと見れるようにならなくちゃ。

こ、これなんかそれほどでもないかも。


わたしはひとつのDVDを棚から取り上げた。


それを近くにいたナツに即座に奪われる。


「何やってんの。菜々子さん。さっきあんなに震えてたじゃん。こんなの一人で見れるわけないじゃん」


「で、でもわたし、克服しなきゃ。ナツのお父さんはイベント関連のプロデューサーなんでしょ? い一応息子のカノジョなんだから、怖いなんて言ってられないもん」


「ダメ!! こんなの一人で見ないの。トイレ行けなくなるよ」


ナツはわたしが手にとったあきらかに初心者向けと思われるDVDを棚にもどしてしまった。


意地になったわたしはそれをもう一度、棚からとりだす。


「だって克服しなくちゃ、またナツにわたしを抱かせたままお化け屋敷の中、歩かせたり、服に口紅つけたりしちゃうんだよ? ナツだってその服高かったってさっき、言ってたじゃない」



ナツはまたそれを取り上げる。


「こんなの一人でみれないって。いいよ。俺、こう見えてもすげえ力あんだよ。菜々子さんなんてぜんぜん軽いし。服も別にいいって言ってんじゃん。菜々子さんがそんなに気になるなら、次はジャージでもはおるから」


そう言いながらまたそのDVDをもとの棚にもどす。


わたしはまたとりだす。


「だってせっかくデートだったんだよ。せっかくナツから誘ってくれたのに、髪もメイクもぐちゃぐちゃになっちゃうし。次もこんななんてイヤだよ。女の子みんな可愛かったもん。わたしほどぐちゃぐちゃんなってる子いなかったもん。ぎゃーぎゃーわめいたり」


