第一部第一章:642年
港湾都市モヘレブ
第1話 帝国兵
蝋燭の火がテーブルの上で揺れている。
クレメンテ・ドゥーニとジル・イルハムは薄暗い宿屋の一階奥のテーブルで差し向かいに座り、オリーブの酢漬けとチーズ、薄っぺらいハムの載った小皿を前に、薄いエールを飲む。
地の利がまったくない異国の港街だ。
都門外に出ることもできず、二人は波止場のはずれの路地裏に逃げ込んだ。
「部屋は空いているか?」
クレメンテがエールを煽って背凭れに身体を預け、脚を組み替えた時、入り口から黒ずくめの男が入ってきた。
マントを目深に被っているためその表情は見えない。
190センチ近くある長身の男で肩幅も広い黒色のマントを身に纏う下には、同じく黒色の鎧が見え、肘にはバックラー、腰には半月刀を備え、背中には長槍が2本担がれている。
軍人だ。
徹頭徹尾整えられた装備は、街で見かける着の身着のままな多くの傭兵たちと異なる。
「お二人ですか?」
入り口に座っている老婆の娘だろう。髪を後ろにまとめた50がらみの女性がカウンターでにこやかに対応した。
「そうだ」
男が答えた。
その男の後ろにカーキ色のマントを身に纏った人物が立っている。
男と比べると小柄で華奢だ。
フードから細長く白い首筋が見える。
白銀の長髪がゆるく首元にかかっていた。
「前金制ですがよろしいでしょうか?」
「ああ。食事は頼めるか?」
「ええ、一階でお取りください」
女将の返答を聞いて、漆黒のマントの男がこちらのテーブルのほうをチラリと見る。直線的な眉の下の黒い瞳は鋭い。
「分かった」
男は短く答えると、クレメンテの斜め後ろ、1階食堂中央の席に手をかけ、部屋の奥側の椅子を引こうとした。
「いいよ、サレハ。自分でするから」
サレハと呼ばれた黒ずくめの男は頭を下げた。
声から華奢なほうの人物も若い男だと分かる。
お忍びで外出した高貴な身分の男とその護衛兵だと、クレメンテは思った。
お忍びならもっといい宿に宿泊すればいいのにと思った、その時だ。
「ひぃ……ゃあああああああああああああああああああああ!!!!!!」
外から悲鳴が聞こえた。玄関先に座っている老婆のものだろう。裏返って所々高くなったり掠れたりする声が、一層哀れっぽい。
その直後、複数の男たちがドカドカと無遠慮に乱入してきた。
クレメンテとジルは食堂の入口の方に同時に目を向けた。
乱入者は三人だ。
抜き身の半月刀を中段に構えた中肉中背の狐目の男に続いて、四角い顔の棍棒を持った男。
そして最後に、きゅうりのように顎が長い男が長い杖を構えていた。
「クレメンテ・ドゥーニはいるか!?」
大声でクレメンテの名前を呼ぶ。
ジョゼッフォ・バイロウに雇われた男たちが追ってきたのに違いない。
胸元に隠し持っている短剣に手を掛け、テーブルの向こうのジルに目を遣ると、腰をかがめて椅子の脚を掴んでいるのが見えた。
クレメンテとジルは目を合わせて頷きあった。
考えていることは、同じだ。
乱入してきた男たちに椅子をぶつけて入り口に向かって走って逃げる――正面突破しかない。
しかし、男たちは想定外の行動に出た。
「お前がクレメンテ・ドゥーニか!?」
先頭に入ってきた男が中央のテーブルに座っている一際目立つ黒ずくめの男――サレハに背後から近寄って、半月刀をその喉元に近づけた。
「違う」
刃を喉元に突きつけられているにも関わらず、平然と即答するサレハに、狐目の男のほうが怯む。
声色に焦りが混じる。
「クレメンテ・ドゥーニは、色の白い奴隷を連れて逃げていると聞いている。
お前の連れのフードをとってもらおうか?」
――バイロウから、オレの特徴をしっかり聞いてないのか?
クレメンテは苦笑した。
赤毛で中背細身。チャラチャラした自分の、どこをどう見たら、真面目一徹に違いないサレハと勘違いするのか理解できない。
奴隷以前に、クレメンテ本人の情報を聞いておくべきだ。
間抜けな追跡者たちから、さっさと逃げられないかと、クレメンテは隙を覗う。
「断る」
「フードが取れない理由でもあるのか?」
「お前に答える理由はない」
サレハの返事が気に入らなかったようだ。
狐目の男が、対面に座る銀髪の男のフードを取ろうと一歩足を踏み出す。
同時にサレハが狐目の男が半月刀を握る手を掴んで捻り上げた。
呻き声とともに半月刀が床に滑り落ちる。
武器を落とした丸腰の男を、サレハは入口のほうに控えていた仲間のほうへ投げ飛ばした。
投げ飛ばされてきた仲間を避けきれず、三人まとめて床に倒れ込んだ。
サレハは椅子から立ち上がると、呻く男たちに近づき、
「オレはクレメンテ・ドゥーニではないし、連れ合いは奴隷ではない。去れ」
と言った。
三人のなかで一番頑丈そうな棍棒を持った男が身を起こしたが、リーダーがのされてしまって戦意喪失しているらしい。
自分の上で伸びている狐目の男を担ぎ上げると、きゅうり男を蹴飛ばして
「おいっ、出直すぞ!……覚えとけよ!!!」
と吐き捨てると宿を後にした。
男たちが出ていくのを見送って、サレハは女将に声を掛けた
「騒ぎに巻き込んで申し訳ない。被害は最小限にしたつもりだが」
「大丈夫ですよ、ご心配には及びません。
日常茶飯事ですよ、ここでは。慣れています」
「そうか。すまない」
日常茶飯事だと言う女将の言葉を深く追求することはない。
テーブルに戻ったサレハに
「早々にここを出たほうがいいかな?」
とフードを被ったままの男が話しかけた。
「そうですね」
「あの……」
立ち上がろうとするサレハたちに、クレメンテは声を掛けた。
マリゼラ共和国から奴隷を主に扱う交易船に乗ってエラム帝国までやってきたクレメンテは、逃亡中の身である。
雇い主が購入した奴隷300人を、おおよそ三時間前に、全員逃がした。
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