Ⅲ/放っておいてくれないガール
この学園には、二人の絶対的な
二年の天崎雨音。
そしてもう一人が──三年の生徒会長であった。
その日は全校集会があった。一年生が学校に慣れて羽目を外し始める時期なので、ここらで一回きゅっと締めておこうという腹積もりのようだ。
とはいえ、生徒にとって楽しい時間ではない。弛緩しきった空気の中、進行の女性教諭がマイクで告げた。
『生徒会長の
にわかに生徒たちがざわめいた。
一人の美しい女子生徒が、ゆっくり壇上へと上がる。
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花……とは言うが、その名前もまた負けじと可憐である。
【白菊
この学園の生徒会長であり、世界的な製菓メーカーのご令嬢。
こんな平凡な高校には不釣り合いな立場を持ち、その上で当然のように成績優秀。入学当初からこれまで、学業では一位を譲ったことがなく、全国レベルでも上位の成績を維持し続けている。
教師たちからの信頼も厚く、いずれは優秀な大学へと進学し、実家の大会社の未来を担うはずだ。まさに画に描いたような優等生とはこの少女を言うのだろう。
そんな白亜が、壇上で涼やかに礼をした。たったそれだけで、この退屈が沈殿した体育館の空気が底から浚われ、清々しい春の風に満たされていくようであった。
『ご静粛に』
ピリッとした緊張感が、生徒たちを包んだ。
その一言だけで、さきほどまでのざわつきが収まった。校長の言葉もまともに聞かない生徒たちにも、この生徒会長の声はよく響いた。
『生徒会長を務めます、白菊白亜です』
その声もまた美しかった。
生徒たちの中には、とろんとした目で見つめる者もいる。もはやこの学園の恒例となった光景。誰も不思議に思うものはない。
──
二年の雨音と並ぶ、この学園の恋愛強者。
しかし雨音とは、性質は正反対である。分け隔てなくフレンドリーである雨音に比べて、彼女は普段からそれほど他人と関わるタイプではない。しかしその浮世離れした佇まいから、生徒たちには一種の畏敬の念のようなものが生まれていた。
そんな中、白亜が来月の体育祭についての注意事項を述べていく。内容としては、それほど特別なものではない。怪我をしないように、スポーツマンシップを忘れずに、学園周辺の皆様に迷惑をかけないように……といったことである。
きっちり五分。やはり校長の話と大差ないが、こっちは時間があっという間だ。少なくとも、生徒たちはそう感じていた。
『……以上です。全員で協力し、思い出に残る体育祭にしましょう』
そんな通り一辺倒な言葉を告げるだけで、生徒たちが非常に満足げに返事をするから教師たちの立つ瀬はないものだ。
そんな白亜の話を、和泉は有象無象の生徒たちの列から聞いていた。
隣の男子生徒たちが、ボソボソと言葉を交わしている。
「白菊先輩、今日も麗しい……」
「それな。可愛いとか、美しいとかじゃないんだよ」
「恋人とかいるのかなあ」
「今度はバスケ部の吉野が告白して、玉砕したらしいぜ」
「吉野がダメかあ。じゃあ、うちの男子は無理じゃん」
昨日、合コンがどうのと言ってきた佐藤くんだ。そういえば、結果はどうだったのだろうか……いや、成功報告がなかった時点で聞くまでもないか。
(白菊先輩の恋人か……)
そんなことをぼんやりと考えていると、ふと壇上から降りる白亜と目が合った──ような気がした。
うっすらと微笑まれたような気もしたが、おそらく勘違いだろう。だってこんなに遠いのだし。
和泉はそう結論付けて、次の進路指導の男性教諭の話に耳を傾けた。
💣💣💣
──放課後。
今日も、特にこれといったこともなく平穏に終わった。
バイトが終わると、和泉は帰りの電車でうーんと考えた。
(夕飯、どうしようかな……)
近所のコンビニで適当なものでも買うかと考えていると、スマホが鳴った。その内容を見て、和泉は眉根を寄せる。
(……あれ? 今日はバイトだって伝えてたけど)
そのメッセージを見て、和泉はコンビニの前を素通りする。自分が住んでいるマンションに到着すると、エレベーターに乗って三階へと昇った。
このファミリー向けの1LDKのマンション……ただの男子高校生の一人暮らしにはもったいないと常々思っているが、用意してもらった手前、変えてほしいとも言いづらい。
こういう部分を見ると、他人より恵まれているとわかる。そんな環境に申し訳なく思いながら、和泉は自室へと帰ってきた。
鍵を開け、玄関に入った。
予想していた通り、女子のローファーが置いてあった。同時に、とてもよい匂いが漂ってくる。
(うわー。今日ちょっと寒かったし、ビーフシチューとか最高か……)
ダイニングに顔を出すと、隣室の住人が出迎えた。
「和泉くん。おかえりなさい」
学園の生徒会長、白菊白亜である。