即座に取り上げられる。


「可愛かったよ。菜々子さんが一番」


少しの間があいて降ってきたナツの声は急に小さくなった。


ふん。プレイボーイめ。そんな言葉、使いなれているんでしょ。


「いいよ。他の借りるから」


わたしが他に初心者向けはないかと棚を物色しはじめた時、ナツの、さらに小さい呟くような声が聞こえた。


「これがきっと一番怖くないよ。そんなに言うなら俺と……」

「え?」


わたしが振り向くとナツは言葉を紡ぐのをやめてしまった。

赤っぽい照明のせいで紅潮して見える頬。切なげな表情。


最近ナツは急に言葉を切ったあとに、よくこういう顔をする。


「何? それが一番怖くない……って言ったの? 借りていいの? そのあとなんていったかよく聞こえなかった」

「いいんだ」


持っていたDVDを棚にもどすとわたしの腕を乱暴に掴み、違うコーナーにずかずかと足を運ぶ。


「ほら」


そこで棚から適当にDVDを選び出してわたしに差し出す。

それはお笑いコントがいくつも収録されているDVDだった。


ここはお笑いのコーナーだった。

仕方なくわたしはそれを受け取る。


「今日、怖い思いしたんだから、これ見ながら、気持ちが落ち着いたら寝なよ。つきあってくれてありがとうな」


ナツがふわっと笑う。柔らかいわたしの大好きな笑顔。


もうっ。

こういう顔をされたらどうしようもないよ。

わたしを思ってナツがこれを選んでくれた。


「ありがとうナツ」


温かい気持ちでいっぱいになって、わたしはそれをレジへ持って行った。


わたしの背にむかってナツが叫ぶ。


「俺がいない時にひとりでホラーとか借りんなよ。絶対だぞ!!」


優しいな。ナツ。


あんなに怖いところにまた連れて行こうとしているけど、それはカノジョだから仕方なくなんだ。

でもわたし一人に怖い思いはさせないでくれる。


怖いとこに行っても自分がいるから平気って言ってくれてるみたいで嬉しかった。


わたしは立ち止まり、お礼を言うつもりでちょっと頭を傾けながら笑った。


「うん!」





◇◇◇初夏 夏哉


「ありがとうナツ」


そう言って菜々子さんはDVDをレジに持っていった。

礼を言われる筋合いはまったくない。

俺は嘘をつきまくってんのにあの人はぜんぜん気づかない。


俺は下心だらけ、邪念だらけで菜々子さんをあそこまで連れて行った。

怖いDVDを借りて欲しくないのだって免疫をつけられたら困るから。


菜々子さんのためじゃなくて俺のため。

ちょっと落ち込むこともある。


俺の家が医者だってことは、前に伝えた事があったと思う。

なのに菜々子さん、忘れていた。


俺に、興味あんまないのかな。


いままでの女と違いすぎて、あの人といるとほんと調子狂う。

借りてきたDVDの袋を大事そうに両手で抱えて嬉しそうに歩く。


もう……怖くないから俺に腕はまわさないのか。


もう俺の腕は必要ないのか。


俺に……触れてくれよ。

さっきまで痛いほどつかまれていた腕が寂しい。



「ナツ、何読んでんだよ?」

「んー」


新しい棟の8階にある通称8カフェ。

健司たちの入ったGo to sea  とかいうイケてない名前のヨットサークルのたまり場だ。


俺は入っていないけど、ここで一緒にメシは食わせてもらっている。

一応俺が入っているのは、菜々子さんが所属するテニスサークル、オレンジだ。


でもいずれやめるつもりなのに、おいそれとそのたまり場なんかへ出ていって馴れ合うつもりもない。


このサークルに入る気もないけど、健司とナベの友達だからってだけの理由で、8カフェでメシ食うのにここの先輩は全くイヤな顔をしない。

 俺は雑誌に見入る。

さすがに心霊スポットはやべえよな。

あの人、ホントに夜寝れなくなりそうだし……。


でもそしたら俺と……って、それはありえねえか。

だったらんー、やっぱ次はお台場のコレかなー、『再現 リンクの恐怖』

あ、でもこの期間限定まだ始まんねえなあ。


どうしよう、来週って言っちゃったのに、困ったなー。

今は近場で「妖怪伝」ってのがあるな。


でもこれ、あんまり怖そうじゃないなー。

この間みたいにべったり俺にくっついてくれなそうだなこれじゃ。


 俺が椅子に座って片足の足首を反対側の膝にのっけるようにして組んで、その上であれこれ考えながら雑誌を読んでると、それをいきなりめくり上げられて表紙を見られた。



「うわっ。何この雑誌の特集!! ちょっとナベ見てみろよ。ナツが超ーありえねぇ特集読んでんぜー」


健司だ。


「うるせえよっ」

「どれどれ」


あーほらナベにまで見つかっちゃったじゃん。

ナベは俺から雑誌を取り上げてでけえ声で俺の読んでた場所を読み上げた。


「彼女と行く心霊スポット&お化けテーマパーク編。彼女を公然と抱きしめるチャンス」


俺はナベから雑誌をうばいとった。


「別にこの特集が見たくて買ったんじゃねえよ。こっちの服のブランド、俺好きだから!!」


「そのわりにすげえ真剣な顔して読んでたよなっナベ? さっきから生返事ばっか。あの子と行くんだろ? あの美人の先輩」


