第45話 美晴ちゃんとお姉ちゃんと、スパダリお兄ちゃん

 大空の下、平野の草むらが風に吹かれて揺れている。


 哀川あいかわさんが父親と決着をつけ、俺たちはバス停へと戻ってきた。


 この後は札幌辺りに出て、観光して帰ろうか……と思っていたのだけど、ここで予想外のことが起こった。


 バス停の看板の裏に、哀川さんそっくりの女の子がいたのだ。


「お姉ちゃんたち、だあれ?」


 艶やかな黒髪。

 宝石のように輝く瞳。

 お人形のごとく整った顔立ち。

 

 それらの美貌に反して、あどけない表情。


 もしも哀川さんが子供だったら、こんな感じじゃないかな……という空想そのままのような女の子だった。


「お姉ちゃんたち、美晴みはるのおウチに来てたよね? お客さま?」


 女の子は可愛らしく小首をかしげる。


 着ているのは白いワンピース。

 陽射しは暑くないけれど、7月だからか、麦わら帽子を被っている。


 この子、もしかして……。


 哀川さんの父親の手紙には、腹違いの妹がいると書いてあった。


 出逢ってしまう可能性は考えていたけれど、まさかこんな帰り際になるとは思ってなかったので、俺は驚きを隠せない。


 一方、哀川さんは冷静だった。

 いや本当は冷静じゃないだろうけど、そうあろうとしているようだった。


 哀川さんは女の子の前で屈み込み、視線を合わせる。


「こんにちは、『みはる』ちゃんっていうの?」

「うん、美晴だよっ」


 屈託のない、うなづきだった。

 そして小さな人差し指が頭上を差す。


「きれいなお空って意味で、『美晴』なの。お父さんがそう言ってたっ」


 きれいな空で『みはる』?

 ……ああ、そうか。『晴れ』って意味か。


 一瞬、『美春』という漢字を連想したけど、どうやらこの子の名前は『美晴』と書くらしい。


 そうなると、もはや疑いようがない。


 哀川さんの名前は『美しい雨』で美雨みう

 そして哀川さんそっくりのこの子は『美しい晴れ』で美晴。


 この子は哀川さんの妹だ。


 哀川さん自身ももう確信しているのだろう。

 とても柔らかい声で美晴ちゃんに話しかける。


「あたしはね、美雨っていうの。よろしくね、美晴」

「みう……?」


 美晴ちゃんは不思議そうに目を瞬いた。

 そしてまじまじと哀川さんの顔を見つめる。


「お姉ちゃんは……美晴のお姉ちゃんなの?」


 一瞬、哀川さんは驚いたように言葉に詰まった。

 

 当然だと思う。

 ぱっと見、美晴ちゃんの歳は6歳か7歳くらい。


 こんな小さな子からいきなり核心を突くような問いがあったんだから、言葉に詰まっても仕方ない。


「どうして、そう思うの?」

「お父さんが教えてくれたの」


 あの父親が?