一度は自室に帰ったらしく、ラフめの私服姿であった。髪を大きく後ろで縛り、料理しやすいスタイルになっている。ご丁寧にエプロンを着けて、新妻感が凄まじい。彼女はお玉で鍋からビーフシチューを掬い、味見をしていた。
和泉に気づくと、にこりと微笑んでくる。
学園の冷たい彼女とはまるで正反対の笑顔。
花がほころぶような光景に、甘い蜜の香りが漂う気がして……しかしそれも束の間、白亜はお玉を置いてエプロンを外す。
そして両腕を広げて、ぎゅうっと抱きしめられた。
自身を包み込むような柔らかな感触に、和泉は身体を強張らせながら……。
「た、ただいま。白菊先輩……」
「……むぅ~」
なぜかものすごく不満そうに、頬を膨らませる。その言わんとすることを察して、和泉は苦笑した。
「……白亜姉さん」
「っ!」
ぱあっと顔をほころばせる。
まるで幼子にでもするように、よしよしと頭を撫でられた。
「よくできました♪」
「あの、もう高校生なんですけど……」
「うふふ。和泉くんは、いつまでもわたくしの弟のようなものです」
「そもそも初めて会ったのが小学生の頃なんだよなあ……」
この一連の流れが、初めて互いの両親に引き合わされてからの慣例である。
えらく情熱的な挨拶を交わしている間、和泉は非常に気まずそうに視線を彷徨わせていた。
(氷姫、ねえ……)
思春期男子的には、凄まじく気恥ずかしい出迎え。それでなくとも感じるのだ。……自身の胸部に押し付けられる凄まじい存在感を。
慌ててその肩に手を添えて、そろそろと距離を取ろうとした。
「あの、白亜姉さん。離れて……」
「おかえりなさいのハグは、心を落ち着かせる効果があるのですよ?」
「たとえ学会で証明されていようとも、年頃の男女が気軽にやっていいことではないと思います……っ!」
こんなスキンシップはさすがに心臓に悪い。
(この人、プライベートになると距離感バグってるんだよなあ)
昔からこうなのである。
かつて自身がまだ実家にいた頃から、白亜は和泉に対してこんなスタンスであった。むしろ高校で同じ学校に通うようになってから、普段はあんなスタンスだと知って驚いたものだ。
しかしそんな和泉の胸中などお構いなしに、白亜が手を引く。
「バイトお疲れ様。ご飯にしましょう♪」
「う、うっす……」
一旦、部屋に鞄などを置き、私服に着替えて再びリビングに出ていく。すでにテーブルの上には、二人分の夕食の準備が終わっていた。
白亜も当然のことのように、向かい側の椅子に腰かけた。
ビーフシチューをメインに、バランスのよい献立が並ぶ。見た目も非常に華やかで、とても男子高校生の一人暮らしでありつけるようなものではなかった。
実際、和泉が一人のときは、だいぶ適当な食事が多い。そのことを見越しての、この訪問ではあるが……。
「いただきます!」
「はい。どうぞ」
さっそく食事を口に運んだ。相変わらず、非常にうまい食事だ。バイト疲れに、じーんと身体に染み渡るようである。
(この人のご飯、いつもうまいなあ……)
学園の生徒たちが聞いたら騒ぎそうなことを、のんびりと考える和泉であった。それからハッとして、慌てて礼を告げる。
「いつもすみません。白亜姉さんも生徒会とかで疲れてるのに」
「いいんですよ。自分の食事を準備するついでですから」
「でも、本当にご家族は何も言わないんですか? 娘さんがお家から離れて生活しているとか、心配しませんか?」
「フフッ。その言葉、そっくりお返しします」
「いやあ。俺と白亜姉さんは、話が違うと思いますけどね……」
和泉と白亜。
互いに日本を代表する大会社の家に生を受けた。
同時に経営戦略として長く手を組むパートナーでもある。
学園では接点のない二人だが、その関係を端的に表現するならば親の決めた結婚相手。平たく言えば許嫁である。……いや、和泉が跡取りでなくなった今は『元許嫁』となるのであろうか。
「昼間、うちのクラスの男子が、白亜姉さんに恋人がいるのかって話してましたよ」
「あのおしゃべりは、そんな内容だったんですね」
「あっ……」
痛いところを突かれ、和泉がぎこちなく視線を逸らした。
その鼻先を、白亜がツンと指で小突く。そして拗ねたように頬を膨らませた。
「お姉ちゃんのお話を無視する悪い子には、もうご飯を作ってあげませんよ?」
「すみません……」
まったくその気がなさそうな台詞に、和泉は苦笑した。
どうやら怒っているわけではない様子である。少し安心すると、ちょっとした悪戯心のままに聞いてみた。
「ちなみに好きな異性のタイプはあるんですか?」
「そうですね……」
スプーンを置くと、フフッと穏やかに微笑んだ。
「いつまでも子どもの心を持った人、です」
「世界中のヒモ志願者が大喜びする返答ですね……」
実際、こうやって元許嫁の夕食の世話をしてくれるのだ。割と本気なのではないか……と和泉は訝しんだ。