「まあな。たまにはどっか連れてかねーとな。一応」

「こういうのが好きなんだ彼女?」


「んー好き……。ではないんだけど。いやっ。俺が好きなんだよわりとこういうの。やっぱ夏は心霊関係だろ!!」


「はじめて聞いたぜ。お前がそんなもんに興味あるって。健司知ってた?」


「ぜんぜん」

「あーもう行こうぜ。次、なんだっけ? 必須の英語だよな。おくれっとうるせえじゃん」


俺は雑誌を鞄につめて、健司たちの先輩に頭を下げ、エレベーターのほうに歩き出した。


ああ。健司たちの前で見るんじゃなかったこの雑誌。

家でじっくり読んで研究しよう。


「あれっ。ナツの彼女じゃん? 三人で歩いてる。ナツの彼女も美人だけど他の二人も結構可愛いよな。ナンパする? 構内ナンパ」


ナベが言う。


「ばか。やめろよ。一人はオトコいるみたいだし」

「そっか。残念」


そうこう言っているうちに向こうが俺らに気がついた。


「ナツー」


菜々子さんが手を振りながら近づいてくる。


うわー。

今ちょっと来ないでほしいんだけど。

口の軽い、しかも空気の読めないナベが何を暴露しだすかわかんねえんだけど。



「この間はごめんね。廃墟病院のテーマパーク行ったとき」


ぎゃっ。今、それを言うな。


「あ、ああいいよ。そんじゃ俺ら急ぐからまた」

「テーマパーク? ああ、ナツとデートでもう行ってきたんだ?」


案の定、ナベが食いついてきた。

やべえ。


「そうなんですよ。あそこすごい怖いですよー!! ナツのお父さんのプロデュースじゃなかったら、わたしとてもとても」


めちゃくちゃやべえ。

汗が垂れてきそうだわ。


でも健司なら、こういう時は話を合わせてくれるはずだよな。

なのに頼みの綱の健司が……。


「へえ。ナツの親父さんいつの間に転職? お前の親父確か、医者だったよな。渋谷の病院の院長だよなー、ナツ」


げっ!! 何言ってんだ健司!!


「お? そう、いや、それが転職ってか、内部でいろいろ……、リストラ?」(嘘)


「ふーん。そんでお化け屋敷やってんの」


「んー、まあなんていうか助っ人、みたいな? 知り合いに頼まれて。親父、美術関係強くて」(嘘のうわぬり)


「じゃ、その病院のテーマパークだけで終わりなんだよな?」


「いや? なんかまた頼まれてそのあともお台場のリンク?」(嘘のうわぬりにさらなるうわぬり)


「そんで親父がやってるお化け系テーマパークの特集組んでる本とか買って研究してんの? お前がそんなに孝行息子だったとはなー」


「ちょっと健司来いっ」


俺は健司の腕を引っ張って、みんなから離れた場所まで連れて行った。


「何だよお前。何のつもりだよっ。高校ん時とか、俺が女との約束忘れてお前らと遊んじゃったりしても口裏合わせてくれたじゃん」


「そうだっけ?」


「そうだっけ、じゃねえよ。菜々子さんああいうの苦手なのに俺がいろいろ裏工作して連れてってんのに!!」

「何のために?」


何のために……ってそれは……。


「もうっ。とにかくあれは俺の親父の仕事がらみで仕方なくってことになってんの。だから口裏合わせてくれっ」


「でもナツ、考えてみろよ。長くつき合うときはああいう嘘が命取りになるんだよ。早いとこ訂正したほうがいいんじゃね? お前の口からちゃんと言ったほうがいいぞ」


長くつき合うと? 

2ヶ月も続いたことのない俺が長くつき合う? 


確かにそうすると、いつまでも俺の親父がテーマパーク関係の仕事だとか、そんな嘘はつけないよな。



「ま、お前がいつもみたいにあの人とすぐ別れるつもりならそれでもいいんじゃね?」


すぐ別れ……る?


「そろそろいつものペースだと面倒になってくる頃じゃん? お前、女にどっか連れてけとか、ああだこうだ、面倒なんだろ? もう別れんの? だったらごまかすよ?」


別れ……ない。面倒でもない。

むしろ、毎日会いたくてたまらない。触れたくて、頭がおかしくなりそう。


なのに俺の彼女なのに、菜々子さんの親友の千夏先輩にありえない約束をしてしまった。


部屋には連れ込まない、と。


だからわざわざあんな裏工作してあの人を……。




『この男のヤろうとしてることは一つしかないんだって』



菜々子さんには違うと否定したけど、千夏先輩の指摘はまさしく俺の本心だ。


『何勘違いしてんのか知らないけど、菜々子はねー、そういう軽いタイプの女じゃないんだよ』


それもだんだんわかってきた。


『千夏先輩!! もう連れ込もうとしないよ!! 約束する』


キャンパスの真ん中で大声で叫んだあの約束が、俺をこんなに辛い気持ちにするなんて、あの時には想像もしていなかった。


部屋に呼んだって、もういきなり抱こうなんて思わないよ、あの人のことは。


でもそれ以前に、すでに呼ぶ勇気がない。怖い。

俺はもう3回も菜々子さんを部屋に誘って断られている。


自分のカノジョを部屋に誘って断られたことなんて、いままでになかった。

だって、カノジョってそういうもんなんだろ?