「美晴ね、おしっこに起きてね、トイレにいったの。そしたらお父さんがお部屋で泣いてて、『お腹痛いの?』って聞いたら、お手紙書いてて……」


 驚いた。どうやら美晴ちゃんは父親があの手紙を書いていたタイミングに立ち会ったらしい。


「美晴にはお姉ちゃんがいるんだよ、って。お母さんには内緒ね、って言って教えてくれたの」


 他人様の父親に対して失礼だとは思いつつ、美晴ちゃんの母親――今の妻には内緒という辺りであの父親らしいな、と思ってしまった。


「あのね、美晴が生まれた時はね、きれいなお空だったんだって。それでお姉ちゃんが生まれた時はきれいな雨が降ってたんだって。だから……」


「……そうよ。だからあたしは『美雨』っていうの」


 苦笑交じりで哀川さんが笑い、俺は思わず訊ねてしまう。


「そうなの?」


「母親がね、酔った時にたまに言うのよ。いつも聞き流してたんだけど、まさかこんなところで同じ話を聞くとはね……」


 そう言う哀川さんの目の前では、美晴ちゃんが期待に満ちた目をしていた。


「美雨お姉ちゃんは、美晴のお姉ちゃんなのっ?」

「ええ」


 ちょっと照れくさそうに哀川さんはうなづいた。


「あなたのお姉ちゃんよ。はじめましてね、美晴」

「おー!」


 歓声を上げ、美晴ちゃんが哀川さんに抱き着いていく。


「やったぁ、お姉ちゃんだーっ」

「きゃっ。あはは、はいはい」


 屈んだままだったので転びそうになった哀川さんの背中を俺が後ろから支える。


 ありがと、と視線でこちらに言い、哀川さんは初めて会った妹を抱き締めた。


「お姉ちゃん、あそぼ、あそぼっ」

「いいわよ。何して遊ぶ?」

「えーとね、おままごと!」


 帰りのバスが来るまではまだ時間がある。

 俺も混ぜてもらって、3人でおままごとをすることになった。


「お姉ちゃんは美晴のお姉ちゃんねっ。美晴はお嫁さんで……じゃあ、お兄ちゃんが美晴のお婿さん!」


「え、俺、お婿さん?」

「うん、お婿さん!」


 おお、なんか大役を頂いてしまった。


 これはしっかりお婿さん役をしなくては……と思っていたら、なんか哀川さんがすごい目でこっちを見ていた。


「逢ったばかりのあたしの妹に手を出すなんて……やってくれるわね、ハルキ君」


「いや、おままごと! あくまでおままごとだから!」


 久々にハイライトの消えた目だった。

 本気で戦慄しつつ、おままごとは進行していく。


 お嫁さん役の美晴ちゃんから、お婿さん役の俺が稼ぎが悪いとお説教をされたり。


 俺の帰りが遅くなった時は、『また浮気したんでしょー!』と詰め寄られたり。


 美晴ちゃんがお姉ちゃんに対して、俺の愚痴を延々と言うシーンもあった。


 ……いや、うん、大丈夫かな?

 美晴ちゃんの養育環境、大丈夫かな?


 まあ、大丈夫なはずないか……。

 あの父親の家庭だもんな……。


「ごめんね、美晴」


 おままごとが一段落し、一休みしていると、ふいに哀川さんがそう謝った。


 彼女は草の上に座っていて、膝には美晴ちゃんが甘えるように寝転んでいる。


「なにがー?」

「美晴のお父さんとお母さん……お姉ちゃんたちがケンカさせちゃったかもしれない」


 その視線の先にはくすんだ灰色の平屋、美晴ちゃんの家がある。


 俺たちが出ていってから30分近く経つけれど、今でもうっすら夫婦の言い合いの声が聞こえてくる。


 哀川さんという隠し子の存在が明らかになったのだから、簡単には沈静化しないだろう。


 父親自身は自業自得だと思う。

 でも美晴ちゃんにはなんの罪もない。

 それを哀川さんは謝ったのだ。


「だいじょーぶだよ。お父さんとお母さん、いっつもケンカしてるし。お皿とか飛ぶし、嫌な言葉とかいっぱい聞くし。だからね、お父さんがおウチにいる時はね、美晴、いつもお外で遊ぶようにしてるの」


「…………」

「…………」


 その言葉に俺と哀川さんは閉口してしまった。


 美晴ちゃんがバス停の看板の裏にひとりでいたのは、両親の不仲のせいだったらしい。


「美晴は……お父さんのこと好き?」

「きらーい。だっていつもウジウジしてるもん」


「お母さんのことは……?」

「きらーい。だっていつも怒ってるもん」


「美晴は今、幸せ……?」

「びみょー」


 哀川さんの膝を枕にして、少女は言う。

 当たり前のように、とても切ないことを。


「幸せって大好きがたくさんあることでしょ? だったら美晴はびみょー。だって美晴に大好きくれる人、ぜんぜんいないもん」


 そう言うと、美晴ちゃんは唐突に体を起こした。

 哀川さんと俺には背を向け、その表情は見えない。


「でもね、お姉ちゃん。美晴はだいじょーぶだよ?」


 まったく大丈夫ではない雰囲気で、美晴ちゃんは指を折って数え始める。


「小学校にいくようになってからね、お友達がたくさんできたの。卓也くんでしょ? 雄二くんでしょ? 大地くんでしょ? あとは……翔太くんとか大和くんも。美晴はかわいいから、優しくしてあげると男の子がお友達になってくれるの」


