ミュージックパラダイス
帆尊歩
第1話 フィナーレを飾る花束
「最近どうしているの」と私は遙人に尋ねた。
「しがないピアノ教師さ」と、遙人は紙コップのアイスコーヒーを一飲みして明るく答えた。
「そうなんだ」と私も一口飲む。
ちょっとおしゃれなカフェで、かつての恋人、遙人とお茶をしている。
「ああ、今は楽器店の中の防音室で教えている、最近は家にピアノがある子が少ないし、あっても電子ピアノだったりするから、先生鍵盤が重くて弾けませんだって」私はその話に大笑いをした。
「おいおい冗談じゃないんだからな。本当の話」
「えー、そうなの。じゃあ、練習は?」
「だから楽器店の防音室」
「だって練習してこなければ、指導できないでしょう」
「今はそういう時代じゃないんだよ。俺の目の前で練習するの」
「そうなんだ」
「俺等の時とは違うんだ」
「へー」と私は感心した。
「結婚はしたの?呼ばれていないけれど」とあたしが言う。
「呼んでいないと言うことは、してないと言うことだろ」
「どうして?」
「加奈子だって、一人だろう。アッでも誰かいるのか、ピアニストだもんな、もてるよな」
「それが、全然。普通の人は、ピアニストって言うだけで引くし、あたしも余裕がないし、ピアニスト仲間はライバルだし」
「ああ、そんなもん。やっぱり、売り出し中は一人の方が良いのかな」
「そいう感じもあるかな。でも今は少し余裕が出来てきたけれど」
「それは良かったね」
「だから俺は身を引いたんだなんて、思っていないよね」
「あっ、いや」
「思っていたんだ」
「あっ、いや」
「あっ、いや、しか言えないの」
「あっ、いや」と言われて、あたしは頭を抱えた。
「あっ、凱旋公演の成功おめでとう」と気を取り直したように遙人が言う
「うん、ありがとう」遙人の声のトーンは下がる。
きっと遙人は私が何を言いに来たのか分からず、戸惑っている。
仕方なくあたしは遙人に気を遣わせないように、必要以上に明るく話す。
遙人は潔く身を引いたと思っているようだけれど、私からすれば私の方こそ遙人から捨てられたくらいの感覚だ。
「結構、稼げてる?」遙人が冗談ぽく言う。
「全然。でもスタンウェイ買ったよ」
「稼げてんじゃん。俺、弾いたことないけれど。やっぱ良い?」
「凄く良い。でもあたしがお金出したわけじゃない、レンタルみたいなものかな」
「へー、でも世界のトップブランドのピアノだからな、一千万位するだろ」
「だからあたしがお金出したわけじゃないから」
「でも、加奈子が活躍出来て良かった」これが本心だと言うことは、遙人の話し方で何となく分かった。
私は、ちょっと安心する。
遙人とは音大に入ったときからの付き合いだ。
小さいときからピアノをやって、お互いに期待されて音大のピアノ科で学んだ。
あの時はどっちも自信満々で、お互いにピアニストを目指していた。
付き合い始めてすぐのころ、遙人が冗談で、認められた方に花束を贈ろうと言い出した。
「いいね。そうしよう」と私は答えた。
でも次の瞬間、遙人は急に真面目な顔をした。
「でも、それはフィナーレを飾る花束だ」
「どういうこと?」
「認められれば、お互いが邪魔になる」
「さらに分からない」
「加奈子が認められたとする。海外留学とか演奏会とかが入れば俺のことなんかに気を掛けていられない。だからフィナーレの花束を送って終りにする」
「なによそれ、終わりってなによ、関係が終わるって事?別れるってこと?」と私は言ったけれど、確かにそうかもしれないと思った。
駆け出しは忙しい。
自分の事で精一杯だ。
彼氏、彼女のことなんか考えていられない。
そしてもう一つ、どちらかが認められたら、認められなかった方も、認められた方も、きっと気まずい。
「遙人が認められるかもしれないじゃない」
「そういうことだってある」
