第1話 その時、月は動いた

関東圏内の某地方都市のとある駅裏にある歓楽街。時は六月半ば、シャツを通してじんわりと肌を濡らす湿気が鬱陶うっとうしくなり始めた季節の午後7時過ぎ。居酒屋やスナック、ラーメン屋などが雑多に軒を連ねる通りを一人の男が静かに歩いて行く。


男と言っても年の頃は16、7歳だろうか、まだ少年と呼んでいい風情があった。

身長は170台後半と言ったところで今どきの同世代の中では平均より少し高くはあるだろう。眼が隠れるほどに長く伸びた前髪を湿った宵風に靡かせながら真っ直ぐ前を見て歩いている。不思議な事に行き交う酔客の間を縫って進みながらその歩みにはまるで乱れが無い。ただ普通に歩いているだけなのに一種の優雅さすら感じられる動きだった。


とは言え違和感はある。これが予備校、ゲーセン、本屋、コンビニ、飲食店等と中高生の集まる場所が山ほどある駅前の繁華街なら当たり前の光景だが会社帰りの酔客でごった返す駅裏の歓楽街で高校生と思しき少年がうろついているのは余り見掛けない状況だろう。そこを見計らったように少年に声を掛けた者があった。

獲物を捕らえるための粘着力を甘い響きで包み隠した声、それは張り巡らされた蜘蛛の糸の如き声だった。



「ねえ、あんた高校生よね?」



声を掛けたのはまだ若い女だった。所謂、ヤンキー系の女子だ。目元を中心に気合の入ったキツメの化粧をしているため実際の年齢は分かりにくいが少年とあまり大差ない歳ではないかと思えた。



「え…ああ、そうですが。」


「何年生?」


「一年生ですけど。」


「ふーん。じゃあ二ヶ月前に入学したばっかりの新入生じゃん。」


「まぁ・・そうです。」


「こんな所で何してんの?」


「え……いや…ちょっと探してる場所があって」


「探してる場所? 何処なの、それ?」


「・・・・・・・」



少年はその問い掛けには答えず黙ってしまった。しばしの沈黙が二人の間を支配する。その沈黙を破って乱入してきたのは数人の女性だった。



「どうしたの? 美佳。何かあった?」



大通りの枝道である路地裏の暗がりから現れたのは美佳と呼ばれた女と同類の雰囲気を持った女達。髪型や体型に個人差はあるものの煽情的な服装と派手なメイクは共通している。



「この男子が何かの場所を探しているんだって。新入生らしいんだけど・・」


「場所? それって家なの、それともお店か何か?」



二番目に声を掛けて来たショートカットの女が訊ねた。再び訪れた沈黙が気まずくなったのか少年が仕方なさそうに応えた。



「・・・・・店です。占いとかの」


「何だ、早く言えばいいのに。私等の仲間にこの三丁目界隈にすっごく詳しいのが居るから訊いてみたらいいさ。こっちだよ、ついて来て。」



美佳と言う女とショートカットの女が先導して路地裏へと進んでいく。残りの女達は少年を囲むように動き始める。少年は特に気後れした素振りも見せず付いて行くことに決めたようであった。

先を行くショートカットの女が美佳に小声で話しかけた。



『へん、いいカモみつけたじゃない。見た目もなかなかイケてるじゃん。』


『まぁ金持ってるかどうかは分かんないけどね。』


『今持ってなくったって後で持ってこさせれば良いし。その辺は男達の仕事だからなんとかするっしょ。 後はあたしらがこの坊やをしっかり躾けて何でも言う事を利く忠実なワンちゃんに仕立て上げればOKってわけじゃん。』


『ハン、ひょっとして沙織は金よりこの男子の身体を玩具にして楽しむ方が気になってんじゃない?』


『ちょっとばかし鈍い感じはするけどさ。背は結構高いしガタイも引き締まっててスタイル良いしね。鼻筋通ってるし唇もちょっと肉厚で野性的だし・・・

眼が前髪で隠れててよく見えなかったんだけどさっき近くでチラッと覗き込んだらなんと・・瞳が蒼っぽい灰色なんだ、ほらブルーグレイとかいうやつ。カラコンでも入れてんのかな。じゃなかったらハーフかもしんない。』


