予定外の出来事④


「いいってよ」


 緊張からの解放の所為か、それともお姉ちゃんの責めに疲れたのか、井上先生の声には少し疲労感があった。



 それでも表情には達成感がある。



 口許が僅かに緩んでるのは、自分の意見が通った事が嬉しいからだと思う。



 お礼を言ってスマホを受け取り、「もしもし」と交代した事を示すと、予想外にも電話口にいたのはお姉ちゃんだった。



 あんまり遅くなるんじゃないわよ――と、すっかり認めてくれてる。



 その声の向こうでは未だに喚きに近い琢ちゃんの歌声。



 電話口どころか、お兄ちゃんが近くにいる感じは全くない。



 てっきりお兄ちゃんと話してたと思ってたのに――。



「あれ? お兄ちゃんは?」


『何、あたしじゃ不満だっての?』


「ううん。そうじゃなくて、井上先生と話してたのお兄ちゃんだと思ってたから、てっきりお兄ちゃんが電話に出るかと思ってた」


『話してたわよ。あいつが話したから許可出たに決まってんでしょ。あたしがそんな簡単に許可する訳ないでしょうが。あいつ、話すだけ話してシャワー浴びに行った』


「そっか」


『それよりあんた、本当にいいの? 井上って奴の事そんなに知らないでしょ。そいつに送ってもらうの怖くないの?』


「うん。大丈夫」


『何で?』


「何でって?」


『あんたバカだけど、簡単に人を信用する子じゃないでしょ。特に男に警戒心持ってるくせに、何でそいつだと平気なの』


「だって先生だもん」


『は?』


「井上先生は、先生だから」


『先生じゃなくてただの大学生でしょ』


「でもちゃんと先生だよ?」


 答えた途端に電話の向こうから、盛大な溜息が聞こえてきた。



 直後に、『育て方間違ってんじゃん、あいつ』と呟いて、



『とにかく、あんまり遅くならないようにね。ちょっとクソ兄貴に文句言ってくるから切るよ』


 言うが早いかお姉ちゃんは通話を切った。



 中途半端に放り出された感じになってたから、呆気に取られて暫くスマホを持ったまま立ち尽くしてしまった。



 そんな状態から現実に引き戻してくれたのは、井上先生。



「行くぞ」


 呼び掛けに視線を向けると、井上先生は既にみんなが行ったカラオケ店の方に歩き出してた。



 慌てて追い駆けて並んで歩いた直後、井上先生はチラリと横目であたしを見遣り、



「お前の家、すげえな」


 半ば感心したような声を出した。



「凄い……?」


「普通、姉貴とか兄貴って妹の事にあんなに口出ししてこねえだろ。仲がいいんだろうけど、それにしたって妹に干渉しすぎだろ」


「そうなんですかね? ウチはいつもこんな感じなので、これが普通ですけど……」


「親も顔負けの干渉っぷりだな」


「顔負けっていうか、ウチは親がいないんでお兄ちゃんとお姉ちゃんが親みたいなものだから」


「親がいない?」


「はい。お父さんはあたしが小学生の頃に死んじゃって、そのあとお母さんが再婚して家を出たから」


「は? 母親が家を出たって何だ? 父親がいないんだったら普通は再婚する時に子供連れてくだろ」


「普通はそうなのかもしれませんけど、ウチはちょっと複雑で……」


「複雑?」


「はあ……」


「あ――うん。そっか。そうだな。家庭の事情なんてのはそれぞれに色々あるわな。悪い。無理矢理聞こうと思った訳じゃない」


「あっ、いえ。言いたくないとかそういうのじゃないんです。みんな知ってるし、隠してる訳じゃないから。ただ、上手く説明する自信がないだけです」


「そんなにややこしいのかよ?」


「そうでもないですけど、あたしが説明とか苦手だから……」


「ああ、頭悪いからな」


「はあ……」


 ケケケ――と、意地悪な感じで笑った井上先生は、それ以上我が家の事を聞いてこようとしなかった。



 そんな風だったからだと思う。



 本当に無理矢理聞こうとはしないから、下手でも説明しようと思えたのは。



「えっと、お母さんが再婚するってなった時、家族を養ってるのはお兄ちゃんだったんです」


 説明を始めた直後、順番を間違えたと思った。



「あっ、お父さんがいなかったから」


 だから慌てて順番修正してみたけど、逆にややこしくなったような気がした。



 過去の出来事を話すのは苦手。



 特に家族の事になると、複雑さを理解してるから苦手意識が強くなる。