 跳ねるように立ち上がり、美晴ちゃんがこちらを振り向く。

 

「男の子たちからいっぱい大好きをもらったら、それって幸せってことでしょ? だから美晴はだいじょーぶ。がんばって、がんばって、自分の力で幸せになってみせるよっ」


 ワンピースのスカートがふわりと舞い、美晴ちゃんは笑ってみせる。


 とても可愛い笑顔だった。

 とても可愛いからこそ、ゾッとするような笑顔だった。


 この子は……達観している。

 いや達観してしまっている。


 おそらく、もう諦めているのだろう。


 両親から十分な愛情をもらえることを。

 普通の子供のように当たり前に幸せになることを。


 とても危うい状況だと思った。

 なんとかしなくちゃいけない。


 俺は身を乗り出すようにして声を掛ける。


「あのね、美晴ちゃ――」

「美晴」


 しかしまるで俺を制止するように手を上げ、哀川さんが立ち上がった。


 肩越しに振り向き、柔らかく笑う。


「大丈夫よ。任せて」

「哀川さん……」


 不思議だった。俺は美晴ちゃんの精神状態を危ういものだと思ったけど、哀川さんはそうじゃないらしい。


 驚くほど落ち着いていた。


「北海道に来てよかったわ。自分のことよりも、今の方がそう感じる」


 哀川さんは屈み込み、バス停で会った時のように視線を合わせた。


「美晴、良いこと教えてあげる」

「なあに?」


 美晴ちゃんが浮かべたのは、あどけなさの奥に諦めが込められた表情。


 大人には自分の気持ちなんて分からない、とその目が告げていた。


 でも哀川さんはまったく怯むことなく、優しく微笑む。


「あたしも同じことを考えてたわ」

「え……」


 かなり予想外だったのだろう。

 美晴ちゃんの顔に驚きが浮かぶ。


 一方、哀川さんの微笑みは変わらない。


「男の子に好かれたいって方向じゃなかったけどね。ただ――」


 心を見透かすように美晴ちゃんを見つめる。


「――自分を傷つけたくて仕方なかった」

「……っ」


 美晴ちゃんの瞳が揺れた。

 まるで大波の中の小舟のように、大きな動揺が瞳に映る。


 その頬を哀川さんは優しく撫でた。


「美晴もそうでしょ? 好きでもない男の子たちに優しくして、ちやほやされる自分に満足するフリをして、自分を傷つけてる。違う?」


 思えば、最初の頃の哀川さんは過度に俺を誘惑して、自分を傷つけさせようとしていた。


 ああ、そうか。


 今の美晴ちゃんは、あの時の哀川さんと同じなんだ。


「なんで……」


 美晴ちゃんの声が震える。


「なんで美晴の気持ちわかるの……?」

「わかるわよ」


 心を溶かすような微笑みで、哀川さんは唇に弧を描く。


「だって、お姉ちゃんだもの」

「……っ」


 ぽろぽろ、と小さな雫がこぼれ始めた。

 涙を流し、しゃくり上げ、美晴ちゃんはすがるように尋ねる。


「どうすればいいの……? お姉ちゃん……。美晴、どうすれば幸せになれる……?」


 ああ、頭の良い子だな……と思った。


 本当は哀川さんにすがりつきたいのだろう。


 でも美晴ちゃんは理解している。


 目の前の『お姉ちゃん』がずっと自分のそばにいられる存在ではないことを。


 あとほんのわずかな時間が過ぎれば、立ち去ってしまう相手であることを。


 だからすがりつくことは出来ない。

 だからこそ、すがるように尋ねることしか出来ない。


 そんな妹の頬を哀川さんはあやすように、また優しく撫でる。


「大丈夫、安心しなさい。どうすればいいか、お姉ちゃんは知ってるから」


「ほんと? どうするの? どうしたら美晴は幸せになれるの……!?」


 必死な妹を見つめて、哀川さんは静かな声で、でも力強く告げる。


「――たったひとりを見つけなさい」


