第16話 春の嘘。庭園に咲くのは、約束の花。 2
汗ばむ夕方の空気の中、長岡はバスケ部の練習に参加していた。
動きにはいつもと違う迷いが入る。部活の仲間たちもそれに気がついていた。今日の長岡が心ここにあらずとする理由は、クリスに関する学園内の噂に他ならない。壁に背を預けて、タオルで汗を拭いた。
「……だめだ、集中できない」
柳はバスケ部の使用する体育館の脇を通りかかった時、長岡とその部活仲間の会話を耳にする。
部活の仲間は、長岡の異変に気を取られていた。
「おい長岡ぁ、お前クリスとあいつの噂聞いたか?」
一人の仲間が遠慮なく口にしたその一言が、柳の耳にも届く。長岡は一瞬言葉を失い、その後重い声で答えた。
「……聞いたよ。でも、噂の相手と東雲のことをクリスがどう思ってるかは、クリスにしか分からないだろ。俺がとやかく言うことじゃない」
その会話を聞いた柳は、大きく動揺した。
クリスに関する噂が、こんなにも簡単に彼らの間で語られているとは……それに、噂の内容とは?
いや、何かを囁く声が、自分が登校する姿を見ていた生徒から聞こえてきた気がする。そのまま目を閉じて、彼らの発していた単語を思い出した。
SNS、図書館…………それに、浮気、三股……。
あまりに自分から遠い言葉が続いたために、本や映像の中の話をしているのだと思って気にもとめなかった。
柳はその場を離れ、一人で考え込む。クリスは確かに、ここ数日はその青空のような瞳を、珍しく曇らせている様子だった。三股? ……まさか。
存在だけは認識している校内コミュニティにアクセスし、その単語を検索した。そこには、ありえない写真が数点並んでいる。
トップヒットした注目度の高い発言を掻い摘んで流し読むと、どれも自分とクリスのことを前提に、クリスが三人の男子生徒の誰と付き合っているのか、という内容が多くを占めていた。
交際? クリスタルが自分よりも親密に接している男子生徒には覚えがない。
写真を見ても、おそらくクリス本人すら話したことのない男子生徒だ、と思った。
突然降って湧いた噂話。しかしこの写真が真実のように見えるほど精巧で、それが校内の多くの生徒に知れ渡るほどに、既に根拠となりつつある段階なことに気づく。
長岡の心情に思いを馳せながらも、柳はクリスに直接話を聞く決意を固めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
放課後、クリスが教室に残って教材をまとめていると、数人の生徒がこちらをちらと見てささやきあう声が聞こえた。写真のことはもちろん、そんなものを撮った覚えもない。
傍らに映っていると噂されている男子生徒も、自分とあれだけ親密に話をしたことがない。そもそも、名前も知らなかった。
本当に迷惑な言いがかりだ。偽の写真を作るなんて。
影山と数人の生徒が彼女のもとに近づいてきた。彼らは学園内である意味一目置かれるグループの一員であり、周囲にいたクラスメイトは自然と距離を保とうとする。
その中心で影山は、クリスに対して計算された笑顔を浮かべながら言葉を投げかけた。
「桐崎さん、ちょっといいかな? 俺たち、今日みんなでカラオケに行くんだ。君もどう?」
影山の声には表面上は親しみやすさがあるものの、その裏にはクリスを追い詰めようとする隠れた意図があるように見える。
何かを知っているわけではなかった。単なる直感だ。この微笑みは嘘に違いない。
クリスは長年にわたり柳の表情を追ううち、他人の表情の裏にある別の感情を、意識すればかなりの精度で読み取ることができるようになっていた。
一瞬戸惑い、彼らの提案にどう答えるべきか考え込んだ。しかし冷静な自分とは別に、今向けられた突然の誘いに圧倒され、どう反応すべきか、惑う。
影山の仲間たちも口を開き、「そうだよ、桐崎さん。遊ぼうぜ!」「みんなでワイワイやりたいんだよね。来てくれたら嬉しいからさ!」と次々と言葉を重ね、捲し立てる。
彼らの一斉となった誘いに心を乱され、急に自分に向けられた注目に圧倒される。内心で強い不安と迷いを感じながらも、断る理由を探していた。
「……えっ、と……あの」
しかし、彼らの期待に満ちた眼差しと、自分を取り巻く視線の数々に押し負けそうになる。
リリアと鞠也は委員会の呼び出しが入ってしまったため、こんなときに限って不在だ。
もしかすると、これも影山の策略かもしれなかった。あれだけ精巧な写真を準備するような周到さがあるなら、それくらいの仕込みをしたとしても納得のゆく話ではある。
そんな余計な考えがぐるぐると頭の中を巡る。
「えっと、私、今日はちょっと……」
クリスがためらいがちに答えようとしたその時、教室に入ってきた柳がクリスの困惑した様子に気づく。柳はクリスにただならぬ事態が起きていることを直感し、こちらへ歩み寄った。
「クリス? どうしたの?」
ざわめきの中を通り過ぎて、柳の声が届いた。
その声には真摯な心配が込められており、クリスは柳の姿を見て、ほっと一息つくことができた。
「チッ……なんだよ。まあいいか…………またね、桐崎さん」
影山たちは柳を見ると退散し、クリスを取り巻く圧力は和らいだ。
「……知り合い?」
柳は、微笑みながらクリスに聞いた。返答は明白である。黙って首を振った。