 ある程度の事を知ってる人に話すとか、質問される事に答えるのは簡単だけど、一から自分で話すとなると、まず出発点が分からなくなる。



 その所為で、いきなり出発点を間違えた。



「あの、もう一回最初からいいですか?」


 細々と修正していくよりも、やり直した方がいいと思ってした問いに、井上先生は顎をしゃくるようにして頷いた。



 その、声を出さない返事に、どういう訳か話しやすさを感じた。



 色々と頭で整理しなきゃいけないから、黙っていてもらえてるのがちょうどいい。



「お父さんが事故で死んじゃってから、お兄ちゃんが働いて家族を養ってくれて。そういう生活を三年くらいしてお母さんが再婚する事になったんです。それで、最初お母さんはあたしも連れて再婚するつもりだったみたいなんですけど、お兄ちゃんが反対したんです。お母さんの再婚相手も再婚で――って、何かややこしいですよね。こういうのって再婚同士の再婚って言うのかなあ? とにかくお母さんの相手の人も離婚した経験があって子供を引き取って育ててて、それであたしを連れてくってなったら、あたしが肩身の狭い思いする事になるからって。それで結局お母さんだけが再婚相手の所に行く事になったんです」


 自分ではちゃんと説明出来た感が満載だった。



 やれば出来るじゃんって自分を褒めたいくらいだった。



 けど、井上先生からすると、色々と疑問が残ったらしい。



 眉を寄せて小さく唸って、「質問はありか?」と聞いてきた。



「分かり辛かったですか?」


「分かり辛くはないけど、重要な点を端折はしょられてた気はする」


「どこですか?」


「まず、何で母親が再婚する時、お前だけを連れていくって話になってたんだ? 兄貴と姉貴の事は最初から連れてく気なかったのか?」


「お兄ちゃんはもう成人してたし、お姉ちゃんはまだ十七歳だったけど学校も行ってなくて殆ど家にいなかったからだと思います。だけどあたしはまだ小学生だったから……」


「なるほどな。まあ、なくはない話だろうな。んでも、兄貴が反対しただけで母親はお前を置いて再婚したのか? 兄貴の言い分は分からなくもないけど、母親はそれだけじゃ納得しないだろ」


「反対したからだけじゃないです。お兄ちゃんとお母さんはその事で何回も話し合いしてたみたいですけど、最終的に決めたのはあたしです」


「お前が?」


「はい。お兄ちゃんがあたしに決めさせるべきだって」


「でも小学生だろ? そんな大事な事、小学生に決めさせるってどうなんだ? いくら本人の事とはいえ、それは酷ってもんだろ。まあ、他人の俺がとやかく言う事じゃないけど。それでお前は兄貴の所に残る方を取ったって事だよな? そりゃ何でだ? 小学生の頃なんか親と離れたくないだろうに」


「お兄ちゃんに言われたからです」


「何を?」


「お母さんについて行くなって」


「は?」


「だからお母さんと一緒に行かないって決めたんです」


「決めたって、お前――え? 何で兄貴の言いなりになる?」


「言いなり?」


「だってそうだろ。兄貴が行くなって言ったから残ったんだろ? 何でだよ? 何で兄貴に言われるがままなんだ?」


「だってお兄ちゃんが言う事には、『はい』って返事するものだから」


「は!? 何で!?」


「何でって何がですか?」


「何で兄貴の言う事には『はい』って返事するんだよ!?」


「そうしろって言われてるから」


「兄貴にか?」


「そうです。それにお兄ちゃんは間違った事は言わないって、お兄ちゃんが言ってます」


「…………」


「お兄ちゃんはこの世の絶対的存在だから、お兄ちゃんの言う通りにしてたら間違いないって」


「…………」


「だから――」


「マジか」


「――はい?」


「すげえな」


「はあ……」


「俺、洗脳されてる奴、初めて生で見た」


 驚きと、ある種の感動が混じったような声を出して、しみじみって感じで井上先生がこっちを見てくる。



 その目は最初、珍妙なものを見るようなものだった。



 でも徐々に感情は変わっていって、最終的には納得したようなものになった。



「でもまあ、お前なら簡単に洗脳出来そうだな」


 独り言のようなその呟きが、どういう意味なのかは聞けなかった。



 井上先生が半ば感心したような声を出した時、みんながいるカラオケ店の前に着いたから、話はそこで終わった。

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