第5話
この日、ユリは友だちの家に遊びに来ていた。
今日は不思議と体調がよく、朝から早く会いたいと気持ちがはやっていた。
柏木の家から駅まで歩いて電車を乗り継ぎ、さらに歩いた。田舎は電車を乗り継ぐのも一苦労だ。待ち時間が長く感じる。それもそのはず、一時間に一、二本は当たり前。
近頃は十分待たない内に次の電車やバスが来るのが当たり前になっていた。すっかり都会暮らしに慣れてしまったようだ。
「昔の仕事仲間とは言えおじさんのとこに行くかね? 変な遠慮せずにウチに来ればよかったのに……」
キッチンでお茶を用意している友だち────
彼女はユリの高校からの友だちで、結婚して昨年の秋に子どもが生まれたばかり。
雪華に代わって娘────
「それはできないよ。愛の巣の邪魔はできない」
「そういうとこ! ユリはさ、
やはり雪華は呆れているが、ユリのことを心配していることには変わりない。夫である美晴ともこの話題になることが多いらしい。
「正直私は今回の件、ユリばかり悪いとは思ってないよ。雅史さんは人前でかっこつけようとするし、ちょっと勘違いしてるとこあるよね。自分がユリに告白された、ユリの方が雅史さんのことが好きみたいな。彼がユリにメロメロなのはめっちゃにじみ出てんだけどね……」
「あと、ちょっとでも帰りが遅くなると私がめちゃめちゃ心配してる、って思うみたい。花梨ちゃんはあんな男に引っかかったらダメだからね?」
「まだ別れたわけじゃあるまいし……」
花梨の頭をなでてやるとうれしそうに手足をばたつかせた。最近寝返りを打てるようになったらしい。会う度成長していく小さな友人は、ユリがこの家に遊びに来る楽しみの一つでもある。
雪華はお茶を持ってきてダイニングテーブルに置いた。合わせてユリもそちらへ移動し、雪華は娘を抱き上げてハイローチェアの上に寝かせた。
ユリは花梨に手を振って笑いかけ、マグカップに手を伸ばした。
「そのおじさん本当に大丈夫? 下心なさそうな感じだけど40でしょ? まだまだ現役だって、絶対」
雪華も椅子を引き、二人の間にお菓子を入れたカゴを置く。
「全然そんな目で見てこないよ、柏木さんは」
「分かんないよ? とりあえず男女の関係にはなるんじゃないよ。ユリは一応婚約者いるんだから。やらかしたら訴えられるかもよ」
「考え過ぎだって」
夜、柏木はユリの寝室には入らない、どころか近づこうともしない。おやすみの挨拶はリビングで済ませる。
ユリがお菓子に手を伸ばしたら、雪華に強く腕をつかまれた。
「頼むよ本当に。親友が婚約者捨てて謎のおっさんと結婚したら複雑すぎる」
彼女は首をブルブルと振って目を細めた。ユリは大げさな親友の姿を笑い飛ばす。
「絶対ないよー!」
「それならいいけど……。いつかは帰るんだよね?」
「分かんない……。自分がどうしたいのか分かんない。最初は絶対帰ってやらんって思ってたけど、だんだん怒りも薄れてきて……。でも素直に帰るのもやだ」
ユリは肩をすくめてうつむいた。
「連絡は? 鬼電あったんでしょ」
「まぁ……。全部無視してるけど。最近、連絡できるようになったらちょうだい、って来たかな」
「うんわ怖。ユリって本気で怒るとひたすら無視だよね……。本当に怖いわ」
「だってぇー……」
「はいはい分かってる。そんだけ怒ってんですよってことね」
「……正解」
「あんま嬉しくない」
お互い苦笑いし、それぞれお菓子を手に取った。
大人たちの難しい話のせいか、花梨はハイローチェアの上でうとうとしている。
「ままま。私のことはいいから。最近どう?」
「まだまだこんなに小さいからね……。連れて歩くのはなかなか。買い物は美晴が休みの時に三人で行くようにしてる」
「雪華のお父さんお母さんも共働きだよね。頼りづらいよな……」
「まぁ端から頼る気はないな。頼ったのは出産の時くらい」
雪華は高校時代からしっかりしていて、なんでも一人でこなすタイプだった。正直、宿題を写させてもらったのは二、三回どころではない。係の仕事を手伝ってもらうのもしょちゅうだった。
「さすが過ぎる……。花梨ちゃん、このお母ちゃんがしっかり守ってくれるからね。親友歴十年以上の私が保証する!」
花梨はきょとんとした顔で話しているユリのことを見ていたが、彼女が小さな手をそっと持って上下させるとにこにこと笑った。
ユリが雅史と知り合ったのは、大学に入学した友だちがきっかけだった。大学の学園祭に遊びにおいでよと誘われ、仕事も休みだし軽率に行ってしまおうと思い立った。
高校の卒業式以来に友だちに会えて楽しかったし、大学生活を満喫している彼らがうらやましくもなった。勉強もバイトも恋愛も……とたくさんの経験を重ねている彼らはキラキラしている。
再会を喜ぶのも束の間、”せっかくだからサークルも見に来て”と連れていかれた。そこのOBとして遊びに来ていたのが雅史だった。
彼は四つ上だが音楽の趣味で意気投合し、すぐに付き合うようになった。ユリがこの人を離したくないと思ってしまったから。
その場で連絡先も交換した。すぐに会う約束を作り、初々しくデートをしたのが懐かしい。初々しいのは主にユリの方だけだったが。
第一印象は、”やっぱり大人だなー”。だが、実際に一緒に過ごすと彼には自分より子どもな部分が多かった。
だまっていると物一つ買うのも、外食で料理一つ頼むのもかなり時間をかけている。