『有金吐き出させたら素性も吐き出させようか? ついでに他のも一緒にね、ヒヒッ。』



禄でもない灰汁あくどい企みを隠した不良女達ヤンキーギャルズが路地裏を伝って少年を連れて来たのは左右を廃店舗に挟まれてひっそりと建つ小さな神社だった。人気の無い境内の奥には古びた拝殿がこじんまりと鎮座している。箱庭を思わせるオモチャみたいな神社であった。規模からみて恐らくどこかに本殿を持つ大きな神社の支社、一般に御旅所おたびしょと呼ばれるそれの一つであろう。


美佳が小さな石を拾ってそれを拝殿に向かって投げた。石は拝殿扉にぶつかるとガッと音を立てた。するとその拝殿扉が開いて中から三人の男たちが出て来た。堂の中からこぼれる蝋燭らしき灯りがその姿をぼんやりと照らし出した。

三人とも髪は金髪で耳と鼻にピアスを付けていた。うち一人は肘から下に蛇が絡みついたようなタトゥーを入れている。どう見ても柄が良いとは言えない連中であった。



「オウ、随分早かったな。手頃なのがいたのか? なんだ、なりはでかいがまだガキじゃねえか。何処で見つけて来たんだ?」



男達の一人がそう訊いて来た。龍の図柄をプリントした暗紫色のロンTを着ている。背はあまり高くはないがTシャツの生地の下には盛り上がった筋肉をみっちりした脂肪が包み込んだゴツンとした身体があった。柔道かレスリングの経験がありそうな雰囲気を持った男だった。沙織が男に答えた。



「そこの十六夜いざよい通りを独りでブラブラしてたからあたしと美佳が声を掛けてここへ引っ張り込んだのよ。何か占いの店を捜しているんだってさ。タカシ、あんたこの辺の事に詳しいじゃん。 占いの店とか聞いたことないの?」


「占いの店だぁ? この満月町の三丁目辺りにそんなもんあったか? 路上占いのオバハンなら時折見掛けるけどよ。何て名前の店だ?」


「……パンドラのはこ。」



少年がぼそりと呟いた。諦めが混じったような冷めた口調だった。



「パンドラの匣? 知らねえな。おい、マサヒロ、お前知ってるか?」



マサヒロと呼ばれたのはでっぷりと太った大柄な男だった。小山を思わせる巨体から丸太のような太い腕と足が突き出ていた。両腕の先にはデカい河原の石を取ってつけたようなゴロンとしたごついこぶしがあった。

頭の側面を刈り上げて頭頂部にだけ残った髪を金色に染め上げている。剃刀で切ったような細い眼と剃りあげた細い眉のせいで怒れる仏像の如き不気味な顔をしていた。



「いや、俺は知らねえな。ケンゴさん知っていますか?」



マサヒロが訊ねたのは腕に蛇の刺青タトゥーを入れた男だった。細身で背が高い。身長は180を超えているだろう。黒いタンクトップの上から同じく黒い半袖のカッターシャツを羽織っていた。黒髪と金髪がまだら状に入り混じった長い髪を後ろでまとめてポニーテールにして垂らしている。高い頬骨と一重瞼の尖った目つきがいかにも剣呑そうな雰囲気を放っていた。



「名前までは知らねえが満月町の何処かに奇妙な占い屋があるってえのは聞いたことがある。法外な料金をふんだくられる代わりに失せ物や未来や過去なんかの知りたいことについて確実な情報を教えてくれるってことだ。だが誰でも行けるわけじゃないらしい。選ばれた客だけが見つけることの出来る不思議な店って話だ。

ま、どうせ都市伝説の類だろうがよ。」


「ヘェー、この満月町にそんな噂話があるんすか。OLのネエちゃんやJKギャル共が喜びそうな話っすね。そんな与太話を信じる馬鹿も居るんすかねぇ~。


オイ、兄ちゃん。 今の話、いい参考になったろ。無駄な努力をしないで済んだってのは大きな利益だぜ。だが世の中ってのは何でも対価ってやつが必要だ。只で手に入るものなんてないってことよ。利益に見合った対価は払って貰わねえとな。今日のところは持ち合わせだけで勘弁してやるから有り金全部置いていけや!」



