第6話 心の中の声

その夜、理恵は木村と過ごした穏やかな時間を思い出しながら、自宅のソファに腰を下ろしていた。彼との散歩はまるで、時間が過去と現在を繋ぐ懐かしい感覚を呼び起こすものだった。木村と手を繋ぐことはなかったが、二人の心が静かに通い合うのを確かに感じた。


理恵は、頭を枕に預け、深く息を吐き出した。


「48歳で、こんな気持ちになるなんて……」


彼女は自分の胸に手を当て、その鼓動の速さを確かめた。大人として、人生の浮き沈みを経験してきたはずの自分が、まるで少女のようにときめくなんて想像もしていなかった。だが、それでも木村と過ごす時間が、自分の心に確かに影響を与えていることは明白だった。


理恵は思わず微笑んだが、その笑顔はすぐに曇り始めた。


「でも、私は本当にこれでいいのかしら……?」


その疑問が、彼女の胸に突き刺さる。48歳という年齢で、再び恋愛に踏み込むことは、果たして現実的なのだろうか。過去に一度結婚し、家庭を築いたものの、今は独り身となっている。木村もまた離婚を経験し、再び自分の人生を見つめ直している最中だ。


理恵は、自分が木村に対して感じている感情が「恋愛」なのか、それともただの「懐かしさ」なのか、まだ判断がついていなかった。心の中には、かつての初恋の思い出と、今の彼との再会によって揺れ動く感情が入り混じっている。だが、それが本当に恋愛に発展するべきものなのか、それとも自分の中で整理すべき感情に過ぎないのか、理恵は戸惑っていた。


次の日の朝、理恵はいつものように職場に向かったが、仕事に集中することができなかった。頭の中には、昨日の木村との時間が浮かんでおり、心が不安定な状態にあるのを感じていた。会議中、若手社員の木下が提案している内容を聞きながらも、理恵はどこか上の空だった。


「部長、どう思われますか?」


ふと、木下の声で現実に引き戻された理恵は、一瞬言葉に詰まったが、すぐに笑顔を作りながら答えた。


「あ、ごめんなさい。そうね、悪くないアイデアだと思うわ。もう少し詳細を詰めてくれるかしら?」


木下は満足げに頷き、会議はそのまま進行していったが、理恵の心は依然としてざわついていた。彼女は何とか気持ちを落ち着けようとしたが、木村への想いがどうしても頭から離れなかった。


「このままじゃ、ダメね……」


理恵は自分にそう言い聞かせながら、昼休みに少し外の空気を吸おうとオフィスを出た。歩きながら、理恵は木村にメッセージを送ろうかどうか迷っていた。再び彼と話すことで、少しは気持ちが整理できるかもしれない。だが、その一方で、彼との距離をどう保つべきかという不安もあった。


午後、理恵は仕事を終えて家に帰る途中、ふと六本松のカフェの前で足を止めた。木村と最初に再会した場所だ。この場所が、二人の関係の新しい始まりとなったことを思うと、何とも言えない感慨深さが湧いてきた。


理恵はカフェの中をちらりと覗いてみたが、そこには木村の姿はなかった。彼はきっと仕事か、あるいは別の場所で過ごしているのだろう。だが、その場所に立ち尽くすだけで、彼の存在が理恵にとってどれだけ大きなものになっているのかが分かった。


「私は、本当に木村くんのことを……」


その瞬間、彼女の心に浮かんだのは、「好き」という言葉だった。理恵は、自分がその感情を抱いていることに初めて気づき、驚きと同時に戸惑いを感じた。再び恋愛感情を抱くなんて、考えてもいなかった。それでも、その気持ちが確かに存在することを認めざるを得なかった。


帰宅後、理恵は何も手につかず、ただぼんやりと部屋の中を歩き回っていた。頭の中では、木村のことばかり考えている。自分が彼に対して何を求めているのか、そして彼が自分に対してどんな感情を抱いているのか、それが分からないのが不安だった。


「私、このままじゃダメね……」


理恵は再びソファに座り、深く息を吐いた。彼ともう一度会って、話をする必要がある。自分の気持ちを確かめるためにも、木村と向き合うことが重要だと感じた。理恵はスマホを手に取り、木村にメッセージを打ち始めた。


「木村くん、今度、もう一度会えないかしら?少し話したいことがあるの」


送信ボタンを押すと、理恵は少し緊張した気持ちで待った。彼がどう返事をするのか分からなかったが、今は自分の気持ちに正直になるしかないと思っていた。


しばらくして、木村から返信が届いた。


「もちろん。今週末はどうかな?ゆっくり話そう」


理恵はそのメッセージを見て、ほっとした。彼もまた、自分と同じように再び会うことを望んでくれている。それが分かっただけで、少しだけ気持ちが落ち着いた。


週末、二人は再び六本松で会う約束をした。理恵はその日が来るのを待ちわびながらも、心の中で何度も自分の気持ちを整理しようとしていた。彼との再会が何をもたらすのか、それはまだ分からない。だが、自分の心が木村に向かっていることだけは確信していた。


そして、週末が訪れた。理恵はいつものように六本松のカフェに向かい、木村を待っていた。心臓が少し高鳴っているのを感じながら、彼が現れるのを待ち続けた。


ドアが開き、木村が入ってきた。彼はいつもと変わらない笑顔で理恵に手を振り、彼女の前に座った。二人の間に漂う空気は、穏やかでありながらもどこか緊張感があった。


「ありがとう、来てくれて」


理恵は静かに言った。木村は軽く頷きながら答えた。


「こちらこそ、ありがとう。話があるって言ってたけど……どうしたの?」


その問いに、理恵は一瞬躊躇したが、深呼吸をしてから口を開いた。


「私ね……木村くんのこと、ずっと考えてたの。再会してから、何度も……。そして気づいたの。私は、やっぱりあなたが好きなんだって」


その言葉が出た瞬間、理恵の心臓は大きく跳ねた。彼女は、自分の気持ちをようやく言葉にできたことに安堵と不安を感じた。木村の反応がどうなるのか、彼女は息を詰めて待っていた。


木村は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに優しく微笑んだ。


「理恵さん……俺も同じだよ。君と再会してから、ずっと君のことを考えてた。昔も、そして今も……」


彼の言葉に、理恵は胸が熱くなるのを感じた。二人の心がついに通じ合った瞬間だった。

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