一緒に住み始めてからは、洗面所や寝室の電気をつけっぱなしにするのが気になるようになった。注意したり、こちらが消すと言い訳を並べられる。
郵便物は見たらそのそのままテーブルに放置。チラシくらい捨ててくれ。
「もー何してんの」
「ご、ごめん……」
珍しく郵便物を自分で片付けていると思ったら、住所がはっきりわかる状態でゴミ箱へポイ。ユリはそれを回収して住所の部分をハサミで細かく切った。
彼女の作業に、雅史は肩をすくめながら首をかしげる。
「でもこんなしょうもない個人情報知られても……」
「しょうもなくても私は嫌だ」
今思えば、小さくても分かり合えないことが積み重なってぎくしゃくしていったのだろう。
柏木は太陽の位置がだいぶ高くなった頃に起き出した。今日はユリが来てから初めての休みだ。
リビングでは彼女がソファを独占してハードカバーの本を読んでいた。
「あれ。本持ってきてたのか」
「あ、おはようございます。これは友だちの家に遊びに行った時に買った本です」
「ほー……」
彼は棚からコップを取り出すと浄水器から水を汲んだ。
これはある日帰ってきたら取り付けてあったもの。ただの水道水はおいしくないから、とユリが言っていた。柏木も浄水器を気に入ったのでいい機会だ。もちろん浄水器代は返した。
「本か~……。もう老眼で細かい字なんて見たくもない……」
「え、もうですか? なんかすごくおじさん……」
「だからおじさん言うな」
柏木はボサボサの髪をかいて冷蔵庫を開けた。扉側のポケットに入った調味料が揺れる。卵のケースも活用されている。
ユリが来てからは飲み物以外の食べ物も常備されるようになった。タッパーに入った常備菜まである。
何を食べようかぼんやりしていると、ユリが冷蔵庫の扉越しに顔をのぞかせた。
「何か作りましょうか? 卵もベーコンもあるし……。食パンもありますし」
「じゃああれ作ってくれよ」
柏木は目を細めながらスマホを操作した。寝起きにスマホの画面はやけにまぶしく感じる。またユリにおじさん呼ばわりされそうだ。
いつしか松嶋に見せられた画像をユリに見せると、彼女はコンロの前に立った。
「あー、いいですよ! 簡単だけどテンション上がりますよね」
松嶋はSNSが大好きで、流行りの動画やらバズっている画像なんかに詳しい。それを仕事の合間に逐一見せてくる。
「私もお腹空いたからついでに作っちゃお」
ユリは流しの下からフライパンを取り出し、冷蔵庫を開けた。
”邪魔です”と押しのけられ、柏木は流しの横に移動した。
元妻にも、彼女が料理をしている時にキッチンに入ろうすると追い出されたものだ。
「……なんか、若い嫁さんが来たみたいだな」
思わずポツリとつぶやいた。こんなことを言うつもりはなかったのに。セクハラ発言になるかもしれないのに。
「またおじさんみたいなこと言ってるー。勝手に一人で話してて下さい」
慌てて口を押さえ、なかったことにしようとしたがユリはくすっと笑った。もしかしたら柏木の都合のいい解釈かもしれないが。
ユリは穏やかな表情で火をかけ、フライパンに油を流しいれた。
なんですか、と言いたげな表情で彼女が見上げる。が、すぐに視線をそらして卵を二つ割り入れて手を洗い、食パンをトースターに二枚セットした。
「おー。仕事はやー……」
「まぁまぁ。よくやってることですから」
その間に皿を取り出し、フライ返しを用意した。
自分は邪魔でしかないと察した柏木はソファにどかっと座り、やはりそこからユリのことを見守っていた。
彼女はあっという間に用意し、柏木の前に皿を置いた。そこには食パンの上に目玉焼きをのせたもの。あとからキャベツの塩昆布漬けも出てきた。
「野菜も食べるようにして偉いな。俺なんかせいぜい、弁当のたくあんとかしば漬けくらいしか食わねぇ」
「漬物の食べ過ぎは塩分の摂りすぎになりますよ」
ユリが来てからは、妻がいた頃のようにバランスよく毎日三食食べている。
最近は洗濯物がたまることはなく、トイレに髪の毛が落ちていることも風呂の床にピンクカビを見た覚えもない。一人では家事もろくにできないことを痛感した。
「お嬢はずっと実家にいたんだっけ?」
「はい」
塩コショウがかかった目玉焼きとトーストはよく合う。半熟の黄身が皿にこぼれ落ち、ちぎったパンの耳で拭った。
「……の、割りにはなんでも自分でやれるな」
「私のとこは親が厳しかったので。できることは増やせって感じでした」
「ふーん……」
柏木はキャベツをポリポリとつまんだ。ほどよく漬かっていておいしい。塩昆布がいいアクセントになっている。
彼女の皿を見るとトーストしかのっていない。バターすら塗られていない。
「……やっぱり食欲はないのか」
最近はめっきり食べる量が減った。顔色は相変わらず悪いし、突然トイレに駆け込むのは日によって回数が違う。
「吐き気は?」
「今は平気です。ご飯作るのも短時間だったら平気ですし」
婚約者から離れたのに(自称)ストレス性の症状は治まらないらしい。
「薬は?」
「まだ……」
「は? ……おい、お金は俺が出すから病院に行くぞ。どうせ保険証ないからって渋ってんだろ」
「大丈夫ですから! ……体調悪くても平気ですから」
無理やり連れて行くにしても、彼女は頑なに拒否する。こっちはいつか倒れるのではないかと気が気でないのに。
突然やってきた娘の体が心配だった。
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