するとそんな心境を読んだのか、白亜が甘く蕩けそうな笑顔で言う。
「和泉くんのことも、たぁくさん甘やかしてあげますからね?」
「リアクションに困りますね……」
いや、嬉しいとは思うのだが。
こうやって関係が『元』となった今でも、変わらずに接してくれるのもありがたい。
ただ、さすがに女子に甘えっぱなしというのは、こう、なんだ。背中あたりがむず痒くなってしまうのだ。だって思春期男子なんだもん。
(あっ。せっかくの料理が冷めちゃうな……)
すっかり食事の手が止まっていた。再びビーフシチューを口に運ぼうとすると、白亜から視線を感じた。
「と、ところで……」
コホン、とわざとらしく咳をして、白亜が言い出した。
「先ほどから平然と召し上がっていますが、何か言うべきことがあるんじゃないですか?」
「あっ」
そういえば会話に気を取られて、一番大事なことを疎かにしていた。いくら心で思ったところで、相手に伝えなければ意味はない。
「すごくうまいです!」
慌てて言った感想に、しかし白亜は不満そうに頬を膨らませた。
「どのくらいですか?」
「え?」
予想外の切り返しに、和泉が口ごもる。
白亜はじーっと見つめてきた。まるで普通の女子のような拗ね方に、和泉は内心で大いに狼狽える。
「え、えーっと……」
その期待の籠ったまなざしは、キラキラと輝いている。
気恥ずかしさから、つい顔を逸らしてしまった。
「せ、世界で一番、ですかね……」
「……っ!?」
キューンと、白亜の胸に刺さった。
甘やかしたがりの性癖に、頬を赤らめながら恥ずかしそうに告げる年下の男というのはドストライクである。
白亜は縛った髪の毛先をくるくると指で弄び、明後日のほうを見ながら言う。
「ま、毎日でも作って差し上げてよろしいです、よ?」
「本当ですか? 嬉しいけど、そこまで迷惑をかけるわけには……」
「そ、そんなことはないです。作ります」
「あっ。でもさすがにバイトの日にこうやって待ってもらうのは申し訳ないですよ。白亜姉さんも勉強とかあるのに。次はバイトが休みのときにお願いします」
「そ、そうですね。わかりました」
なんだかパタパタと食事を終えると、何やら頬をにやけさせながら言った。
「それでは和泉くん。また作りに来ますね」
「あ、はい。ありがとうございます。片付けはやっておきますから」
白亜は自室である隣の部屋に戻っていってしまった。
一人になった自室で、和泉はビーフシチューの鍋を見下ろして眉根を寄せる。
「でもこの量、さすがに張り切りすぎ……」
明らかに大家族用の大鍋を前に、和泉は「一週間くらいこれでイケるな……」と浮くであろう食費を皮算用するのであった。
💣💣💣
和泉の家のドアの外。
白亜がニマニマしながら、赤い顔を押さえていた。
(やったあ~っ! 今日も大成功ね!)
いわば通い妻作戦。
元許嫁という立場を利用して、生活を掌握する気の長い戦術。それは功を奏して、和泉は完全に心を開いている。
年頃の男子高校生なのだ。こうして甲斐甲斐しくお世話をされて、嫌な気がするはずもない。実際、そうでもなければ合鍵を渡したりするわけがなかった。
(わたくしたちの間に、他の女の子たちが入る隙はないわ)
その始まりは、中学生に上がった頃。
周囲の人間は、自分をどうしても『世界的大企業のご令嬢』として見る。そんなフィルター越しに覗く世界は、つまらなく色褪せていた。
しかし和泉は違った。同じく大企業の子息としての軋轢に疲れていたのか。あるいは天性のものか。屈託なく笑う顔が、いまでも瞼の裏に焼き付いている。
確かに親の決めた許嫁ではあったが、自分の心は紛うことなき純愛であった。
跡取りでなくなってからは少しチャラい印象になったが、本当はあの頃のままの少年であるとわかっている。彼が無理をして道化を演じることで他人と距離を置いている事実を知るのは自分だけであった。
和泉の心は、きっと疲れているのだ。
今はそっと寄り添い、その心を癒す存在を求めているはず。そして、そんな存在になれるのは同じ苦しみを共有できる自分だけ。
今は自分も、実家のしがらみの中にいる。白亜にとって和泉と結ばれることは、絶対に失敗できない最上のミッションであった。
実家のすべてを手中に収め、和泉を迎えに行くその日まで──。
(いつかお父様の意思を覆して、絶対に和泉くんと添い遂げてみせる!)
固い決意を胸に、白亜はぐっと拳を握る。
【白菊白亜】
片思い歴『五年以上』。
そんな白亜の置かれたシチュエーションを、ある種のエンタメタイトルになぞらえて表現するとこんな感じだろうか。
『氷の女神様は、俺にだけ甘みが過ぎる~実家から勘当されたのに、なぜか元・許嫁が放っておいてくれないんですが~』
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