「じゃあ、その時はあたしが遙人に花束を送って、あたしたちの関係を終わらせるという事?」
「そういうこと」
「そんなこと」
「それがフィナーレを飾る花束を贈るということだ」
そんな訳分からない事を言われて、はいそうなんですか、なんて言えなかったけれど、まだ音大に入って間もないことだったから、そのまま聞き流していた。
そしてそんな事を忘れてしまった。
でも大学四年の最後のコンクールで私は優勝した。
このコンクールは若手ピアニストの登竜門的なもので、優勝すると特待生として海外留学の切符が手に入る。
優勝が決まった瞬間、あたしは誰より遙人に喜んで貰いたかった。
遙人は会場にいるはずだった。
遙人は一次で敗退していたから、ここにいる必要はなかったけれど、来ていると私は確信していた。
なのに、遙人は大きな花束を人に託して姿を見せなかった。
メッセージには、
「おめでとう。輝かしい未来のために、フィナーレを飾る花束を贈ります」と書かれていた。
大学に入ったときのあの約束を思い出した。
その時あたしは、慌てて遙人の後を追ったけれど、おめでとう、と何人もの人に握手を求められ、観客にもみくちゃにされて、遙人の後を追えなかった。
やっとなんとかその渦を抜けようとしたら、今度は表彰式で戻らざるをえなくなった。
結局私は、遙人を見つけることが出来なかった。
そしてその日を境に遙人は私の前から姿を消した。
私も留学の準備やらで忙しくて、遙人を探さなかった。
どこかにむしろ、私の方こそ捨てられたと言う思いがあったから。
それから十年の月日が流れていた。
私は何とかプロのピアニストになり、世界中を渡り歩いていた。
そして、今回凱旋コンサートと言うことで日本に帰ってきた。
どうしても遙人に会いたかった。
あたしは急に真面目な顔になって、遙人の顔を見た。
「遙人はあのコンクールの時、あたしにフィナーレを飾る花束を贈って、どう思っていた」
「どうって。加奈子にとって俺は邪魔になるだろうから、身を引いたつもりだった」
「嘘だ。あたしに対するやっかみがあったんだよね」あたしは、凄く嫌な言い方で言ってみた。
遥人の反応を見たかったから。
「違う」と遙人は怒ったように立ち上がり否定した。
「だったら、面と向かっておめでとうと、言って欲しかった」言ったとたん、私の目から涙がこぼれた。
「いや。だって俺がいたら、気も散るし、邪魔だろうし、新進気鋭のピアニストに男がいるなんて、イメージダウンだろうし」私の涙にあわてた遙人はしどろもどろになりながら、訳の分からない言い訳をする。
「それでもあたし、遙人におめでとうと言って欲しかった。あの時ピアノを弾き終わった時、あたしが何を思っていたか分かる?」
「あっ、いや」
「遙人、見ていてくれた。やったよ。今までで一番うまく弾けたよって」
「いや、ごめん」遙人は私の気迫に押されたのか、力なく言う。
「本当に悪いと思っている?」
「思っている」
「じゃあ」と言って、私は隠しておいた大きな花束を遙人に渡した。
「これは」
「メッセージがついている」
「フィナーレを飾る花束?なんの?」
「遙人があたしに距離を置いたことの。これであたしたちの距離はフィナーレ」
「いや俺なんか、しがないピアノ教師だし、俺のことを気に掛けたら、ピアノに集中できないし、新進気鋭のピアニストに男なんていたらイメージダウンだし」
「あたしは、遙人から。
うまく弾けたなって、言って欲しかった。
良く出来たって、言って欲しかった。
頑張ったなって、言って欲しかった。
そして
おめでとうって、言って欲しかった」
「ああ、なんかごめん」
「それだけ」
「では、このフィナーレを飾る花束は、俺たちの距離を終わらせるということで、いただくことにいたします」
「うん、よろしい」
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