常に噂の種にされ、クリスは今日一日でかなり気力を消耗している。
柳が関係しない噂なら、なんということはなかった。しかし柳が絡むとどうにも弱くなってしまう。
「ちょっといい? こっち……」
教室のざわめきから離れ、柳はクリスを静かな庭園へと連れ出してくれた。廊下を過ぎる間も、周囲の視線が痛い。
渡り廊下に出ると野外の柔らかな空気が二人を優しく包み込むが、クリスの心は冷え切っていた。その不安を隠そうとしても、その緊張は肩に、足先に現れてしまう。
「……大丈夫? ねえ、一旦落ち着ける場所に出よう…………ね、大丈夫だから」
どうしても震えてしまう手足。柳がそっと触れて引っ張ってくれたが、緊張が伝わっているのではないかと、クリスは気が気ではなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
庭園の入口は意図的に目立たないように設計されており、知る人ぞ知る秘密の場所だ。
ベンチがいくつか設置されており、訪れる人々が休憩や読書、思索の時間を過ごすための静かな場所となっている。今は無人だ。
柳は一人になりたいとき、心を落ち着けたいとき、ここで読書をすることもあった。
小道を抜けると、まるで別世界に足を踏み入れたかのような静けさと美しさに包まれる。
丁寧に手入れされた芝生が広がり、小さな池が来訪者を歓迎する。柳はここを好んでいた。池の水面は周囲の緑や花々を映し出し、静かに時間が流れる様子を感じさせていた。
庭園に足を踏み入れると、クリスは柳が何を言おうとしているのかを察し、深く怯えているようだった。
「足元、気をつけてね……ここは園芸部の庭園なんだ。居心地がいいよ。あと、校舎側から見えにくい。…………ここなら落ち着いて話ができるね」
「柳……」
「ん?…………ここでいい?」
柳が尋ねると、クリスは僅かに頷いた。
「うん……」
しばしの沈黙の後、柳が深く息を吸い込む。その音にクリスは沈黙を保つことができなかった。だからなのか、弾かれるように口を開いた。
「SNSのこと?」
クリスの声には恐れとともに、柳に対する深い信頼が込められているようだった。誤魔化そうとしない彼女の一言。柳は、丁寧に考えながら返す。
「……やっぱり、そのことで元気がなかったんだね。それにさっきの、あの人達に……何を言われたの?」
「……柳も聞いたの?」
「ううん、ごめん。僕は教室に入るのが遅れて……」
「……そのことはいいの。その……噂のこと」
クリスが尋ねる。正直に、柳はゆっくりと頷いてみせた。
「うん。バスケ部の人が話しているのを聞いたんだ、たまたまね。なんとなく周りの様子がおかしいとは思ってたんだけど」
なるべく柔らかく、彼女の不安を拭い去れることを願って話す。
「そ……そうなんだ……」
クリスの声は一層小さくなった。
彼女は曖昧な笑みを浮かべてみようとするが落ち着かず、金色の長い髪に無意識に手が伸びている。
それは不安を感じた時に発する無意識のサインでもある。彼女の心情を慮って、あえて断定的な言葉尻で発言することにした。全ての重荷を預けて欲しい。
「実は、内容も知った。でも、クリスのことは僕が一番良く知ってる。本当かどうかなんて、クリスに聞かなくたってわかるよ」
柳は、声に揺るぎない信頼を込めた。クリスは耐えるようにしながら声をあげる。
「…………う、噂なの……写真だって……全然、全然身に覚えなんてないんだよ。私……私、あんな………………!」
「……わかってる。クリスが困ってるなら、僕はずっとそばにいたい」
彼女を包み込むように優しく、力強い声になるように。声帯と口腔をコントロールし、最適な言葉を選びだして発した。
「や……なぎ……」
「誰の仕業かはわからないけど、一緒に乗り越えようね」
「ご……ごめん。ごめんね柳……! 多分、私が巻き込んだんだと思う……あのひとたちに目をつけられたかも…………」
「なんで謝るの? 当たり前のことだよ。というより、多分これは僕のことを考えに入れた嫌がらせでもある。クリスのせいじゃない。巻き込まれたとも思わない。僕のせいかもしれない。どっちにしても、クリスが困っていたら絶対クリスのことを守るって決めてる。ね?」
「……あり……がと……」
クリスの声は震えていた。どこからか飛んできた花びらがゆっくりと舞い落ちる中、彼女の肩に触れた。ベンチにそっと誘導する。
「うん。クリス、座ろう?落ち着くまで、ここにいようね」
クリスは小さく頷いた。柳は、クリスが心を落ち着けるのを静かに待つ。
「柳……あんたほんと、かっこいいやつだよ」
ベンチに腰掛けるクリスと、いつもよりほんの少しだけ近い距離でその気配を伝えようとした。手を握ったり肩を組んだりは、しない。
「えぇ? どうしたの? 突然。らしくないよ。やっぱりかなり参ってる?」
クリスはくすくすと、小さく笑った。小鳥が囀って、更にその笑顔を飾り立てているようだと思う。
「……ふふ、ううん。ぜーんぜん。大丈夫になった」
クリスタルは、こちらをむいて微笑んだ。柳が大切な笑顔、そのものだった。
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