「ナツ……?」



「ああ、うん。そうだな。俺、あの人ともうちょっとつき合ってみたいから、言うわ。でも嘘ついてたのは厳しいよな。なんかごまかしながら、修正するよ。自分の嘘は」



俺の親父がプロデュース、とか何か口実をつけなきゃ、お化けとか心霊関係が苦手なあの人を、怖がらせることが目的のイベントなんかに連れて行けないじゃん。


俺は菜々子さんたちのところに戻った。


……なんて言い訳をしよう。


もう予鈴がなったあとで、トートバックを抱きしめた菜々子さんだけがそこに立っていた。


「ナツ、行ってんぞ。あとから来る? 英語はやべーぞ。サボるの」


健司とナベは3号館のほうに歩いて行った。


「ナツ、どういうこと?」


険しい顔で俺を問い詰める菜々子さん。


「医者だって前に聞いたと思ってたんだ。でもナツがそんな嘘つくわけないと思って、信じてたのに。わたし怖いのは苦手って、あの時イベント会場で言ったじゃない」


あの時以前に聞いてたよ。知ってたよ。

だから連れてったんだよ。




君に触れたい。





ああいうところに連れて行けば、菜々子さんは絶対に怖がって俺に抱きついてくると思ったから。


だって、俺から抱きしめたり、キスしたりできないんだぞ。

千夏先輩と約束したから。


『菜々子を泣かせたら、承知しないから』


あなたの気持ちがわからないから。

また部屋に誘った時みたいに拒否されるのが怖いから。


俺の腕に手首をひっかけるような腕の組み方しかしないくせに。


そんな可愛い顔で怖い表情つくったって、ホントのことを言ってあなたが離れていくかもしれないと思えば俺は平気で嘘なんかつけるんだよ。



「手伝いなんだよ。親父の本業は医者。学生時代の友達がやってんだ。ああいう関係」


菜々子さんの目をまっすぐ見てそう言い切った。


君が悪い。

俺に触らせないくせに、君から俺に触れてくれようとしないから。


あんな腕組みなんかじゃぜんぜん物足りねえんだよ。


俺の我慢はいつまで続くんだろう。

我慢ができなくなったら、俺はいったいどうなってしまうんだろう。


「そうだったんだー。なんかわかりにくいね」


菜々子さんの表情が一瞬にして柔らかくなり、口元から八重歯がのぞく。


ズキン。


胸の内側から叩き出されるようなこの痛み。

この人といると感じるこの甘い痛みはなんなんだろう。



「ああ、説明すんのメンドくさくて。ちょっと込み入った事情があって親父が手伝ってるから」


「ナツっ。いいの? もう本鈴なっちゃうでしょ? 行かなきゃ! 英語は厳しいでしょ?」


「菜々子さんは?」

「わたしは空きなのよ。あの二人は選択の授業が入ってるから」


「じゃ、俺もサボる」

「ダメっ。ナツは行きなさい。英語なんかサボっちゃダメ!! テストで点とれないよ?」


「俺にはこの家庭教師がついてんだから、いいだろ? 眠たい授業聞くよりよっぽどいい点とれるよ。菜々子さんに教えてもらうほうが」


そっと……触れるか触れないかの加減で君の頭をなでた。


このくらいなら触れてもいい? いつも俺はそう考えている。

このくらいならいい? このくらいなら振り払われない? 