タカシがどう考えても理不尽極まりない要求を少年に突き付けた。マサヒロとケンゴがニヤニヤ笑いながら少年に近づく。後方では不良女達ヤンキーギャルズが壁のように並んで構えている。逃げ道は既に塞がれていた。



「ハァ―――ァ  またかよ、全く。」



緊迫した場面にそぐわない気が抜けたような声を少年が上げた。マサヒロとケンゴが足を止めてタカシを見る。タカシが怪訝そうな表情で訊いた。



? 何だそのって言うのは?」


「あんた達で五回目なんだ・・・・この町に来てたった二ヶ月の間にさ。人を騙して金取ろうとするのがね。」


「……五回目だぁ? オメエ、四回も金取られてまだ懲りずに同じことやってんのか? 学習しねえ奴だな。そう言うのを間抜けというんだぜ。」


「いや、金は全然取られてないけど・・・あ、でも時間は結構取られたかな。

Time is money って言うからやっぱり金取られたことになるかもな?」


「わけ分かんねえこと言ってんじゃねえ! 金を取られてないだと? 随分、詰めの甘い奴らばかりだったんだな。俺達はそんな手温てぬるい事はしねえよ。今、金を持ってなくても後でキッチリ回収させて貰うぜ。」


「いや前の奴らもおんなじこと言ってたけど・・で、前と同じこと聞くけどどうやって?」


「オメエが泣いて這いつくばってもう許してくれって頼むまでボコボコにするってことさ。まぁ流石に殺しゃあねえがよ。歯の二、三本 アバラの一、二本はぐらいは覚悟しとくんだな。」



明らかに荒事や暴力沙汰に慣れている連中らしい凄味のある脅し文句だった。単なるハッタリやブラフではない迫力があった。普通の高校生などそれだけで竦み上がって過呼吸を起こしてしまいそうだ。だが少年はその恫喝を毛ほども気にしていない様子でただ黙って空を見上げていた。今は梅雨の時期に入っていることもあって空は灰色の雲が広がり月はほんの少し顔を覗かせているだけだった。


その時、遥か上空で風向きが変わったのか雲がゆっくりと流れ始めた。分厚い灰色の緞帳どんちょうが薄皮を剥ぐように徐々に薄くなって空全体に広がっていく。やがて薄絹のベールのような雲を纏いながら月はその真円の姿を現した。空を見ていた少年がぼそりと呟いた。



「やたら血がザワザワして喉が渇くと思ったら・・今宵は満月か。これはちょっと不味いかな?」


「はぁ? 満月がどうしたってんだ。てめえ自分の状況が分かってんのか?

サッサと財布出してこちらに渡しな。」


「悪いけどあんな情報じゃあ金は払えないよ。また今度にしてくれないかな。それと自分の状況はよく分かってるさ。かなりヤバいな。前の四回は満月じゃなかったからどうにかなったけど・・・」



不良達の脅しなどどこ吹く風と言った飄々とした声だった。更にはっきりと金を払う気はないと言い切った。



「舐めてやがんのか? このガキィ・・・」



タカシの声がドスの効いた低いものに変わった。駆け寄りざま少年のシャツの襟首を左手で掴むと自慢の腕力で思いっきり引いた。そのまま額の中で最も固い髪の生え際部分を少年の鼻面に叩き込んだ・・・はずであった。だが実際には引き寄せられたのは己の身体の方だった。結果、10センチ近い身長差が禍いして相手の胸板に自分の鼻を強くぶつけることになった。少年の身体は小動こゆるぎもしなかった。それはまるで地中にどっしりと根を張った巨木のような感触であった。


タカシは戸惑いながらもシャツを掴んだままで今度は右拳を少年の顔めがけて振り抜いた。拳は当たらず空を切った。馬鹿な!と思った。この距離と位置で外すわけなどある筈が無かった。カッとなった彼はもう一度右拳を少年の顔めがけて放った。

しかし結果は同じだった。見れば少年の頬が彼の右腕に触れるか触れないほどのギリギリの位置で躱されていた。それは化け物じみた動体視力と反射神経でしか為しえない業だった。


その時、見上げた位置にある少年の口角がニィッと吊り上がった。唇の両端から覗く犬歯が人のそれとは思えないほどヌゥッと伸びた様な気がした。

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