 風が吹いた。

 大空から吹き込んだ風が美しい姉妹の黒髪を撫でていく。


「たくさんの男の子の大好きなんていらない。美晴のことを想って、美晴のために頑張って、美晴のために走って、吐いて、寄り添って――あなたの人生を変えてくれる、たったひとりの人を見つけなさい」


 幼い少女にとって、それはきっと途方もないことに聞こえたのだろう。


 そんな人いない、と美晴ちゃんの目が言っていた。

 でもやっぱりこの子は頭が良い。


 すぐにハッと気づいた顔になって、美晴ちゃんは俺の方に視線を向けた。


 そして――。


「お姉ちゃんは……」


 確認するように恐る恐る尋ねる。


「……お姉ちゃんは見つけたの?」


 その瞬間、哀川さんはこっちが恥ずかしくなるくらいの、とびっきりの笑顔で笑った。


「だから美晴の前ここにいるのよっ!」


 直後、今日一番の風が吹いた。


 爽やかな風が吹き込み、草原が揺れ、草の切れ端が飛び、すべての憂いを吹き飛ばすように風が空へと舞い上がる。


 その風に導かれるように、美晴ちゃんの顔に見る見る安堵と喜びが広がっていく。


 自分と同じ痛みを抱いていた、姉。

 その姉が指し示してくれた、希望。


 それが美晴ちゃんにとってどれほどの救いになるのか、想像しても余りあるものだった。


 泣き笑いの表情で美晴ちゃんは尋ねる。


「お姉ちゃんは今……幸せ?」

「もちろん! すっごくすっごく幸せよ!」


 哀川さんが間髪をいれずに答え、俺もこれは負けてられないと美晴ちゃんの前に屈み込む。


「君のお姉ちゃんは俺が一生幸せにします。ずっとずっと笑っていられるように、俺がそばで一緒に歩いていきます。だから安心して。お姉ちゃんの幸せは俺が守るよ」


「……っ」


 すると、俺の言葉が最後の一押しになったらしく、美晴ちゃんはとうとう泣き出してしまった。


 大きな声で泣きながら、でも心底救われたように笑っている。


「見つけるぅ! 美晴もお姉ちゃんと同じに……お兄ちゃんみたいな男の子ぜったい見つけるぅーっ!」


 お、おお……。

 なんか、美晴ちゃんの中で俺が希望の象徴みたいになってしまった。


 責任重大だ。

 でも背負い甲斐のある責任だった。

 全身全霊で背負おわせてもらおうと思う。


 それから哀川さんは美晴ちゃんに連絡先を書いて渡した。


 困ったことがあったらすぐに電話してきなさい、と言って。


 それを横で見ながら、俺はバイトの日数を増やそうと決めた。もし美晴ちゃんが助けを求めてきた時、またすぐこの土地へ来られるように。


 やがて、バスが来た。

 俺たちが後部座席に座ると、美晴ちゃんはバス停からいつまでも手を振ってくれていた。


「来てよかったね」

「そうね……今、あの子に逢えて本当に良かった」


 そう話しながら、俺たちは美晴ちゃんに手を振り返す。



 ………………。

 …………。

 ……。



 ちなみに。

 ここから数年後。


 中学受験を機に美晴ちゃんが上京してきて、哀川さんと仲睦まじい姉妹関係が始まったり、なぜか俺が『初恋の相手』認定されてしまって大騒ぎになったりするのだけど――それはまた別のお話。



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次回更新:木曜日

次話タイトル『第46話 もう君への好きを止められない(哀川さん視点)』

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2025年1月9日 12:02

哀川さんは都合のいい女になりたい 永菜葉一 @titoku

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