兄妹喧嘩①


「藍子。とても残念なお知らせがある」


 昼過ぎ――といっても夕方近く。



 ゴソゴソと起きてきた翡翠が、未だ残っている昨夜のアルコールを抜く為にシャワーを浴びたあと。



 今朝方帰って来た時にはリビングの食卓の上に置いたはずの財布が、キッチンカウンターの上にある事を不思議に思い、財布の中を見たのが始まりだった。



 冬休みで家にいた藍子は、リビングのソファに座ってテレビを見ていた。



 ちょうどキッチンカウンターの前にいる翡翠に背中を向ける格好だった藍子は、翡翠の言葉に「うん?」と後ろに振り向いた。



――と、同時に。



「我が家に泥棒がいる」


 翡翠は左手に持った自分の財布をヒラヒラ揺らし、藍子を見据えた。



 今朝、翡翠の財布の中には壱万円札が五枚入っていた。



 毎日財布の中を確認している訳ではないが、今朝はたまたま寝る前に、財布にあといくら入っているかを確認していたから金額は分かっている。



 その時は確かに五万円入っていた。



 まだ銀行に行かなくても大丈夫かとまで思ったから絶対に確かである。



 なのに今、翡翠の財布には四万ちょっとしか入っていない。



 正確には四万千円。



 枚数的には変わりないが、金額的に変わっている。



 枚数を合わせてくるという猪口才ちょこざいな細工が、余計に「元はあった」という事を示している。



 当然、外部から誰かが侵入した形跡はない。



 そもそも本当の泥棒が入ったのなら、わざわざお釣りまで入れて九千円だけ持っていくなんて事はしないだろう。



 そうなると、藤堂家で暮らしているのは長男の翡翠と次女の藍子だけだから、犯人は決まったも同然。



 翡翠の視線の先にいる藍子の顔は明らかに動揺している。



「え? 何?」


「我が家に泥棒がいる」


 誤魔化そうとしているのが丸分かりな藍子の声に、翡翠は被せ気味で言葉を繰り返した。



 更に動揺の色を濃くした藍子は、スッと翡翠から目を逸らす。



 基本的に藍子は嘘や誤魔化しが下手くそだ。



 それが証拠に。



「ど、泥棒って?」


 口籠る。



 ソファの背もたれに置かれている手の指先が、落ち着きなくコリコリとソファのレザーを掻く。



 逸らした目もやけに瞬きが多く、これでは自分が犯人ですと白状してるようなものだ。



 だが翡翠は、敢えて強く出たりはしない。



 犯人はお前だろう!と思っていても――それは最初から分かっていたんだが――とりあえずそれを言う事はない。



 頭ごなしに怒っては、欲しい結果が得られない事を翡翠はちゃんと分かっている。



 だから。



「財布の金が減ってる」


 藍子がそれを望むならと、順を追って説明する。



「へ、減ってるっていつからと比べて?」


「今朝」


「け、今朝数えたの!? な、何で!? いつもそんな事しないのに——」


「たまたま」


「…………」


「…………」


「い、いくら入ってたの?」


「五万」


「そ、それがいくらになってるの?」


「四万千円」


「じゃ、じゃあ、数え間違ったんじゃない? 元々四万千円だったのに五万円と間違えてたとかじゃないかな?」


「ほう」


 藍子は掴まれる尻尾丸出しである。



 翡翠は五万とは言っても、それが全て万札だったとは言っていない。



 今ある四万千円も、万札が何枚で千円札が何枚であるのかも言っていない。



 今朝と今の枚数が同じでなければ藍子の言っている「数え間違え」という事もないから、やはり犯人は藍子しかいない。



 ここまで来ると藍子に隠すつもりはあるのかすら疑わしいが、本人は本気で誤魔化してるつもりだったりする。



 だから尚更厄介だと、翡翠は心の中で溜息を漏らした。



「俺が金を数え間違えると思うか?」


「…………」


「俺は数え間違ってない」


「…………」


「確かに今朝は五万あった」


「…………」


「お天道様に誓って、今朝は五万あった」


「…………」


「大事な事だからもう一度言う。今朝は、五万、あった」


「…………」


「どうも我が家には泥棒がいる」


「…………」


「しかもどう考えても、家族の中に、だ」


「…………」


「つまり俺は泥棒の為に働いてるという事になる」


「…………」


