恋風~切なくて、吹く風すらも痛みを帯びる~

第1話

「……すみません、あの、本当に……」

「そんなに緊張するな。悪いようにはしない」


 世間にとっては、存在してもしなくてもどうでもいい存在だった北白川きたしらかわ家。

 身支度を整えてくれる侍女を控えるなんて贅沢をする余裕もなく、北白川家が見栄を張るための僅かなお金は筒路森つつじもり家と祝言を成立させる妹につぎ込まれた。一畳分の部屋に閉じ込められてきた私は、お洒落というものにもうとかった。


「あの……でも、恥ずかしいので……」

「その羞恥を取り払ってくれるか」


 送られる言葉はいつだって真摯さが込められていて、自分だけが取り乱しそうになるから恥ずかしい。


「っ、努力いたします……」


 髪に、優しく触れる人がいる。

 繊細であり、陶器のように美しくもある、その手。


「こんなご時世じゃなかったら、人々を美しく着飾る職を目指していたくらい美容への関心は高いつもりだ」

「こんなご時世……」

紫純琥珀蝶しじゅんこはくちょうが飛び交う世でなければ、という意味だ」

「…………」


 私に触れたところで、私は壊れたりなんかしない。

 それなのに、まるで割れ物を取り扱うときのような優しさで触れてくれる。


筒路森つつじもり様は……」

悠真ゆうま


 心の中では、筒路森のご当主様のことを名前で呼んでいることを見透かされたのかと思って焦った。


「君も、そのうち筒路森つつじもりの姓になるんだぞ。いつまでも筒路森と呼ばれてもな」

「……申し訳ございません」


 筒路森悠真つつじもりゆうま様のことは幼い頃から存じ上げていたけれど、その存じ上げるというのは名前を見聞きしたことがある程度のもの。


「呼び方を強制するつもりはないが、いつまでも強情を張っていると……」

「…………?」

「そのうち言い間違えるからな」

「……滑らかに名乗ることができるように努力します」


 こうして言葉を交わし合うのは、初めてのことのはずなのに。

 私は、筒路森悠真つつじもりゆうま様と過ごす時間を心地よいと感じるようになってきてしまった。


「君の人生は、努力をすることだらけだな」


 柔らかい笑みを向けてくださる悠真様を見て、私も悠真様のような優しさを心に秘めていたいなと思う。


「中途半端な生き方をしてしまったもので……」


 紫純琥珀蝶しじゅんこはくちょうと言葉を交わす前の幼少期は、華族との政略結婚を成立させるための教育を受けてきた。

 けれど、紫純琥珀蝶しじゅんこはくちょうと喋ることができると判明してからは、北白川の残された財産が私につぎ込まれることはなくなった。

 私に注いできたお金はすべて、妹が美しく生きるために使われてきた。


「中途半端な教育しか受けていないと言えばいいのでしょうか……」


 華族と政略結婚するのに相応しいのは、蝶と話せる私ではない。

 普通の生き方ができる妹の美怜だと、父は判断した。

 北白川という名を守りたいという両親は、いらなくなった私を殺すことができなかった。

 生かしたくもないけれど、殺人に手を染めるくらいなら仕方なく生きさせてやる。

 私を生かすために、両親には長年辛い思いをさせてしまったと思う。


「私が、筒路森つつじもり様に相応しい妻になれるのか……」

「自信がないか?」


 言葉を選びながら話をしている私を、悠真様は咎めることも急かすこともなかった。

 私なりの速度で言葉を選べるように、悠真様は待ってくれる。

 その気持ちを感じられるからこそ、心が悠真様へと懐いていくのが分かる。


「政略結婚から始まる関係だ」


 悠真様の言葉には棘のようなものを感じてしまうのに、私の髪に触れる際の手つきは優しい。


「互いに得るものさえあれば、そこまでかしこまる必要はないだろ」


 私を美しく着飾ろうとしてくれているのが分かるからこそ、悠真様の声で奏でられる言葉たちの冷たさに戸惑ってしまう。


「金が欲しければ、いくらでも言ってくれ」

「…………」

「そこを遠慮してどうする? 俺たちの関係は政略結婚から始まったんだ。なんでも要求してほしい」

「……努力しま……」


 何度、努力しますという言葉を繰り返すつもりなのか。

 私の言葉遣いに笑いが堪えきれなくなった悠真様は、声を出して笑いを溢れさせた。


「変に難しく考えるから君の人生は努力だらけになるんだと、よ~く理解した」


 彼が笑った瞬間、障子の向こう側にある庭園で色褪せた落ち葉が風で舞った。

 世間は薄暗さを知る時間帯になってきているはずなのに、筒路森つつじもりの庭園は夜という時間を演出する工夫が施されているらしい。

 いつ、どんなことがあっても、美しい生き方をしなければいけないという華族としての誇りのようなものを感じた。


「何も考えていないときの方が、素直に名前を呼べるらしいぞ」

「……いつ、私が筒路森つつじもり様の名前を呼んだのか記憶にないのですが」

「それは秘密にさせてくれ」


 心で、彼を名前で呼んでいることに気づかれたのか。

 筒路森つつじもりには特殊な能力が授けられているのかと焦りやら羞恥やら、様々な感情が混ざりすぎて可笑しくなりそう。

 障子の隙間から見える季節の移り変わりに目を向け、心を落ち着けようと意識したときのことだった。

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