なんで君に拒否されるのが俺はこんなに怖いんだ。


「来週妖怪伝なんだけど妖怪は平気?」

「得意とは言えないけど、この間の昭和初期廃病院よりはぜんぜん余裕だと思う」


なんだ、やっぱ妖怪じゃダメか。

夏に始まる「リンク」に期待だな。


「わたし、がんばるから」


菜々子さんが下を向いて呟く。


「は?」

「もうこの間みたいにみっともないとこナツに見せないように、もっと怖いのでも大丈夫になるから。特訓するから」


「特訓? もしかしてDVD?」

「うん。真昼間に千夏たちにつき合ってもらうから」


げー。やめてくれぇー。大丈夫になんないでー。

この間、自主的に怖いDVDで特訓しようとしていた菜々子さんを必死で止めたのに。


大丈夫になられちゃ困るんだって。

だって、そしたら、君は俺の腕を抱きしめてくれない。

俺にしがみついてくれない。


俺が抱えあげることも俺の胸に顔をうずめてきつく俺の首に腕をまわすことも。


もうなくなる。


「リンクも三人で見れば怖くないねって。でもやっぱりあれは怖いよね。オレンジの男の子も呼ぼうかって」


男!! 

あの三人の中で一人暮らしは菜々子さんだけ。

男が彼女の部屋に入るのか。


冗談じゃねえ。

俺だって入ったことのない彼女の部屋になんでっ。


「いいよ。そこまでしてがんばってくれなくてもっ」


俺は彼女に背をむけて歩き出した。


なんなんだこの感情。

君を誰かに取られるかもしれないという、この胸にわきあがる不安。


いままでの女が男友達と遊んだって、俺はなんとも思わなかったのに。


「ナツ? ナツ待ってよ。どうしたの急に」


菜々子さんが俺の腕をとってひきとめる。

君の触れた場所から体中に電流が走るようだ。


どうなってんだ。俺の身体。



「ナツ……。わたしなんか怒らせるようなこと言ったの?」


俺の腕を捕まえたまま、菜々子さんが俺を見上げる。

今にも泣き出しそうに、薄い水分の膜を張って光る淡い虹彩が、俺を見つめながら揺れる。


抱きしめたい。抱きしめたい。抱きしめたい。

なんでダメなんだ。


俺の……俺の彼女なんだろ? 

なんで自分の彼女を抱きしめちゃダメなんだ。


でも怖い。振り払われるのが怖い。

だけど、絶対にいつか俺は我慢できなくなる。

そうして君に振り払われる自分が目に見えるようだ。


「別にっ」


荒れ狂い、ともすれば君を強く抱きしめてしまいそうになる自分を押さえ込むためには、乱暴にその細い腕を振り払うしかなかった。


「ナツ」


君に背を向け歩き出す。


「ナツ……」


呟くような、落胆した菜々子さんの声が聞こえる。


「わたし、ナツに迷惑かけたくなかった。またぎゃーぎゃーわめいて恥かかせたくなかった」


俺は振り向いた。


「そんなのなんとも思ってないよ。だから部屋に男をあげるのはやめろよ!!」


「わかった」


「リンクのテーマパーク、始まったら行くからな。でも映画は絶対に一人では見るなよ」


あの映画はシャレんならないほど怖ええんだよ。

簡易的につくった期間限定のテーマパークとは違う。


ホントに一人で寝れなくなっちまう。


「うん」


俺はまた歩き出した。


「やっぱ英語でるわ」


君に対して感情の制御ができない。


甘い顔して冗談を口にした次の瞬間、ズキンの波が来れば俺はそれに耐えるため、きつく唇をかんで眉間に力を入れるしかない。


触れたい。触れたい。触れたい。

君に触れたい。


この気持ちは何なんだろう。






俺と菜々子さんは、結局、リンクのテーマパークに行くことはなかった。





気がおかしくなりそうなほど、一人の女にだけ触れたいと思う、この感情の名前は簡単なものだった。


幼稚すぎる俺はそれに気づきもせずに、つまらないことで彼女を傷つけ、その結果振られたから。


振られたあとに気づいてももう遅かった。


それでも俺は彼女がまだ好きだった。

好きなんて言葉じゃぜんぜん、ぜんぜんぜんぜん足りないほど。


悲しいほどに彼女のことが好きだった。






~Fin~





















































































































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citrus age 番外編 2 菜の夏 @ayu

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