「藤堂家の長男が泥棒の為に毎日毎日働いてるなんてご近所さんに知られたら、俺は恥ずかしくって外に出れない」


「…………」


「誰が取ったんだろうなあ」


「…………」


「誰かな」


「…………」


「藍子は誰だと思う?」


「…………」


「分からないか? 俺の言ってる事が分からないか?」


「…………」


「よし、なら話の角度を変えてみよう。もしその泥棒に名前を付けるとしたら、藍子はどんな名前を付ける?」


「…………」


「俺か? そうだな。俺なら何て名前を付けるかな」


「…………」


「まあ、『藍子』だろう」


「…………」


「それ以外にない」


「…………」


「なあ、藍子。もうそろそろいいんじゃないか?」


「…………」


「お兄ちゃんはとっても我慢しているぞ?」


「…………」


「お兄ちゃんの血管がブチギレそうだぞ?」


「…………」


「お兄ちゃんは藍子をそんな子に育てた覚えはないんだがなあ」


「…………」


「お兄ちゃん、育て方間違っちゃったかなあ」


「…………」


「藍子」


「…………」


「藍子ちゃん」


「…………」


「そろそろいい加減に――」


「…………」


「――白状しろ!」


 所詮は藤堂翡翠である。



 いくら働き始めてから我慢を覚えたとはいえ、昔から好き勝手に生きてきたこの男に、欲しい結果を得られないからと感情を抑えるには限度がある。



 家族相手なら尚の事、限度はすぐに超えてしまい、怒鳴った時には当初の目的だった「結果」なんてものはどうでもよくなっていて、この一喝で事態は収束すると確信していた。



 藍子が翡翠に嘘を吐く事は「よくある事」ではないが、「たまにある事」ではある。



 それは決まって怒られたくないから「子供の言い訳」のような嘘を吐く訳で、こうして怒鳴れば藍子は毎回すぐに「ごめんなさい」と謝る。



 それが分かっていた翡翠がすぐに怒鳴らなかったのは、財布から金を抜き取った事も許し難いが、それよりも、抜き取った金を何に使ったのか知りたかったからだ。



 世の保護者がそうであるように、翡翠もまた中学生の藍子に何があったのか気に掛かる。



 普段こんな事をしない藍子だからこそ、何かとんでもない事態に巻き込まれてるんじゃないかと心配になる。



 誰かに恐喝されてるんじゃないかとか、何やら怪しげな薬に手を出してるんじゃないかとか、自分が歩んできた道を踏まえ、翡翠は「世間」というものが十代の子供が思っているより怖いものだと分かっているから放ってはおけない。



 だから下手に怒鳴って怖がらせては、理由という「結果」を得られないかもしれないと危惧して、温厚な態度に出ていた。



 だがもうそんな事はもうどうでもよくなり、謝らせる事を優先した。



 とりあえず謝らせてから無理矢理にでも理由を聞き出してやろうと思っていた。



――が。



「…………」


「な……!?」


 今回は違った。



 謝りもせず、ツンッとそっぽを向いている藍子は、頬を膨らませ唇を尖らせている。



 それはまるで、そこまで出て来ている言葉が出て行かないようにしてるかの如く。



「藍子!」


「…………」


「何だその態度は!」


「…………」


「こっち向け!」


「…………」


「藍子!」


 ひと際大きく怒鳴った翡翠は、「北風と太陽」の話を思い出した。



 頭に血が逆上のぼっていても、どこか「冷静な自分」が翡翠の中にはいる。



 いや、もしかしたら「いつもと違う藍子」に、嫌でも冷静さを取り戻したのかもしれない。



 翡翠は大きく深呼吸をして、藍子がいるソファに近付いた。



 そっぽを向いていても気配を感じたらしい藍子がビクリと小さく体を震わせる。



 本気で開き直ってる訳ではなく、怖いと思ってはいるらしい。



 そこはいつもと変わりないと、心底変わっていない事に翡翠は内心ホッとした。



「藍子」


 ソファの後ろに立った翡翠は、落ち着いた声で話し掛ける。



 それでも藍子はそっぽを向いたまま、頬を膨らませ唇を尖らせている。



 もう一度大きく深呼吸をした翡翠は、自分が「太陽」になった気持ちで、



「怒鳴ったのは俺が悪かった」


 声の落ち着きを継続させ、こっちを見ない藍子に話し掛けた。

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